【コラム】中国単信(107)
中国茶文化紀行(44)なぜ「点茶」と「龍団鳳餅」が凋落したか?
筆者は喫茶文化の調査でよく中国に行くが、日本、中国ともに互いの国の喫茶様態をあまり知らない人が意外に多く、それに気づかされて驚きを禁じ得なかった。
現在、中国では日本の茶道のように「茶の粉に湯を注いでかき回して飲む」という喫茶法は基本的に存在していない。勿論、文献に従って古人の飲み方を再現してみたり、日本の茶道を体験したりする人は茶の粉を知っているだろうが、あくまで稀なケースだろう。
中国で最も一般的な飲み方は次のようである:
「散茶」(ばらばら状態の製茶)を一つまみ茶碗か中華急須に入れて、お湯を注いで、しばらく蒸してから、その浸出液を飲む(急須なら茶碗に注いで飲む)。いわゆる「撮泡法」である。
勿論、より美しく、より芸術的、より規範的に「茶を淹れる」手法もあり、中国で「茶芸」と呼ばれるが、本質的には上記の手法である。より美味しい茶の湯(浸出液)を得るために、茶の種類に合わせて「淹れる時間」や使う「道具」を工夫するのは中国茶の一大特徴でもある。この「撮泡法」のほかに、茶を煮込んでその浸出液を飲む方法や、冷水や氷でじっくり浸出させる方法などもある。
一方、日本の茶道のような喫茶法や中国歴史上の「点茶法」を知らない中国人が多いのだが、日本の茶道は中国宋代の「点茶法」を源とする。この点については何度か紹介したが、では、両者は基本的に同じものなのだろうか。
まず、「茶の粉に湯を注いでかき回して飲む」点では、両者は本質的に一致している。ただし、少なくとも下記の二点で大きな相違がある。
<その一> 「点茶」は「飲む」のが目的であるが、点てた泡を鑑賞するのも大きい目的である。
<その二> 使用する「茶の粉」が両者は異なる。
言うまでもないが、目的などに合わせて、点茶の手法や使用する道具が異なってくる。
そして、上記の二点は宋代に大流行した「点茶」と「龍団鳳餅」が凋落した原因ではないかと思われる。また、日中両国の喫茶様態が異なる道を歩み始める分岐点となったのではないかとも思われる。
まず、<その一>の「泡の鑑賞」から見よう。
確かに茶の湯を点てて、できた「泡」を鑑賞するという審美ブームが宋代に出現した。当時の喫茶は塊の団茶を砕いて粉にし、泉水を汲み、燃料になる枯枝や落ち葉を集め、湯を沸かす音を楽しみ、煙を眺め、「撃拂」という言葉が示すように力強く茶の湯をかき混ぜる腕前を披露し、泡を鑑賞し、茶と泡を小茶碗に分けて飲む、という一連の流れを総合的に楽しむのだが、なかでも「泡の鑑賞」に一番の重きを置いたと思われる。
その理由として、(1)文学作品には泡に関する描写、ないし専門語彙が圧倒的に多く登場する。(2)喫茶で勝ち負けを競う「闘茶」では、泡の出来具合を競う。
という点が挙げられる。
しかし、泡を点てる「点茶」は高度の技術を必要とし、その習得が難しかった。そのため「点茶」が民間に普及していくうちに、次第に「泡を点てる技術的、かつ芸術的行為」から「茶の粉を湯に溶かす実用的行為」に変化していった。元代に二つの喫茶道具が発明されたことはこの「変化」を如実に反映している。この二つの新道具を詠む茶詩を見てみよう。
汪珍《郊居》
雨余芳草遍, 雨が芳草に満遍なくのこり、
気韻入梅初。 風韻は初めて梅に入る。
客借分茶杓, 客が「分茶杓」を借りに来る、
隣同灌韭渠。 隣人一同は韭渠に水を流し込む。
……
郯韶《東京茶会図》
二月東都花正開, 二月の東都は花が正に咲いている、
千門春色照楼台。 数多くの家に春色が楼台を照らしている。
遊人勝賞不帰去, 遊人たちは勝景にはまり、帰らず、
斉候分茶担子来。 みんなが「分茶担子」の到着を待っている。
「分茶杓」は茶をかき混ぜる大きい茶碗から飲用の小さい茶碗に茶の湯を移す大き目の杓である。「分茶担子」は点茶道具一式が入っていて、天秤棒で担いで移動できて、簡単に露店が出せる移動式茶道具セットである。いずれも元代に新しく登場した茶道具である。
「分茶」は飲むために小さい茶碗に茶の湯を分け入れる行為であり、「泡鑑賞」より「味」に重きを置く専門用語である。「分茶」行為は上述の通り「点茶」の一環で、宋代にすでに存在していた。しかし、「分茶杓」と「分茶担子」のような分茶専用道具の出現は「点茶」が「泡鑑賞」から「味重視の飲用」に移行したと言えるだろう。
また、客が気軽に「分茶杓」を借りに来るとは、茶道具として一般家庭にも置かれているものになっていたことを意味する。郯韶の《東京茶会図》茶詩はタイトルが示すように、盛大な茶会で皆が「分茶担子」を待っているので、一碗ごとにじっくり腕前を披露し、泡を鑑賞する余裕はないと思われる。
大人数相手にすばやく茶の粉を溶かして、速やかに茶の湯を飲めるように発明されたのがこの移動式「分茶担子」ではないかと思われる。「分茶杓」と「分茶担子」は「点茶」が泡鑑賞から味の賞味へと変わったことを示す代表的な道具と言えるだろう。
一方、日本に伝わった「点茶」は、栄西など僧侶によってもたらされ、普及したのも五山寺院の僧侶たちの間からであった。華やか、賑やか、愉楽を求め、芸術性を極める「泡鑑賞」は、最初から僧侶には向いていなかったと推測される。
大学教員