【コラム】
中国単信(88)

中国茶文化紀行(25)唐代喫茶文化の段階

趙 慶春

 これまで中国の喫茶文化を原始時代から宋代まで紹介してきたが、唐代以前を中国喫茶文化の「萌芽期」、唐代を喫茶文化の「確立期」、宋代を喫茶文化の「隆盛期」とした。こうした区分は言い方こそ異なるものの、共通の認識として定着してきている。その理由は、
(1)唐代以前の史料が少なく、全体像を把握し切れていないが、喫茶が生活飲食品の枠を超え、「倹約」のシンボルにもなり、文化的要素が加えられたという事実。
(2)唐代に喫茶が普及し始め、世界初の喫茶専門書『茶経』が陸羽により著され、彼が提唱した「煎茶法」が幅広く支持され、広まった。
(3)宋代には茶が一層、精製され、芸術性に富む「点茶法」は歓迎され、知識人を中心に喫茶を芸術活動と捉える傾向が強まった。
などが挙げられる。

 ただし、唐代の「煎茶」文化や宋代の「点茶」文化は、あくまでもその時代の代表的な喫茶法で、唯一のものでなかったことは強調しておく。たとえば、日本でも抹茶道、煎茶道、日常の煎茶を中心とする喫茶文化が代表的だが、タピオカ(茶)や萌え系の喫茶も流行して、日本喫茶文化の一部を構成する。唐代、宋代でも煎茶、点茶のほかに別の喫茶方法が存在していたし、主流でない「別」の喫茶法が次第に歓迎され、次世代の代表的な喫茶法に発展していくこともある。

 そして、「唐代以前」(秦、前漢、後漢、三国魏晋南北朝、隋など)「唐代」「宋代」とは、中国王朝の「区分」で、喫茶文化が王朝区分と一致する必然性がないことは言うまでもない。時代区分の中でも喫茶文化は絶えず少しずつ変容してきていた。日本の喫茶文化でも、家元制度が確立され、継承重視の日本茶道にも「立礼」を登場させたし、戦時中に饅頭を茶菓子にしたことなどはその「変容」の代表例だと言える。

 そこで今回は、唐代における喫茶文化の段階的な変容とその後の影響について見ておく。
 中国唐代喫茶文化の変容、発展は次の七段階に分けることができる。

開元以前(~713年)

 唐代の最初の茶詩は孟浩然(689~740年)の『清明即事』である。孟浩然の誕生年から数えても、唐の建国から70年余が経過している。唐代の茶詩は597首が存在するが、開元以前生まれの作者の茶詩は27首のみである。しかも、この27首の茶詩の作者で、開元元年までに30歳に達していた者はいない。これは唐代開元以前の喫茶の未発達を如実に示していると言える。

 とはいえ、この時期、茶がまったくなかったわけではない。641年、文成公主がチベットに嫁いだ時、茶を持参したことはつとに有名である。また、新羅の善徳女王時代の632年、帰国した留学僧が唐から茶種を持ち帰って韓国の河東郡に植えた記録もある。そして、7世紀半ばから8世紀初頭頃までに著された『唐本草』、『新修本草』、『食療本草』など医学書には茶が登場している。この時期、茶は宮廷、僧侶、医者の間では扱われていたが、庶民は無論、知識人にもそれほど浸透していなかったのである。

開元年間(713~741年)

 「南方の人は茶を飲むことを好む。北方の人は最初はあまり飲まなかった。開元年間、泰山の霊巌寺に降魔師という禅僧がおり、大いに禅宗を興していた。禅を学ぶには、寝ないことが大事であるし、また夕方以降、いっさい食事をしてはいけない。ただ飲茶は許される。そのため誰もが各自、随時茶を携帯し、至るところで煮て飲んだ。その後、次第に模倣され、遂に一種の風習となった」という『封氏聞見記』の記録はよく知られている。この記録の通り、泰山霊巌寺の降魔師が大いに禅宗を興したのを契機に喫茶の風習が北方でも流行し始めたのである。そして、茶産地の南方が北方とほぼ同じ状況だったことが推測できる。

開元末・天宝年間(742~756年)

 『元和郡県志』の記載によると、742年浮梁(現江西省浮梁県)から北方地域に売り捌いた茶は700万駄(1駄=360キロ)に昇り、茶税は15万貫にも及んだ。茶生産が伸び、茶消費量の多さからも、喫茶の風習が徐々に庶民にまで浸透しつつあったことが分かる。

至徳(756~758)・乾元(758~760)年間

 『膳夫経手録』に「関西山東閭閻村落皆喫之、累日不食猶得、不得一日無茶也。(関西及び山東の村々では皆は茶を飲み、連日食事をしなくても平気だが、茶は一日でも欠かすことはできない)」とあるように、喫茶は流行して日常生活に浸透し、庶民の間にまで普及し、定着した。

上元(760~762)・永泰(765~766)年間

 『新唐書』「陸羽伝」に次のようなエピソードが記録されている。

 「(陸)羽は茶を嗜好して、『茶経』三篇を著したが、茶の起源・茶の作法・茶の道具についての論述が尤も完備した著作である。天下はますます飲茶を知るようになった。その時、茶を売る者たちは陸羽の像を陶製し、これを竈と煙突の間に置いて、茶神として祭るほどである。常伯熊という者が有り、陸羽の論調にもとづいて、さらに茶の功を書き表した。御史大夫李季卿(?~767)は宣慰使として赴任した時、臨淮郡についたところ、伯熊が煮茶に長じると知り、彼を招いた。伯熊が器を執ってすすめたところ、李季卿は二回も茶杯を挙げて茶を飲んだ。李季卿が江南に至った時、また陸羽を推薦した人があった。李季卿は陸羽を招いた。陸羽が野良着を着て道具を捧げて入ったが、李季卿は礼遇しなかった。陸羽はこれを恥ずかしく思い、さらに『毁茶論』を著した。その後、茶を尚ぶことは風習となった」と。

 陸羽『茶経』初稿の完成も、常伯熊は『茶経』の増訂によって名が知られるようになったのも、上記エピソードの李季卿と陸羽の出会いも、この時期の出来事である。つまり、この時期に陸羽の『茶経』の影響及び常伯熊の増訂によって、喫茶だけではなく、茶文化、すなわち茶道も大いに行われるようになった。煎茶法の定着、普及もこの時期からである。

大歴年間(766~779)

 中国西北地域に生活していた少数民族「回紇」が馬を以て茶を交換する「駆馬市茶」活動の規模が次第に大きくなり、喫茶の風習は少数民族地域を含む全国の大部分の地域に拡大し、定着した。

建中(780~783)以降

 780年、全国範囲で茶税の徴収が始まり、茶が次第に国の経済を支える産業の一つになった。また、喫茶の普及は茶文化の発展を促進し、『茶経』完成本の誕生は本格的な茶文化の確立を象徴していた。そして、茶文化の発展は喫茶の風習をより一層盛んにさせた。それによって、大量の茶詩や茶文が創作されるようになった。

 (大学教員)
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