【コラム】中国単信(52)

中国人の思考方式――血縁とポジション

趙 慶春


 2016年末、中国は40年近く実施してきた「一人っ子」政策を廃止した。
 人口増を抑制することを主眼とした「一人っ子政策」は、およそ40年間で4億人の人口増を抑えることができたとも言われている。そのほか食糧問題、環境問題等での国家の経済的負担軽減というメリットはあったものの、この政策への国民の「抵抗」は実施当初から少なくなかった。

 そのため、たとえ罰金を支払っても二人目をもうけた夫婦はかなりの数に昇った。罰金は一律ではなく、時代、地域、違反者の身分等によっても異なっていた。おおよそ300万円前後から1,000万円で、映画『赤いコーリャン』の監督・張芸謀などは有名であるがゆえに億を超える罰金を支払っている。

 さらに出生届を出さず、したがって戸籍がない子どもになっても二番目の子をもうける夫婦も数多く存在した。また最初の子どもを養子として出し、二番目、三番目の子を育てる夫婦や、第1子が障害児だった場合は第2子が認められたため、医師に賄賂を送ってニセの障害児証明書を手に入れた者までいた。

 なぜそれほどまでして中国人は子どもを望むのだろうか。理由は実に簡単である。
 中国人は家を継ぐ者としての男児を求めるからで、「一人っ子政策」時代には妊娠中に女児だとわかると中絶する夫婦が後を絶たなかった。そのため中国の中絶率は世界の6分の1を占めると言われるほど高止まりだった。

 男児を望むため、第1子が女児だった場合は第2子での男児を望むことになる。これは近年だけの現象ではない。戦争や大飢饉時を除けば、いつの時代にも人口増は避けがたく起きていた。「家の継承者である男児」を望むからにほかならない。
 単に後継者を置くなら養子、婿、縁戚の男児でも構わないようだが、これらの「方法」では中国人は受け入れない。なぜか。中国人が重視するのは「血」の繋がりで、「家族型」社会だからである。

 自分の「血の継承・永続」を重視する中国人は、古代より正妻に男児が生まれなければ、「妾」を置く、最大の正当な「理由」になり、「離婚」の最大の正当な「理由」にもなった。妻が母として生きられるかは男児出産にかかっていたとも言えるだろう。富裕層や身分が上位の者ほどその傾向が顕著だった。皇帝や王族になると、男児の有無が母親の地位を分けた。その際、男児の資質は問われない。男児ありの母親は勝ち組であり、男児無しではほぼ間違いなく冷や飯を食うことになった。そのため正妻、妾の間で継承権を巡って、欲望も絡んで醜くく、残酷な息子を殺しあう「暗闘」もたびたび起きた。

 中国には「斬草除根」(草を切り、根を除く)という成語がある。〝敵を完膚無きまでに倒すためには、「血」を完全に絶やさなければならない〟という意味でよく使われるが、中国の歴史を振り返ればそうした事例は枚挙にいとまがない。

 秦が亡びると、三代目の皇帝・子嬰を含め、一族すべてが項羽によって処刑された。「根絶」への執念はすさまじく、秦の皇族とほんの少しでも血の繋がりがあると見られた一族は、漢帝国での存続が許されず、生き延びるために朝鮮を経由して日本に逃れ、「秦」の苗字を使い、「秦野」という地名を残したとされているほどでる。

 三国志の中心人物の一人の劉備は、漢皇族の末裔とみずからの正当性を強調して、「三国鼎立」(魏、呉、蜀)の一角を占めた。一方、漢の正統の血筋を引く「漢献帝」は皇位を放棄させられ、曹操の後継者である曹丕に殺された。さらに諸侯格でしかなかった劉表の子は曹操に降伏し、軍を含むすべてを差し出したにもかかわらず、曹操に殺された。

 モンゴル帝国は宋を滅ぼすと、執拗に宋の皇族たちを捜索し、ついには宋(南宋)の大臣・陸秀夫が幼い皇帝とともに海に身を投げるまで追跡をやめなかった。
 明代には創始者の朱元璋没後、燕王として北平(現在の北京)を治めていた朱棣(しゅてい)は、第2代皇帝で兄の建文帝と対立、戦い、第3代皇帝「永楽帝」となったが、建文帝は宮殿に火をつけて自殺した。しかし建文帝の遺体を確認できなかったために、皇帝となった朱棣は生涯、建文帝を捜索し続けたのである。永楽帝がこれほど執拗だったのは、建文帝が朱元璋の長男で、「嫡長男」だったからで、四男の永楽帝より皇位継承の正当性があったからである。

 中国最後の皇帝となった〝ラストエンペラー〟として知られる愛新覚羅・溥儀は中華民国新政権によって故宮から退去させられたが、殺されなかった。すでに20世紀に入り、中国だけの行動が取りにくくなっていたからだが、それ以前の中国ではあり得なかった。その結果、このラストエンペラーは日本の傀儡国家・満洲国皇帝として蘇ることになってしまったのである。

 記憶に新しいところでは2017年2月、北朝鮮の金正男がマレーシアで暗殺された。現北朝鮮政権による暗殺と見られているが、完全に権力から遠ざかっている人物をなぜ暗殺するのか。これも中国式の「血の継承・永続」に当てはめれば、金正男は嫡長男で、権力継承として彼こそいちばん正当性があるからである。たとえ権力から遠い存在になっていても「血縁」から見れば、金正男はやはり危険な存在だったのである。

 中国のこの「血縁」重視は男性に限られた。つまり父系の「血」こそ重視される。それは呼称からも見て取れる。中国では息子の息子を「孫」と呼び、娘の息子は「外孫」である。日本でも同様に呼ぶが、「内」(近い)と「外」(遠い)を厳格に線引きしてまでの意識は薄いようである。同じように母系の祖父、祖母は「外公」「外婆」と呼び、やはり「外」の字がつく。さらに日本では「従兄弟」は父系、母系に関係なく、いずれにも使われる文字だが、中国では父系を「堂(兄、弟、姉、妹)」、母系を「表(兄、弟、姉、妹)」と呼ぶ。「堂」には屋敷の母屋の意味が、「表」には外、表面の意味がある。

 また中国には「宦官」と呼ばれる人間がいた。彼らは主に宮廷の大奥で使われた「去勢」された男たちである(一部の皇族や王の邸宅でも使われていた)。女性だけの大奥では、皇帝の「血」を乱す恐れのある「男」を使えないことから宦官が誕生した。むしろ「発明された」と言ったほうが正しいかもしれないが、「血縁」「血の純粋さ」を重視する何よりの証拠である。

 宦官が時には権力者の側近中の側近となった例も珍しくない。本来、宦官は政務に関わってはならなかったが、宦官が実権を握ってしまうこともあった。しかし、権力を握っても宦官は「軽視される存在」から脱け出られなかった。「子孫を残せず、家系が断絶する」からだった。そのため宦官の中には蓄財に走る者も多かった。蓄財後はどうするのか。子孫に残せない彼らの財産の使途は、「寺院建設」だった。現在、北京の西部郊外にある観光名勝地・香山に向かう途中から香山の麓まで、臥仏寺周辺には宦官たちによって建立された寺院が数多くあり、観光名所になっている。
 子孫を残せなかった宦官たちは来世に期待するしかなかったとも言え、「血縁」に対する思いがいかに強かったかを物語っている。

 ところで「家族型」社会は「血縁」を重視するが、日本のような「会社型」社会では何が重視されるのだろうか。江戸時代の藩を例にとると、藩主をはじめ上層部や一般武士たちがいちばん恐れていたのは、中国のように「嫡長男」という後継者の有無ではなかった。「藩の消滅」だったのである。
 「藩」の存続こそ最重要課題だった。なぜなら「藩の消滅」は「藩」に所属していた者たちの死活の問題に直結していたからである。つまり「血縁」より、所属できる「場」の確保であり、座れる「椅子」の有無で、中国語では「位子」(席、場所)とよばれるものこそ最重要視されたのである。

 日本では家の存続のために「養子」を迎える例は珍しくない。中国にもないわけではないが日本に比べるとずっと少ない。「養子」として迎える対象者はさまざまで、まったく血のつながりのない赤の他人を「養子」にすることさえある。直系の血縁より、その「位子」こそが重大だからである。「家族型」社会と「会社型」社会の大きな相違点である。

 しかし、最近中国にも「養子」を迎える事例が増加してきている。例えば四川省汶川大地震の後、震災孤児を「養子」として迎える人が数多く現れた。これは40年あまり続いた「一人っ子政策」が廃止された結果、中国人の「血の継承・永続」意識に対する変化の兆しなのかもしれない。

 (女子大学教員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧