【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

中東に再び緊張激化が懸念されるネタニヤフ新政権の発足

荒木 重雄

 イスラエルに昨年暮れ、同国史上「最右翼」とよばれる新政権が誕生した。
首班は、またもやネタニヤフ氏。汚職事件で起訴されて2021年に退陣するまで、通算15年、政権を握り、そのあいだ、パレスチナ問題では強硬姿勢を取りつづけ、和平交渉は停滞した。
そのネタニヤフ氏率いる右派政党「リクード」を中心に、極右政党の「ユダヤの力」「宗教シオニズム」、宗教政党「シャス」などが加わったのだ。

 新連立政権は発足に当たり、「ユダヤ人はイスラエルの全ての土地に独占的で議論の余地のない権利を持つ」と宣言し「政府は入植活動を促進する」と謳った。その「全ての土地」には、パレスチナが将来的な国家の領土と位置づける占領地ヨルダン川西岸や、イスラエルがシリアから軍事力で奪ったゴラン高原も含まれる。国内外からの反発や批判は織り込みずみだ。

◆尽きることない葛藤を抱えて

 ネタニヤフ元首相の「強いイスラエル」の主張を支持するか否かが、昨年11月の総選挙での焦点だった。これは、彼が2度目の首相就任を果たした2009年以来、7回の選挙で繰り返されてきた争点の構図だが、5回目の勝利を得たのである。
 
 「反ネタニヤフ」を掲げて右翼や左翼にアラブ政党までもが結集した前ラピド連立政権は、パレスチナ問題は「棚上げ」し、経済政策などに注力する「実務型」政権運営をめざしたが、折からのロシアのウクライナ侵攻のあおりなどで生活費は高騰し、野党からは逆に肝心の経済政策の失敗が喧伝されるはめに陥った。さらに、イスラエルの占領に抵抗するパレスチナ人らによる襲撃事件などが相次ぎ、治安部隊による「対テロ作戦」の強行と相俟って社会が荒んだ。
 こうした状況下で、ネタニヤフの「強いイスラエル」の主張が効を奏したのである。
 
 パレスチナでは、昨年、ヨルダン川西岸で生まれた新手の武装集団が、注目を集めている。「ライオンの巣穴」と名乗る、数十人の若者で結成された集団で、イスラエル軍やユダヤ人入植者への襲撃を繰り返し、襲撃の様子を撮影した動画をネットで拡散させて知名度を高めた。
 既存の抵抗組織、「イスラム聖戦」や「ハマス」、パレスチナ自治政府などとは一線を画し、ただただ武力によるイスラエルの占領からの解放を掲げる「新しさと解りやすさ」が、若者たちを惹きつけ、不満の受け皿になりはじめているといわれる。
 
 なんとも先の見えないイスラエル・パレスチナ関係だが、ここでその経緯を思い起こしておこう。

◆ことは理不尽な占領に始まる''''

 そもそもパレスチナ問題とは、極々簡単にいえば、従来、パレスチナ人(アラブ系)が住んでいた地中海東岸の一画に、19世紀末から、とりわけ第2次世界大戦を通じて、ここを「故地」と主張するユダヤ人が欧米から入植し、1948年、一方的にイスラエルの建国を宣言して、70万人に及ぶパレスチナ人を武力で追い出したことに始まる。
 
 これを認めぬ周辺アラブ諸国はイスラエルと戦火を交えたが、欧米の支援を背に連勝を続けるイスラエルは、67年の第3次中東戦争で、さらに、ゴラン高原、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ、などを占領して領地を拡大した。
93年のオスロ合意でヨルダン川西岸とガザに暫定的なパレスチナ人の自治が認められたが、イスラエルはその自治区へ国際法違反のユダヤ人入植を押し進め、さらに分離壁を巡らして自治区を隔離・分断し、パレスチナ人の抵抗運動には過酷な弾圧を加えてきた。
 
 国連に代表される国際社会は、第3次中東戦争での占領地からイスラエルが撤退し、そこをパレスチナ国家として両者が共存する「二国家解決」を基本合意とし、占領地での入植を止めること、東エルサレムを将来のパレスチナの首都に留保することを繰り返し要求しているが、イスラエルは無視し続けている。
 
 因みに、93年のオスロ合意に署名したラビン首相などによる中東和平推進の動きに反対して96年に登場したのが、ネタニヤフ首相であった。スキャンダルで一旦は失脚したが、2009年に首相に返り咲くや、ユダヤ人入植地の拡大などパレスチナへの強硬姿勢を貫き、14年にはガザ地区に地上部隊を侵攻させ、パレスチナ側の2000人以上の命を奪った。また、21年の退陣間際にも、ガザ地区へ大規模な空爆を実施し、パレスチナ側に250人以上の死者と2000人近くの負傷者をもたらした。

◆政権発足早々に閣僚が挑発

 さて、新政権発足まもない1月早々、極右政党「ユダヤの力」党首で、こともあろうに国家安全保障相に就いたベングビール氏が、ユダヤ教では「神殿の丘」、イスラム教では「ハラム・シャリーフ」とよばれ、両方の宗教にとって聖地とされるエルサレム旧市街の丘を、護衛の治安部隊を引き連れて訪れ、早速に物議をかもした。
 
 第3次中東戦争でイスラエルが占領したこの丘は、国際的な取り決めで、占領前に統治していたヨルダン政府傘下の組織が管理し、イスラム教徒は礼拝ができるが、ユダヤ教徒らは訪問はできても礼拝は認められない決まりになっている。
ベングビール氏はかねてよりこの現状を変更すべしと公言していた。

 イスラエル政府要人らのこの地の訪問は、過去に何度も、イスラエル治安部隊とパレスチナ人との大規模な衝突に発展した経緯がある。2000年には、当時野党だった「リクード」党首シャロン元首相の訪問がきっかけで、「第2次インティファーダ(反イスラエル民衆蜂起)」とよばれる軍事衝突が発生した。イスラエル側の爆撃機や戦車を動員した攻撃に対して、パレスチナ側は、投石やロケット攻撃、自爆攻撃で対抗する戦いが5年間も継続し、そのあいだの戦闘員と民間人を含めた死者数は、推定で、パレスチナ側3000人、イスラエル側1000人、外国人64人とされる。前述21年のネタニヤフ前政権退陣際のガザ空爆も、きっかけはこの聖地訪問を巡ってのことであった。

 このたびは衝突の事態こそ避けられたが、こうした経緯を熟知した上でのベングビール氏の行動に、挑発の意図があったことは明らかであろう。
この先どのような事態が待ち受けているのか、懸念深まる新政権の発足である。

(2023.2.20)
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