【コラム】中国単信(126)

中国茶文化紀行(63)

「羊羔酒」と「雪水茶」
趙 慶春

 中国の詩はよく「典故」を用いるが、茶詩も例外ではない。
 唐代茶詩の中で最も引用されている「典故」は王肅の「酪奴」である。
 王肅が北魏に帰順したばかりの頃、高祖孝文帝に「茶」の評価を求められ、「唯茗不中、與酪作奴」(茶は最も無用なものであり、酪漿の奴隷に過ぎない)と答えた。当時の北魏に喫茶文化は入っておらず、しかも王肅は敵国から帰順した身であったため忖度したか、媚びるためか、敢えて茶を貶めたのかもしれない。しかしその後、茶は絶大の人気を得て、この王肅の言葉は茶を貶める言葉と受け止める人はほとんどおらず、逆に「以酪為奴」(酪を奴隷にする)と解釈するようになり、やがて「酪奴」は茶の異名となっていった。また、この「酪奴」にまつわる話は当時の乳文化と茶文化の衝突を表しているという捉え方も根強くある。

 宋代で最も取り上げられた「典故」は趙州禅師の「喫茶去」(きっさこ)である。宋・普濟の『五灯会元』によれば、「典故」の経緯は次の通りだ。
 師問新到:        趙州禅師が着いたばかりの僧に尋ねた、
 「曾到此間麼」    「ここに来たことがあるか」。
  曰:「曾到」    その僧は「はい、前に来たことがあります」と答えた。
  師曰:「喫茶去」   禅師は「茶を飲んで来い(喫茶去)。」と言った。
  又問僧。      禅師は別の僧に向かい「来たことがあるか」とまた尋ねた。
 僧曰:「不曾到」    その僧は「いいえ、来たことはありません」と答えた。
 師曰:「喫茶去」    すると、禅師は「茶を飲んで来い」と言った。
 後院主問曰:      あとになって院主が尋ねた。
 「為什麼曾到也云喫茶去、 「どうして「はい」と答えても茶を飲んで来い、
 不曾到也云喫茶去」  「いいえ」と答えても茶を飲んで来いなのか」と。
 師召院主、主応諾。   趙州禅師は院主を呼ぶと、院主は「はい」と答えた。
 師曰:「喫茶去」   禅師はまた「茶を飲んで来い」と言った。

 この禅問答については、「茶禅一味」のテーマでまた詳しく紹介する。

 元代で新たに最も注目された「典故」は「党進金帳羊羔酒・陶谷学士雪水茶」(また「党酒与陶茶」、「陶谷風流」、「陶谷茶」、「党姫」などともいう)である。まずこの「典故」となった経緯を見てみよう。
 蘇軾は自分の「趙成伯家有麗人僕忝郷人不肯开樽徒吟春雪美句次韻一笑」という詩に次のような注釈をつけている。「世伝陶谷学士買得党太尉家故妓,遇雪,陶取雪水烹団茶,謂妓曰:“党家応不識此?”妓曰:“彼粗人安有此景,但能于銷金暖帳下浅斟低唱,喫羊羔儿酒耳。陶默然愧其言。」(世に広く伝えられているが、陶谷学士が党太尉家の妓を買い取った。ある日、雪になり、陶谷学士は雪を解かして団茶を烹していたが、妓に「党家ではこれ(雪水茶)を知らないだろう?」と聞いた。妓が「彼は教養のない人なのでこのような風情があるはずもない。豪華な銷金暖帳の中で女妓に囲まれ、歌舞を楽しみながら、羊羔儿酒を飲むことしかできない。」と答えた。陶谷学士は黙ってしまい自分の言葉に恥じていた)。
 陶谷(903~971年)は五代十国時期に後晋、後漢、後周に仕え、宋に入った後の建隆二年(961年)に礼部尚書、翰林承旨の任に着いたので、「学士」と呼ばれた。陶谷は喫茶に関する造詣も深く、『茗荈録』を残している。『茗荈録』は陶谷の著書『清異録』の一部だが、明代に単独の茶書扱いになった。『茗荈録』は短編だが「茶百戯」、「生成盞」や「漏影春」など喫茶歴史変動期の貴重な史料を残し、「不夜侯」、「晩甘侯」、「冷面草」、「苦口師」など茶の異名も生み出した。陶谷は喫茶の達人であり、茶に対する自負も強くあったと思われる。

 一方、党太尉とは党進(927~978年)のことで、陶谷と同時代の人である。党進は宋代の有名な将軍でめざましい軍功をあげたが、文字が読めないことでも有名だった。ちなみに「太尉」とは名誉職で、今で言えば軍事担当相に当たり、その地位が十分伺えるだろう。
 「党進金帳羊羔酒・陶谷学士雪水茶」は「典故」としては少々長いが、これには多様な文化的要素が含まれている。
 「党進」は軍人の代表で粗野、無遠慮、無教養な人間の代表である。「陶谷」は文人の代表で知的、優雅、繊細な人間の代表である。ちなみに、軍人と文人は中国古代政権を支える二大支柱でもあった。
 「金帳」は権力豪勢の代表である。「学士」は無力素朴の代表である。「羊羔」は金、富の代表であり、世俗の代表である。「雪水」は赤貧の代表であり、興趣、脱俗の代表である。

 上記の「対照」は大雑把だが、「雪水茶」と「羊羔酒」の比較から「喫茶文化」の思想性、美学意識や精神、そして喫茶行為に付加されている俗世間の「富、権力、地位、名声」などと異なる価値観がより具現化され、鮮明に浮かび上がってくるのは確かである。この点については「茶の性格」をテーマとしてまた詳しく紹介する。
 
「羊羔酒・雪水茶」典故の影響は元代において絶大だった。すこし大袈裟だが、「雪」のテーマになるとこの典故を連想、引用するほどである。一例を見よう。
 舒頔「雪五首」(現存するのは一首のみ)
 乾坤清気属陶家, 乾坤世界の「清気」が陶家に属する、
 太尉元来不煮茶。 太尉は元来茶を煮ない。
 老子無茶亦無酒, おれは茶もないし、また酒もない、
 拄藤踏雪看梅花。 藤の杖を支えて雪を踏み、梅花を看る。
 
 さらに意外なのは、「妾を娶る」テーマにもこの典故が登場する。
 張昱「寄馬孝常(時新得妾。)」
 ……
 重来定及先春雨, 再び来る時、きっと春先の雨に合うように、
 要試陶家雪水香。 陶家の雪水茶の香を試そうとしたいからである。

 この詩は贈答詩であり、贈り先の馬孝常という人物が新しく妾を娶った。これだけの背景でも、「羊羔酒・雪水茶」の出番があったということである。つまり「貧と富、素朴と豪勢、俗と脱俗、濁と清」などには関係ないにもかかわらず、「妾」がテーマでも「羊羔酒・雪水茶」が連想されるほどで、この典故の影響力は凄まじかった。
 そして、この典故の影響力はこれに止まらない。まさに「十人十色」、「百家争鳴」であり、この「羊羔酒・雪水茶」について、元代人の意見は実に多彩で想像を超えるほど多岐にわたった。これについては次回に紹介する。

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(2024.4.20)
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