【コラム】中国単信(89)

中国茶文化紀行(26)唐代末期における喫茶文化の変化

趙 慶春

 唐代の末期から宋代にかけて、喫茶文化はいくつかの変容を見せた。
 907年に唐王朝が滅び、宋王朝の建国は960年であり、その間の907年から960年までは「五代十国」という政権乱立の時代だった。この「五代十国」時代に陸羽が推奨した「煎茶法」から「点茶法」へと変容し、そして、点茶の時に茶湯の表面に絵や模様を描き、詩文も書くという神業とも言える「芸」が出現したことは、陶谷の『清異録』に依って紹介した。

 そこで「五代十国」時代の喫茶文化の変容について少し触れておく。
 その一つは建州北苑(福建)茶園の勃興である。
 中国大陸では10世紀頃に「小氷河期」が訪れ、平均気温が2~3℃ほど下がった。冬になると、中国3位の広さの湖「太湖」(面積2,427平方キロ、湖岸周囲393キロ)が凍るほどの寒さになった。これにより、太湖の麓にある唐代の顧渚貢茶院は大きいダメージを受けた。一方、より南に位置している建州の茶生産は勢いを得ていった。この建州茶産地は当時「五代十国」の南唐国に属し、南唐国が宋に滅ぼされた後、宋代随一の北苑貢茶場に発展した。

画像の説明
南唐国地図 

 茶産地では「闘茶」が行われることはすでに紹介したが、唐代の「闘茶」が味、色などで競うのに対して、この南唐国建州の「闘茶」は点てた茶湯の沫で競っていた。「白い」「分量が多い」「持久力がある」ことが勝敗の分かれ目になった。この「闘茶」勝敗の基準が変化した要因については明確な記録が見当たらないが、以下のように推測できる。

 「闘茶」勝負に参加する茶産地がもともと近く、製造技術にも大差がなく、製茶の品質も似ていた。しかも「味」の優劣を判定するとなると、目に見える「基準」を立てにくく、個人の好みを排除しきれない。例えば、近年の台湾での茶審評会(古代の闘茶に類似)で「審査員の好みを読むのが優勝への近道だ」と言われていたのがその証左だろう。そして、恰度この時期、茶碗で茶を点てるようになり、点茶技術の腕前が「見える」沫勝負につながったと思われる。こうして沫重視の美意識が宋代喫茶の主流となり、大ブームになったのは歴史的事実である。

 また、宋代茶書『宣和北苑貢茶録』によれば、南唐国時代の建州で作られた茶は「研膏茶」と呼ばれ、文字から類推すると、水分の含有量が多く、クリーム状に近かかったと思われる。これは沫を出やすくするための「闘茶」仕様で、その後、貢茶となり、輸送に耐えられるより固めの「竜団鳳餅」へと発展していったと推測できる。

 もう一つは、茶聖陸羽及びその煎茶法を軽視、あるいは小馬鹿にする言説の出現である。
 五代十国から宋代初頭の徐鉉(917~992)は、「和門下殷侍郎新茶二十韻」詩で次のように詠んでいる。

  任道時新物、    たとえ新しい物であるとしても、
  須依古法煎。    古法にしたがって煎じなければいけない。
  ……
  任公因焙顕、    任公(不詳)が焙によって有名となり、
  陸氏有経伝。    陸氏は『茶経』によって名が伝わった。
  ……

 この詩では『茶経』流の煎茶法が「古法」として扱われている。この「古法」に対する「新法」は恐らく上記の点茶法、あるいはこれと似ている作法だと思われる。そして、この徐鉉よりも陸羽をあざ笑う人物がいた。以前すでに紹介した陶谷の『清異録』巻四「生成盞」に見える福全である。もう一度その記録を見てみよう。

 「生成盞」:「茶を点てて、茶の湯の表面に物の形をぼんやりと出す技があり、これは茶匠の神に通じる芸である。僧侶である福全は金郷に生まれ、茶の産地に育ち、湯を注いで茶湯の表面を巧妙に変化させ、そこに一句の詩を表すことができる。連続して四甌の茶を点てれば、合わせて一首の絶句が湯の表面に現れる。詩のほかの小さな物品ならばいとも簡単にできる。施主たちは毎日寺を訪れて湯戯を見るのを求める。福全は自ら次の詩を詠んでいる。

 盞の中で水の絵を生成させる、
 その絵の巧みさは学んでできるものではない。

 逆に煎茶を以ってよい名声を得た往年の陸鴻漸を笑いとばす」という。

 これは「沫勝負闘茶」の腕前をより発展させた神業とも言えるだろう。しかし、この「茶百戯」、「水丹青」とも「湯戯」とも呼ばれていた神業とはいったいどのようなものなのだろうか? これについて、以下に紹介してみよう。

 1 抹茶のような茶粉で点てた茶湯表面に茶匙や棒状の道具で描けば、茶沫に模様も色の明暗も現れ、「抽象画」になる。
 2 茶粉を濃く練って(日本茶道の濃茶では最初に茶を練った時と似た状態)、細い棒で茶湯表面の沫の上に絵を描く。現代のコーヒーアートに似ている作品になる。
 3 「絶句」は四句で構成され、一句は5文字か7文字である。上記「生成盞」の「連続して四甌の茶を点てれば、合わせて一首の絶句が湯の表面に現れる」とするには、一碗の茶湯の表面に最低でも5文字となる。それは困難と考える研究者は文字を書くのではなく、「絵を描いて、その絵を見て口で詩を述べる」という意見もある。
 4 茶碗で茶を濃く点てて、その茶湯を底の平な皿に移して、棒に水を付けて茶湯の表面に絵を描く。下の写真はこの方法を用いて緑茶の粉末とウーロン茶の粉末を使った作品例である。

画像の説明 
  章志峰の「茶百戯」作品

 この「4」の方法は最近、中国政府によって「無形文化遺産」と認定された。また、作画の際、練った茶ではなく、水のみを使用していることから、「水丹青」(丹青は絵画という意味)という名前に相応しいと思われる。しかし、この意見にも二つ大きい疑念が残る。

 1 茶の濃さ、茶湯の温度、そして作画の皿から考えれば、この「4」の方法で点てた茶は恐らく飲み物にはならない。
 2 この方法は確かに難しいが、絵の得意な人なら真似ができるだろうし、陸羽を笑いとばすほどの神業とは言い難い。さらにこの方法は喫茶法からは乖離しており、これによって陸羽の煎茶法を見下すのでは筋が通らない。

 それでは歴史上、名高い「茶百戯」(「水丹青」「湯戯」とも)とは、いったいどのようなものなのだろうか?

 (大学教員)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧