【コラム】
中国単信(70)
中国茶文化紀行(8)茶聖陸羽
茶で「聖人」になった陸羽。世界最初の茶に関する専門書を著した陸羽。遺児、寺院育ち、俳優、任官辞退、狂人、茶書著作、そして茶を廃らせる論など、異彩を放つ人生だった陸羽。
茶に多少とも興味のある人なら、この陸羽という名を聞いたことがあるに違いない。中国茶文化の歴史ばかりか、世界の茶文化の歴史を語るに、陸羽抜きでは語れない。
中国の唐代の8世紀後半に、茶文化を確立させた陸羽は、彼の生存中は無論のこと、宋・元・明・清などの王朝を経て現代に至るも、なお人びとから尊敬され、話題にされ、研究されてきている。
◆ 一 偉大な著作『茶経』
『茶経』の邦訳はこれまで数種類刊行されていて、それだけ日本でも重んじられていることがわかる。『茶経』は「一之源、二之具、三之造、四之器、五之煮、六之飲、七之事、八之出、九之略、十之図」の十部より構成されている。簡単にその内容を紹介しておく。
【一之源】:茶の本来の姿、産地や茶に相応しい環境など、茶という植物の特性。
【二之具】:餅茶の製造器具。
【三之造】:茶の製造方法。
【四之器】:煎茶・飲茶器具。
【五之煮】:茶を炙る方法、煎茶に用いる火と水、茶を煎じる方法など。
【六之飲】:各種の茶の利用方法及び煎茶の飲み方。
【七之事】:陸羽までの茶人茶事を年代順に記載している茶に関する歴史資料。
【八之出】:各地の茶の品質を比較し、当時の茶産地を列挙。
【九之略】:煎茶の略式。
【十之図】:『茶経』の図解への推奨。
『茶経』が総合的な茶の専門書であることがわかる。しかし、「総合的に茶を詠んだ」作品として見るなら、『茶経』より五百年近く前に、すでに中国最初の茶を詠んだ作品として杜育(?~311)の『荈賦』がよく知られている。少し長いが『荈賦』を見てみよう。
霊山惟岳、 霊山はきびしい山。
奇産所鐘、 珍しい産物があつまるところ。
厥生荈草、 厥に荈草が生じ、
彌谷被崗。 谷をわたり、崗をおおう。
承豊壌之滋潤、 豊かな土壌の潤い、
受甘霊之霄降。 甘露のような夜露の潤い。
月惟初秋、 季節はまさに初秋、
農功少休、 農作業の手を休めて、
結偶同旅、 仲間たちと一緒に、
是采是求。 これを採り、あれを求める。
水則岷方之注、 水は岷江から注ぎ、
挹彼清流。 その清流をくむ。
器澤陶簡、 器は質素な陶器で、
出自東隅、 東方のものを選ぶ。
酌之以匏、 水を汲むにはひさごで、
取式公劉。 その方式は公劉のもの。
惟茲初成、 お茶が入ると、
沫沈華浮、 沫が沈み、華(湯の花、或いは湯の泡であろう)が浮ぶ。
焕如積雪、 積雪のように輝き、
曄若春敷。 春の野原のように華やかだ。
この『荈賦』、内容の豊かさで『茶経』に遙かに及ばない。また、詩と茶書としての表現方法も異なり、時代も隔たり、喫茶の発展状況も異なるため、同一に比較はできないが、『荈賦』から内容に関わるテーマを抽出すると、「産地」「環境」「製造」「水」「道具」「喫茶」となる。
「テーマ」だけで『荈賦』と『茶経』を見ても、陸羽が「テーマ」を追加しているのが一目瞭然である。「なに」を使うべきか、言い換えれば、茶文化に「なに」があるべきか、それこそが陸羽の茶文化の「選択眼」であった。ちなみに、上記列挙した『茶経』十部の内容構成は現在でもほぼ変わらず、今の中国茶文化の構成構図である。
『茶経』での中国茶文化の定義こそ、陸羽が茶文化を樹立したとされる最大の理由である。
◆ 二 陸羽の取捨
『茶経』は茶文化を総合的に纏めているが、陸羽は百科事典のようにはしなかった。たとえば、各種の喫茶方法に関する記述がその代表例である。陸羽以前にいくつかの異なる喫茶方法が存在したことはすでに紹介した。陸羽は『茶経』で餅茶を用いる「煎茶法」についてだけは道具、手順、注意点など細かく紹介し、推奨しているが、他の喫茶方法については、詳細な紹介を避けた。このような「全面的」「網羅的」ではない記述方法が「煎茶法」ブームを起こし、唐の一時代を画した。
しかし、現在の日本茶道と比較すると、『茶経』には二点の「不足」が感じられる。
一 手前に関する考案の不足。
二 喫茶思想(心理)に関する記述の不足。
確かに陸羽は日本茶道のような「厳格な」手前を考案しなかった。その理由は、中国茶人は茶を淹れる過程(手順、手前)より、茶を飲むこと、そして茶の色・香・味を重視したため、茶を淹れるのは使用人任せというのも珍しくなかった。また、中国茶文化の担い手は知識人(文人)で、茶を趣味と捉えていて、寺院・和上を経由して茶を輸入、その後、生まれた日本茶道のような「修行精神」が希薄だった。なによりも中国の文人たちは「趣味」を枠に嵌めず、個性、自由を好んだからであった。
これは歴代の文人たちが陸羽を踏襲したというより、陸羽の考え方が文人心理に合致したわけで、「手前」を重視するか否かは、日中茶道の最も大きな相違点であった。陸羽は中国茶文化の特徴を最初から生み出していたのである。
ところが、1990年代に中国で新しい茶文化ブームが起こり、日本茶道を参考に「手前」を重視する動きが活発になっている。この中国茶の「手前ブーム」には特徴がある。
(1)動作の規範というより優雅さを追求する。
(2)手前を強調しても、手前は美味しい茶を淹れる手段に過ぎないから、やはり味への追求が重要。
(3)職業訓練の側面がある(茶芸館従業員資格取得のための職業訓練)。
(4)どの手前の流儀であろうと、茶人は自分の個性を加える。
こう見れば、現代の「手前ブーム」は、陸羽が樹立した「個性重視」の中国茶文化の特徴から逸脱していないようである。
喫茶思想、つまり喫茶の精神文化について、陸羽は触れていなかった。喫茶思想は陸羽前後の数多くの茶人により触れられ、少しずつ充実してきたもので、唐代の盧仝はその代表格である。筆者は『茶詩に見える中国茶文化史の変遷』で、陸羽を「現実派」、盧仝を「理想派」と論じた。盧仝については後述する。
◆ 三 「聖人」は「神様」へ
『新唐書』の「陸羽伝」に「羽嗜茶、著経三篇、言茶之原・之法・之具尤備、天下益知飲茶矣。時鬻茶者至陶羽形、置煬突間、祀為茶神」(陸羽は茶を嗜好して、『茶経』三篇を著したが、茶の起源・茶の作法・茶の道具についての論述が尤も完備した著作である。天下はますます飲茶を知るようになった。その時、茶を売る者たちは陸羽の像を陶製し、これを竈と煙突の間に置いて、茶神として祭るほどである)とある。
現代では一般的に陸羽は「茶聖」と呼ばれているが、千年以上も前にすでに神様扱いを受けていたのである。
中国では商売繁盛やゲン担ぎのために、自分の神様を祭る習慣は決して珍しくない。その代表例は「関羽」であろう。今でも香港などで「関羽人気」は健在で、関羽が義理堅いとされているからである。「義理堅い人間」は信用できるし、金の不正もしないという俗信から関羽を商売の神様としているのである。
さて、陸羽はなぜ「茶商売」の神様に選ばれたのか?
陸羽は茶文化の創始者であり、権威であり、茶文化の象徴的人物という理由を挙げれば、やや大雑把ではあるが、納得できるかもしれない。しかし、「権威」「アイドル」ならば、陸羽の陶人形は店の目立つ場所に置くべきだろう。「陸羽の権威=店の信用」という構図で客にアピールできるはずである。しかし、資料によれば、陸羽の陶人形は竈と煙突の間、つまり基本的に客の目に触れないところに置かれるのである。
茶製品の商品化(『僮約』)と茶の湯の商品化(『封氏聞見記』)をすでに紹介したが、『茶経』で陸羽は喫茶道具を一式として完備させ、細かく紹介していた。そのため陸羽の喫茶様式に従えば、喫茶道具一式が購入されることになるだろう。つまり、陸羽のお陰で商人たちには新しい商品ジャンルができたわけである。この事実から、商人は自分たちの目だけが届く竈と煙突の間に陸羽の陶人形を設置するようになっても不思議ではないだろう。
陸羽が祭られる理由、そして陸羽の陶人形が設置される場所については筆者の推測に過ぎないが、陸羽の『茶経』が新しいビジネスチャンスを創出したことは間違いないだろう。
(大学教員)
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