【コラム】ザ・障害者(20)

人間は偏見を持つ動物=想像力と差別は根底でつながっている

堀 利和

 次の文章は、月間文芸誌「新潮」11月号の編集後記である。

 「新潮45」2018年10月号の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」について、小誌の寄稿者や読者から多数の批判が寄せられました。
 同企画に掲載された「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」において、筆者の文芸評論家・小川榮太郎氏は「LGBT」と「痴漢症候群の男」を対比し、後者の「困苦こそ極めて根深かろう」と述べました。
 これは言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます。
 このような表現を掲載したのは「新潮45」ですが、問題は小誌にとっても他人事ではありません。だからこそ多くの小誌寄稿者は、部外者でなく当事者として怒りや危機感の声をあげたのです。
 文学者が自身の表現空間である「新潮」や新潮社を批判すること。それは、自らにも批判の矢を向けることです。
 小誌はそんな寄稿者たちのかたわらで、自らを批判します。そして、差別的表現に傷つかれた方々に、お詫びを申し上げます。
              *
 想像力と差別は根底でつながっており、想像力が生み出す文芸には差別や反差別の芽が常に存在しています。
 そして、すぐれた文芸作品は、人間の想像力を鍛え、差別される者の精神、差別してしまう者の精神を理解することにつながります。
 「新潮45」は休刊となりました。しかし、文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います。
  2018年9月28日
  「新潮」編集長・矢野 優

 この編集後記の中で私の目に留まったのは、「想像力と差別は根底でつながっており」という一文であった。この基本的な認識は、以前より私が機会あるごとに書いてきた「人間は偏見を持つ動物である」と同様の思想と重なるからである。日常生活の中であれ、芸術や文学作品、芸能やその他表現においても、想像と偏見はギリギリのところで裏腹の紙一重の関係にあると言っても過言ではないであろう。その危うさはどうしても避けて通れない。だから、表現や言論の自由が問題になるのである。

 動物は本能に従って行動する。自然界の中でたとえ学習したにしても、それは本能に転化する。だから、動物は偏見を持たない。ビーバーが巣(ダム)を作るにしても、人間が予め設計図を書いてダムを造るのとは明らかに違う。人間は頭の中で想像して設計図を書く。つまり、人間は動物と違って想像力をもって行動する。想像する、類推する、推察するのである。

 しかしながら、一連のこうした意識作用、精神作用は同時に偏見や差別も生み出す。目にしたたった一つの事象に対しても、想像と類推をもって、あたかも全てを推し量り、全体を体系づけようとさえするのである。その限りでは偏見はきわめて人間的、だがそれは至って非人間的でもある。だからこそ、私たちは常に「人間は偏見をもつ動物である」と自覚し、常にそれを検証しなければならない。
 といって、私がいうこの「偏見」は人間的で可愛くもある。しかし、その一方には非人間的で可愛くもなく、悪質なものも多数ある。つまり、目の前の「同じ」事象であっても、それをどう理解し、どう表現するかである。その分かれ目は、認識主体の思想的立場に深く関わってくる、そう言ってもよいのではなかろうか。

 「想像力と差別は根底でつながっており」、その「根底」とは何かである。そしてそこにもう一つ関わってくるのが「表現」、芸術や文学、思想といったものであればなおさらである。とどのつまり、表現と出版、言論の自由の問題でもある。

 原則としては、という言い方をあえてするのも実はヒトラーの『我が闘争』を念頭においてのことであるから、少なくとも国家権力にではなく、市民大衆がそれを自由に、「自由」を自由に選択決定づけること、その必要性、その力を、私たちは持つべきであると考える。国家権力にではなく、表現も出版も、そして言論の自由も、その受け手である私たち市民大衆がそれを決定づけることが極めて重要である。悪質な出版を差し止めるのも、私たち次第である。「新潮45」の廃刊はその意味では当然のことであろう。偏見や差別、ヘイトクライムは許されるべきではないからだ。

 (元参議院議員・共同連代表)

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