【コラム】
中国単信(66)

中国茶文化紀行(3)喫茶文化の発祥地は雲南ではなく四川だった

趙 慶春

 茶の原産地が中国雲南省であることはすでに触れた。ただし喫茶という文化が始まったのは雲南ではなく、雲南省と北側で接している四川省(古代では巴・蜀という地域)のようである。
 760年頃の中唐時代に陸羽が撰述した『茶経』が現れるなどして、中国に茶文化が確立されたと言えるが、唐代以前の早期喫茶に関する資料では、雲南には皆無で、巴・蜀地方と関わるものが圧倒的に多数を占めている。

 資料としての数が少ない早期の喫茶資料に目を向けてみよう。

 中国の前漢の頃の文章家として名高い司馬相如(BC179~BC117)の『凡将篇』には、「荈詫」という茶の異名が記されているのだが、彼は蜀の人である。

 伝説上の人物とされる黄帝(こうてい)時代の人である桐君は薬を求めて、桐の木の下に住み、『薬性』『採薬録』を著したとされていて、『桐君採薬録』には、「巴東別有真茗荼、煎飲令人不眠。(巴東に別に真の茗荼があり、煎じて飲むと人を眠らせない)」とある。ちなみに「茶」という文字は唐代以降、使われるようになったもので、それ以前は「荼」という文字が使われていた。

 中国の最初の辞書『爾雅』「釈木第十四」には「檟、苦荼」とあり、晋代の郭璞(かくはく 276~324)の注に「樹小如梔子、冬生葉、可煮作羹飲。今呼早采者為荼、晩取者為茗。一名荈、蜀人名之苦荼。(樹は小さくて梔子樹のようであり、冬に葉を生じ、煮込んで羹にしたてて飲むことができる。今、早めに採るのを茶と呼び、遅く採るのを茗と呼んでいる。一名は荈、蜀の人はこれを苦荼と名づける)」とある。

 西漢の楊雄の『方言』には「蜀西南人謂荼曰蔎」(蜀の西南地域の人は茶を蔎と謂う)という記述が見られる。

 三国・魏の張揖(ちょうゆう)の『広雅』に「荊巴間採茶作餅、成以米膏出之。(荊巴の間では、茶を採って茶餅を作る、仕上げの時、米膏を以ってこれを作り出す)」とある。

 晋の常璩(じょうきょ)の『華陽国志』の「蜀志」には「什邡県、山出良茶」「南安武陽皆出好茶」(什邡(じゅうほう)県は山がよい茶を産出する。南安・武陽は皆よい茶を産出する)とある。

 晋の傅咸(ふかん)の『司隷校尉教』に「聞南市有蜀妪、作茶粥売之」(聞くところによると、南市に蜀出身の老婆が居て、茶粥を作って販売した)とある。

 全部で数十点しか残存しない早期茶資料の中で、重複、地域不詳の資料を除く十数点のうち、これほど複数で取り上げられているのは巴・蜀地域だけである。巴・蜀は喫茶文化という点では、他の地域より先んじていたことがわかる。

 巴・蜀という地域を指すとき、時代によって多少異なっていたが、基本的に今の四川省成都と重慶を中心とする地域と考えていいだろう。上記で示した簡単な「記録」ではなく、中国で茶に関する文学作品が現れたのも四川が初めてだった。
 西晋時代の杜育(といく)の『荈賦』がそれである。一部分引用してみよう。

   霊山惟岳、     霊山はきびしい山である。
   奇産所鐘、     奇産のあつまるところである。
   厥生荈草、     厥に荈草が生じ、
   彌谷被崗。     谷をわたり、崗をおおう。
   ・・・・・・
   水則岷方之注、   水はすなわち岷江から注がれ、
   挹彼清流。     その清流をくんだもの。
   器澤陶簡、     器は陶器の質素な、
   出自東隅、     東方で作られたものを選ぶ。

 詩の中の、素晴らしい茶を産出する「霊山」がどこを指すのか定かではないものの、「岷方」(岷江)は四川省を流れる川である。文学作品に茶についての記述があるということは「文化的」だと認められている証明だろう。四川は喫茶文化を語るのに欠かせない地域だったようである。

 ところで、茶の原産地が雲南にもかかわらず、喫茶文化の発祥地となると、なぜ四川だったのだろうか。この問いに一つの四川に関わる茶資料が答えを出してくれる。
 王褒(おうほう)の『僮約(どうやく)』である。

 蜀郡の王子淵(子淵は王褒の字)は用事があって、古い友人の未亡人、楊恵の家に行った。そこに便了という僮(小奴隷)がいた。王子淵はこの便了に酒を買いに行かせた。ところが、便了は亡くなった主人の墓へ行って「旦那さんが自分を買った時、ただ家のなかの仕事だけと言ったのに、別の男のために酒を買う仕事は約束外だ」と訴えた。王子淵はこれを聞いて非常に怒って、楊恵に「この奴隷を売らないのか」と聞いた。楊恵は「この奴隷は年をとって主人に逆らうようになり、ほしがる人などいません」と答えたところ、王子淵はこの便了を買おうと決心し、売買契約書を準備し始めた。
 このとき便了は「便了の仕事をすべてはっきり契約書に書いてください。書かないと便了はやりません」という。王子淵は「よし」と言って、筆をとって契約書を書き始めた。「神爵三年正月十五日、資中男子王子淵、従成都安志里女子楊惠買夫時戸下髯奴便了、決賣萬五千。奴従百役使、不得有二言。晨起洒掃、食了洗滌・・・・(神爵三年正月十五日、資中の男子王子淵は一万五千銭をもって成都安志里の女子楊恵からその亡き夫の持ち物である奴隷便了を買う。奴隷は各種の仕事にあたり、文句を言ってはいけない。朝の清掃、食後の食器洗い・・・・)」という。王子淵は何人分にもあたる仕事を書いて、便了が泣き出して謝るまで書き続けた。

 売買契約書のさらに続く箇所には便了の仕事内容が書かれているが、次の二箇所が茶事と関係ある。

 1 烹荼尽具。「尽」はここで「洗う、清める」という意味である。――茶を烹って、茶具を洗う。
 2 武陽買茶。――武陽で茶を買う。

 王子淵は前漢の著名な文学者であり、彼の故郷は「資中」であるが、成都に住んでいた。神爵は前漢宣帝の年号で、その三年が紀元前五十九年である。「烹荼尽具」は「朝の清掃」や「食後の食器洗い」などと一緒に並べられ、すでに日常生活の一部になっていたと見ていいだろう。これはその当時、成都で飲茶の習慣が相当盛んに行われていたことの証明になるだろう。そして、「武陽買荼」は武陽ではすでに当時、茶が商品化されていたことを示している。この「武陽」は今の四川省彭山県であり、成都の南、七十七キロメートルほど離れている。この地は四川の中心である巴蜀より雲南に近い位置にある。

 ここで当時、雲南と四川の経済的な発展状況の差が関わってくる。蒙文通氏などの研究によれば、巴蜀は当時、中国全土で経済的な発展では、すでにトップクラスだった。一方、雲南は当時からさらに二百数十年後の三国時代、諸葛孔明が雲南に進出した時もまだ未開の少数民族居住地域だった。喫茶習慣の普及や茶文化などが醸成される人口、及び経済基盤などがなく、その意味では、四川が茶文化の発祥地になる要因は揃っていたと言えるだろう。そして、上等な茶を産出する「武陽」は茶産地としての雲南と茶の消費地区である四川(もちろん四川も茶を産出している)の中間に位置していたため、大きな茶売買集散地にもなったと思われる。

 実は似ている現象が千数百年後の清王朝時代の台湾にも起きている。
 清の周鐘瑄の『諸羅県志』「雑記志・外紀」に「水沙連内山、茶甚多、味別、色緑如松羅。山谷深峻、性厳冷、能却暑消脹。然路険、又畏生蕃、故漢人不敢入採。又不諳製茶之法、若挟能製武夷所品者、購土蕃、採而造之、当香味益上矣」とある。
 この記録に筆者なりの説明を加えながら紹介しよう。

 清の初期、漢人が台湾に来たばかりの頃、熱さと腐敗した落ち葉などによる毒性のガスに悩まされていた。いろいろ調査したところ、台湾の茶が効くとわかった。その時の台湾茶は野生で中部山脈地帯に自生していた。

 上記の『諸羅県志』「雑記志・外紀」を日本語にすると、「水沙連内山地域の茶は数が多く、味も特別で、緑の色も有名な松羅茶に似ている。しかも涼性で暑気払いに最適だった。しかし、茶を採るのに山道が険しいだけではなく、その時の山脈地帯は生蕃と呼ばれる原住民の居住区だった。生蕃を恐れて漢人はなかなか採りにいけなかった。そこで、武夷茶の製茶技術者を確保した人たちは生蕃から茶の生葉を購入し、製茶をした。その香りもなかなかよい出来だった」となる。

 居住区に数多くの茶樹を抱えている台湾の生蕃は当時から現在に至っても、小米(粟)酒を好み、喫茶習慣はあまりない。一方、産茶区に生活していなかった漢人は次第に茶の栽培や製茶を取り入れ、喫茶文化を定着、発展させ、今世界中に名が知られている台湾茶文化を形成していった。ちなみに、生蕃と漢人のこのねじれ現象はわずか数年で解消され、漢人の入山と現地での製茶が許された、という。

画像の説明
  水沙連地域とは、現在、観光地となっている日月潭周辺で、生蕃由来の地名が数多く残されている。また、日月潭周辺には百年近い歴史を持つ製茶工場がある。

 最後に再度、話を雲南、四川に戻そう。四川は現在、「龍門陣」という独特の茶館(喫茶店)文化を形成していて、地元の人びとに愛されているだけでなく、観光客をも惹きつけている。喫茶文化の面でも四川は雲南をリードしているのだが、四川の茶館文化については別稿に譲りたい。

 (大学教員)

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