【コラム】中国単信(46)

中国人の思考様式を探る

趙 慶春


 前回、半年足らずの間に、虎に襲われて死亡する事件が二件続いたことを紹介しながら、中国人の思考様式とはどのようなものなのか、少し触れたが、今回もその続きである。
 前回触れた被害者二人が「虎に襲われ」、死に至った事実は同じだが、二人の心理要因は異なっていた。北京の事件は突発的であり、そこに冷静な思考や判断は存在しなかった。虎が野放しになっているという、いわば異常な状況を忘れ、家族という「小世界」でしか思考していなかったのである。日常生活での社会道徳の遵守、周囲への配慮より、中国人が常にこの「小世界」に目を向けがちであることをまざまざと見せつけられた感じである。一方、寧波の事件は明らかに「強烈な損得勘定」が招いた悲劇だった。

 「家族中心主義」や「損得勘定」は日本人にもあるし、こうした思考を持たない人間などいないだろう。しかし中国人には特にそれが顕著であり、中国人を特徴づける思考様式、典型的な行動パターンと言える。

 一つの具体例から見てみよう。
 中国で住宅不動産の「市場化」が始まったのは僅か20年ほど前のことでしかない。それまでは政府が役所や会社を通して従業員に住居を格安の賃料で分配していた。つまり住宅不動産は売買取引の対象になるとは誰も考えていなかったのである。
 そのため住居(団地)は国営会社やその他の会社の土地を囲むようにして建てられ、従業員に提供し、住まわせ、小さい「独立王国」を形成した。同じ会社の人が同じ団地に住むのは当たり前の現象だった。そして他者との区別化を図るため団地の周囲には必ず壁や塀を作って「独立王国」を対外的に示した。その流れは住宅不動産が市場化してからも、つまり隣人同士が異業種、面識なしとなっても、住宅開発会社は団地やマンションを塀や壁で囲んで建売して、統一管理のもとに自分のブランドを誇示する方式を取っている。このような「団地」での現象である。

 団地の敷地内にポイ捨てのゴミが散乱しているだけでなく、時には放置されたゴミが小山を成している光景をよく見かけるし、決して珍しくない。さらに共用廊下や階段の踊り場には私物が通路狭しと置かれ、しかもそれらに分厚い埃がたまっていようとも誰も片付けようとはしない。置いた人間がいるはずなのに。

 マンションの外壁がボロボロになっても、廊下の壁が落書きだらけになってもほとんど無関心である。その一方で自分の住居内は比較的きれいに整頓され、内装などに傾けるエネルギーは中途半端ではない。中国人が内装に投入する金額は住宅購入とほぼ同額と言われている。もっともこれには中国の住宅販売方式が日本と大きく異なり、内装一切無しが一般的だからでもあるのだが。

 こうした自分と直接関わらない、しかし安全や秩序を守るために作られているはずの団地やマンションの塀や壁についても同様の現象が起きる。時間の経過によって老朽化し、部分的に破損したり穴があいたりする。すると住人たちは塀や壁を修繕するのではなく、そこをさらに壊して出入り口として使うようになるのである。もちろん「正規」の出入り口があるのだが、近道ができたとばかりに共有物を破壊してまで、自分の「利益」を優先させるというわけである。

 このような現象がすべての住宅区、すべての中国人家庭に当てはまるわけではない。最近ではしっかり管理を行う住宅区も増えつつある。ただ上述したように、中国人は「内」と「外」を区別し、「内」、つまり自分の家(家族)を重視し、「外」を軽視する傾向が顕著である。そしてひとたび自分の「利益」が害されるとなると、もう一つの典型的な行動パターン――すぐさま「強烈な損得勘定」が実行され、「取捨選択」の判断がなされる。

 寧波での被害者の「意識・行動パターン」を見てみよう。
 もし「2,000円節約のために虎と勝負する」という明確な条件が事前に提示されていたならば、被害者を含めて誰も挑戦しないに違いない。しかし、これまでの彼の人生で「節約できる方法がある」という場に直面するたびに、「強烈な損得勘定」のうえ、ルール無視の「私的利益」を選択し、そしてほぼ成功してきたのだろう。この「成功率の高さ」は彼の罪悪感や危険意識を希薄にさせていったと思われる。つまり今回の悲劇は「強烈な損得勘定」による行動パターンという慣性がもたらしたものだったと言える。

 ルールよりも損得勘定優先、場合によってはルール無視の利益追求という意識・行動パターンの例は枚挙に暇がない。

 2005年、四川省重慶市にある人口がわずか2万人ほどの小さい町で、一年間に1,795組の夫婦が離婚した。まさにギネス的数字ではないだろうか。なかには70、80歳代の老夫婦が子や孫に支えられながら離婚手続に訪れた人もいたようだ。驚くことにそのほとんどが偽装離婚だったのである。「偽装離婚、復婚、再偽装離婚」、「偽装離婚、偽装再婚、離婚、偽装離婚者との復婚」というケースも現れた。理由は実に明瞭だった。政府が安く住宅を購入できる優遇政策を打ち出したのだが、夫婦では一軒、離婚していればそれぞれに一軒、つまり二軒購入できるとわかったからだった。

 この「強烈な損得勘定」意識は、当然のように政策や規定の間隙を衝くようになり、罪悪感はますます希薄となっていく。このような意識の作動は波及し、習慣となっていきがちである。こうして日本で生活する中国人にも同様のことが起きる。

 例えば、日本の奨学金制度の規定では、一世帯の収入が一定額を超えると奨学金申請資格を失う。配偶者に一定額以上の収入があったため、申請資格がなかった留学生が偽装離婚してまで奨学金を得ようとした事例を2件ほど聞いたことがある。

 交通費を節約するために、線路の柵を越えて駅に入り、下車駅ではレールに沿って歩いて道路に出るといった手口で無賃乗車をしていた事例もある。

 中国人に限らないが、在日外国人は税金を少しでも減らそうと、海外在住の親、兄弟の実際の収入額を無視して、自分の扶養家族として税務署に申請する人間が多い。年収5、6百万に達していても源泉徴収税額を「0」にすることも珍しくない。そのため日本政府はこうした手口を防止するため2016年から海外扶養家族審査の厳格化を実施するようになった。

 「家族を大切にする」ことは美徳だし、「自己利益優先」も人情と言えるだろう。ただし、この万国共通の感情も、この感情優先のためには「ルール」を破っても構わないと思うのが中国人なのだ。
 中国人のこのような「損得勘定」をあくまで日常生活での「処世術」であり、「問題の解決能力」と言っていいものである。言い換えると、日常生活でのルール違反は許されるものと認識し、さほど「重大な事」とはとらえていないのである。こうして日常生活でのルール重視意識は希薄になってしまう結果となる。

 一方、中国人にとっての「国家」「民族」「人格」「プライド」といったものは「根源的」「原則的」な事柄となり、守るべき大事なものとの認識がある。

 例えば、2017年初頭、日本で救急車を呼んだ60歳代の男性が救急隊員が土足で自分の部屋に踏み込んだと激怒し、救急隊員に土下座、謝罪させ、そのうえ殴りつけて逮捕される事件があった。中国人ならば、この横暴な要求に救急隊員は応じないだろうし、謝罪もしなかったと考えられる。

 中国人の譲れない「原則」とは何か? 中国人の「ルール軽視」の傾向を生む文化的要因は何か?「損得勘定」の基準は一体何か?
 これらについては次回以降としたい。

 (大学教員)

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