【コラム】
中国単信(70)

中国茶文化紀行(7)北方へ向かう喫茶文化

趙 慶春


 魏晋南北朝時代にはすでに喫茶習慣が普及していた南方に対し、少なくとも二百年以上あとの唐代の開元年間(713年~741年)に入ってから、ようやく北方にも広がり始めた。
 陸羽とほぼ同時代の封演の『封氏聞見記』巻六「飲茶」には、次のようにある。

 「南人好飲之、北人初不多飲。開元中、泰山霊巌寺有降魔師、大興禅教。学禅、務於不寐、又不夕食、皆許其飲茶、人自懐挟、到処煮飲、従此転相倣效、遂成風俗。自鄒(今山東鄒県)、齊(山東臨淄)、滄(河北滄州)、棣(山東恵民)、漸至京邑、城市多開店舗、煎茶売之。不問道俗、投銭取飲」。

 「南方の人は茶を飲むことを好み、北方の人は最初はあまり飲まなかった。開元年間、泰山の霊巌寺に降魔師という禅僧がおり、大いに禅宗を興していた。禅を学ぶには、寝ないことが大事であるし、また夕方以後一切食事を取ってはいけない。ただ飲茶が許される。そのため誰もが茶を携帯し、常に煮て飲んだ。それが次から次へと伝わり、やがて風習となった。鄒・斉・滄・棣から、次第に洛陽と長安の両都にまで及び、大きな街には店で茶を煎じて売った。どんな人でもお金を出して飲んだ」。

 この記述から以下のことがわかる。
1、喫茶が北方(現在の内蒙古自治区や東北地域ほど北方ではない)の中原地域に流行し始めたのは開元年間から。
2、北方での茶の流行の契機は禅が大いに関わっていた。喫茶の普及に仏教・禅に頼るところが大きい点は、日本の喫茶文化の普及と非常に似ている。

 また、楊華の『膳夫経手録』には「茶古不聞食之、近晋・宋以降、呉人採其葉煮、是為茗粥;至開元、天宝之間、稍稍有茶;至徳、大歴遂多;建中已後盛矣……関西山東閭閻村落皆喫之、累日不食猶得、不得一日無茶也。(茶は古代にはこれを食べたとは聞いたことがない。晋・宋以降、呉の人々はその葉を採り、煮て茶粥とした;開元・天宝年間に至って、少し茶が現れ、至徳・大歴年間に多くなり、建中年間以降、盛んになった……関西及び山東の村々では誰もが茶を飲み、連日食事を取らなくても、一日でも茶を欠かすことはできない)」とある。

 茶の北方への普及に関して、陸羽も記録を残している。『茶経』「六之飲」に「滂時浸俗、盛于国朝。両都並荊渝間、以為比屋之飲。(茶は時と共に民間にまで広まり、唐の時代に盛んとなった。両都ならびに荊・渝の間では誰もが飲む物となっている)」。

 封演と楊華の記録は普及の時期について、表現は異なるが矛盾はしていない。また地域に関しても、楊華の「関西・山東」と『封氏聞見記』の「鄒・斉・滄・棣から、洛陽と長安の両都まで」という地域とほぼ重なる。ただし陸羽の「両都並荊渝間」という地域とは多少ずれが生じている。これは『茶経』が茶の専門書に対して、他が各地の新しい出来事を記録する随筆集で、陸羽と封演、楊華の着眼点が違っていたことは、拙著『茶詩に見える中国茶文化の変遷』で指摘した。

 封演と楊華が「新しい出来事」として指摘したかったのは「地域」ではなく、喫茶の「様態」だったようである。つまり「喫茶が個人の範囲を超え、町に店舗があり、製茶だけではなく茶の湯まで販売すること」こそ「新しい出来事」だったと思われる。「北方への普及」には「手軽な安さ」と「どこでも飲める利便性」が真の要因だったと考えられる。

 茶を産出しない地域の人々には、幼い頃から茶を飲み、茶文化に親しむことはなく、喫茶意識が低いため、「手軽さ」と「利便性」は茶の世界に踏み込む第一歩であった。そして、いったん喫茶習慣が広がるや、茶産地とは異なる独自の茶文化を形成していった。

 時代は一気に現代に近づくが、代表的な例が北京の大碗茶だろう。
 1970年代後半、文化大革命の終焉で農村地域などから一斉に北京に戻ってきた知識青年たち数十万人は誰もが職探しに苦労していた。そのような時代にどんぶり茶碗に茶湯を入れて、2分(0.02元、今の為替レートでは1元およそ16円)という安さで小売りする「新ビジネス」が現れた。「手軽さ」と「利便性」から歓迎され、同じ商売を始める人が続出した。無職のお婆さんが自宅前に露店を出し、「大碗茶」で小遣い稼ぎするほどの「盛況ぶり」だった。まさに陸羽が言う「比屋之飲」(誰もが飲む)の状態だった。

 筆者が80年代の末頃北京に行った時、この「大碗茶」は一時の勢いはなかったが、まだ「健在」だった。この「大碗茶ブーム」は90年代まで続いたはずである。1996年の閻粛作詞、姚明作曲、李谷一演唱の「前門情思大碗茶」という歌は2001年に第一回目の中国歌「金鐘賞」を獲得している。「前門情思大碗茶」の歌詞を見てみよう。

 我爷爷小的时候 (お爺さんが幼い頃)
 常在这里玩耍 (よくここで遊んだ)
 高高的前门 (立派な前門)
 仿佛挨着我的家 (まるで我が家の隣りにあるようだ)
 一蓬衰草 (一山の枯れ草)
 几声蛐蛐儿叫 (コオロギの鳴き声)
 伴随他度过了那灰色的年华 (あの灰色の時代を一緒に過ごしたものだった)
 吃一串儿冰糖葫芦就算过节他一日那三餐 (冰糖葫芦というフルーツ菓子が
    食べられれば もう新年気分だったあの頃の3度の食事は)
 窝头咸菜么就着一口大碗儿茶 (トウモロコシの蒸しパン、漬物、そして
    大碗茶だけ)
 来······ (や~)
 世上的饮料有千百种 (この世に飲み物がどれだけあるか知らないが)
 也许它最廉价 (大碗茶が一番安いかもしれない)
 可谁知道 (でもだれでもが知っている)
 谁知道 (誰でも)
 谁知道它醇厚的香味儿 (その濃厚な香りを知っている)
 饱含着泪花 (涙が出そうだ)
 它饱含着泪花 (涙を含んだ大碗茶)
 如今我海外归来 (今、私は海外から帰ってきた)
 又见红墙碧瓦 (また街の壁や瓦を見ている)
 高高的前门 (立派な前門)
 几回梦里想着它 (どれだけ夢に見ただろう)
 岁月风雨 (長い年月の風雨が)
 无情任吹打 (無情に吹き荒れても)
 却见它更显得那英姿挺拔 (なおその雄々しい姿を映しだす)
 叫一声杏仁儿豆腐 (杏仁豆腐という呼び声)
 京味儿真美  (北京の味わいは本当にすばらしい)
 我带着那童心(私は幼い心と)
 带着思念么再来一口大碗儿茶 (思いとともに、大碗茶をもう一杯)
 来······ (や~)
 世上的饮料有千百种 (この世に飲み物がどれだけあるか知らないが)
 也许它最廉价 (大碗茶が一番安いかもしれない)
 可为什么为什么 (でも、なぜだ?なぜ?)
 为什么它醇厚的香味儿 (なぜその濃厚な香りは)
 直传到天涯 (世界の隅々まで)
 它直传到天涯 (世界の隅々まで行き渡ったのか?)

 この歌からは「大碗茶」が北京の新しい喫茶スタイルを作っただけでなく、北京独自の喫茶文化をも形成したことが窺える。

 「大碗茶」の後、90年代に北京では、もう一つの喫茶スタイルが流行っていた。
 中ジョッキほどのガラス容器、しかも蓋付のもの(瓶詰め顆粒コーヒーの容器を転用する人が多かった)にたっぷり茶の葉(廉価な屑茶を使う人も多かった)を入れて、お湯を注ぎ、一日中これを飲む。茶の湯が減るとお湯だけ足し、茶の葉は替えない。このスタイルは家庭よりオフィス内での喫茶スタイルで、どの職場でも見られた職場喫茶の「定番」になっていた。タクシーの運転手も同じスタイルだった。

 茶の葉を取り換えないのは、職場での茶殻処理の「面倒」を避けたかったからだろう。しかし、大量の茶の葉を淹れるので、かなり苦みや渋みが出てくるし、一日中なので次第に茶の味が薄くなってしまうというデメリットがあったのは否定できない。
 その時期に筆者は北京で8年間も生活していたので、すっかりこの喫茶スタイルに慣れてしまっていて、今でも「長時間、淹れっぱなしの茶の渋みと苦み」が好みになっている。

 これら一時的だが北京独特の喫茶文化を形成した「喫茶スタイル」は「品」を重視する茶人から見れば、「茶を知らない人たちの飲み方」と見下されてしまうかもしれない。しかし、これこそ「手軽さ」と「利便性」、ないし「生活需要性」から生まれた茶文化にほかならなかった。

 (大学教員)

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