■【河上民雄20世紀の回想】(4)        河上 民雄

第4回 世界憲法草案をめぐる思い出

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本稿は2010年4月3日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元日本社会党国際
局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。4月3日のインタビ
ューには浜谷惇氏・加藤宣幸氏および岡田が参加した。

◇質問:憲法記念日が近いので、今回は憲法に関するお話をうかがいたいと思い
ます。先生は世界恒久平和研究所に研究員として勤務されていたときに、世界憲
法草案の日本語訳の作業に携わっておられますが、世界憲法草案についてお教え
ください。

●河上:第2次世界大戦の終結から数年間は、大戦争に対する反省から日本だけで
なく世界中の至る所で、旧約聖書イザヤ書の「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍
を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばな
い」という言葉が引用され、戦争を防止するための様々な試みがおこなわれまし
た。そのなかでも日本国憲法(1946年11月3日成立、1947年5月3日施行)の前文と
第9条は、まさにこの世界的気運の結晶であったといえます。

 アメリカでは1945年にシカゴ大学に設置された「世界憲法起草委員会」(委員
長は教育学者のロバート・M・ハッチンス教授)もそうした試みの一つです。

この委員会は、当時のシカゴ大学の法律、政治、経済、教育、哲学などの最高
の人材で構成され、イタリー出身の著名な反ファシズムの文学者、評論家G・A
・ボルゲーゼ教授が事務局長となり、各国が主権を世界連邦共和国に委譲し、
世界を1つとして戦争を防止することを究極の目標とし、その裏付けとして
「人間の生活に欠くべからざる四大要素、土地、水、空気、エネルギーは人類
の共同財産である。」という理念を高らかに謳っていました。そして、この委
員会が発表したのが、世界連邦共和国の憲法草案、すなわち世界憲法草案で
す。

 なお、世界憲法起草委員会のハッチンス委員長は、29歳の若さでシカゴ大学の
総長となった大変優秀な方で、4年間、専門分野にかかわらず学生に世界中の古
典を徹底的に勉強させるというユニークな教育方法を導入したことでも知られて
います。このような教育方法は学生が人類の共同遺産である古典を理解すること
が戦争の防止につながるという信念に基づくものでした。私の記憶は正確でない
かもしれませんが、プラトンの「共和国」、孔子の「論語」、新約聖書に始まり、
ルソーの「社会契約論」、マルクスの「資本論」からアインシュタインの相対性
原理まで、文系、理系の枠を超えて論文を書かせるという斬新なアイディアで、
私も衝撃を受けました。
 
日本でも、最近、国際基督教大学では、最初の2年間は専攻を決めずに学生に
自由に勉強させる。それに基づいて2年後に専攻を選ばせるという教育方法がと
られているそうです。

◇質問:世界憲法草案はどのような経緯で日本に紹介されたのでしょうか。

●河上:世界憲法草案は、世界憲法起草委員会の機関誌『コモン・コーズ』(Com
mon Cause)において発表されたのですが、日本では世界恒久平和研究所の延島
英一さんがこの草案に着目し、研究所で月に1回、哲学者の谷川徹三さんも途中
から参加して研究会を開き、1章ずつ研究していました。詩人で法政大学の教授
・藤原定さん、高校教師でカント哲学の研究者・片木清さん(のちに東京教育大
学教授)もおられました。

私は当時、研究所の機関誌『一つの世界』の編集を任されており、世界憲法起
草委員会事務局書記のエリザベス・マン・ボルゲーゼ女史と文通しながら、世
界憲法草案の翻訳を手伝ったり、資料の収集を行ったりしていました。

 なお、谷川さんは法政大学教授で、人気のある講演者で、ひと頃、シカゴ憲法
草案を熱を込めて語っておられました。今では詩人・谷川俊太郎さんの父上とい
った方が分かりよいかもしれません。1950年に国際法学者の田畑茂二郎さんが岩
波新書の1冊として刊行した『世界政府の思想』という本の巻末には、研究所の
翻訳に田畑さんが手を加えた世界憲法草案の日本語訳が附録として掲載されてい
ます。

◇質問:世界憲法草案に携わった方々のお話をうかがう前に、世界恒久平和研究
所の存在をご存じない読者の方もいらっしゃると思いますので、まず研究所につ
いて簡単にご説明ください。

●河上:世界恒久平和研究所は、敗戦直後に、加藤勘十さんや鈴木茂三郎さんと
いった旧日本無産党系の人たちが、徳川義親侯に働きかけて設立されたと聞いて
おりますが、設立の詳しい経緯は私はよくわかりません。鈴木茂三郎さんの令息
で法政大学教授だった鈴木徹三さんの『片山内閣と鈴木茂三郎』(柏書房)や戦
前無産党代議士、戦後社会党代議士になる田原春次さんの『田原春次自伝』によ
ると、世界恒久平和研究所は戦後の日本社会党の結党の動きと深くかかわってい
ます。

田原さんの本によると、社会党結党の最初の打合せ会が昭和20(1945)年8月2
3日、徳川義親候邸で行われ、河上丈太郎、河野密さんなど日労系は排除する
方針だったが、たまたま西尾末広さんに誘われて出席した田原さんがこれに反
対し、戦前無産運動の大同団結で出発することになったとされています。

鈴木徹三さんが紹介する『鈴木(茂三郎)手帳』では「八月二十九日徳川候邸
に大内(兵衛)、有沢両氏と世界恒久平和に付いて打ち合わせをなす」とあ
り、何らかの意味で、世界恒久平和研究所が日本社会党の発足にかかわりがあ
ることをうかがわせます。加藤宣幸さんに伺うと、敗戦直後、占領軍が社会主
義政党を認めるかどうか不安があったので、世界恒久平和研究所の名称が使わ
れたのではないか、ということでした。

 私は大学卒業後、高校の教師をしていたのですが、病気のために辞職を余儀な
くされ、病気がある程度改善されてから、1949年に世界恒久平和研究所に就職し
ました。このときには、研究所には社会党の影響はなく、純粋に学術的な研究を
おこなう研究所でした。はじめは日本橋の白木屋のあたりに事務所がありました
が、私が勤め始めて間もなく、飯田橋の駅の近くにあったビルに研究所は移りま
す。

一つの部屋を政治学者の矢部貞治さんと分けて使用していました。矢部さん
は戦時中、近衛文麿首相のブレインで、近衛さんの伝記を執筆するために、部屋
の半分を借りており、研究所で最も若い私が矢部さんにお茶をお出しすることに
なっていました。「昭和研究会」の主宰者だった後藤隆之助さんもよく出入りし
ていました。

 私が勤務したころは、研究所の性格が強く、徳川義親侯の家令のような立場に
あった所三男さんや弁護士の戸田宗孝さんが運営に当たっていました。そのうち
徳川侯家からの援助もかなり少なくなったのか延島さんが研究所を維持するため
に金策に走り回っていたようです。石橋湛山さんの日記を読むと、延島さんが石
橋さんのもとを訪れ、研究所の資金について相談していたことが記されています
(昭和25(1950)年3月8日)。やがて私自身、1952年には翻訳の仕事が忙しくなり、
また父の秘書を務めるために研究所を辞めてしまったので、研究所がその後どう
なったのかはよくわかりません。

◇質問:延島英一さんという方はどのような方だったのでしょうか。

●河上:延島さんはアナーキストの大杉栄さんのお弟子さんで、伊藤野枝さんの
自伝的小説にも「N少年」の名で登場します。高等教育を受けてはおりませんが、
独学で英語・ドイツ語・フランス語・エスペラント語をマスターした努力家で
した。戦後は石橋さんに傾倒し、石橋さんが公職追放の憂き目にあっていた時に
は、度々、石橋さんのもとを訪れ、話し相手になって無聊をかこつ石橋さんを慰
めていたようです。

延島さんを通じて耳にした追放生活中の石橋さんの言葉で一番印象に残ってい
るのは、食糧危機が繰り返し訪れている時代に「今に日本は米が余って困る世
の中になる」とか、インフレの激しい時代なのに「インフレより怖いのはデフ
レだ、今の経済記者はデフレになった時の怖さを知らない」などでした。

当時の若い私にとっては余りにも非常識だったからです。私自身は石橋さんが
追放から解除され総理になり、病気のため2、3ヶ月で退陣を余儀なくされた
後、半身不随ではありますがリハビリの効果あって、外出できるようになって、
はじめてその謦咳に接する機会に恵まれました。
 
  竹内好さんのような日本におけるアジア主義研究の最高峰の学者が、1970年代
になって出版された「石橋湛山全集」(全十五巻)の刊行で初めて石橋のアジア
観を知り、戦前に「朝鮮、満州、台湾を捨てよ、アジアの諸民族は独立を求めて
いる、やがて立ち上がって我々から独立を奪いとるだろう、自ら進んで彼らに独
立を与えて、尊敬と信頼をかちえた方がはるかに得だ」と喝破したことを読んで
衝撃を受けているのをみると、若い頃にいち早く不十分ながらも石橋の凄さを知
りえたことは私にとって幸運だったといえます。

◇質問:先ほどの先生のお話に名前が出てきたボルゲーゼ女史についてもお教え
ください。

●河上:ボルゲーゼ女史はドイツの文豪、トーマス・マン氏の末娘です。シカゴ
大学のG・A・ボルゲーゼ教授と結婚しましたが、若くして夫と死別し、2人の子
どもを抱えて大変苦労されたようです。女史は海洋を人類共有の財産と捉え、そ
の総合的な管理という考え方を提唱し、国連海洋法条約(1982年採択、'94年発
効、日本の加盟は1996年)の成立に尽力しました。その功績で、1999年に尾崎行
雄記念財団から第4回「咢堂賞」を受賞しています。

 女史が授賞式に出席するため、来日したときには、私も女史の受賞講演を聞き
に行きました。そのとき、女史と話す機会があり、私が所蔵していた『コモン・
コーズ』を女史にお見せしたところ、日本で数十年前の雑誌を持っている人間が
いるとは思わなかったようで、「ファンタスティック!」と叫んで、大変喜んで
いました。雑誌『コモン・コーズ』と『一つの世界』のバックナンバーは、延島
さんの様々な資料とともに今日、大原社会問題研究所に納められている。

なお、世界恒久平和研究所はすでに述べたように、研究所として性格を強くし
ていきましたが、賀川豊彦さんの世界連邦運動(雑誌『世界国家』)と大本教
が中心の世界連邦運動は、大衆運動として今も続いています。稲垣守克さん、
また、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士と夫人・湯川スミさんもこの運
動に大きな役割を果たしています。そのほか、国会に超党派の世界連邦議員連
盟があります。

◇質問:先生のお話をうかがうと、世界連邦共和国を樹立して戦争を防止しよう
という運動は一時期、かなり盛んであったことがわかりますが、今日ではそのよ
うな運動が存在したということすら知られていません。なぜこのようなことにな
ったのでしょうか。

●河上:やはり、冷戦の激化が原因であると思います。1950年ぐらいまでは第2
次世界大戦の反省もあり、世界連邦共和国を求める運動は非常に盛んでした。日
本国憲法第9条にもこの運動の精神が反映されていると思います。
  しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発し、米ソの対立が誰の目にも明らかとなると、
世界連邦共和国樹立の可能性は小さくなり、運動の熱気も冷めていきました。
 
  ただ、ヨーロッパにおいてはこの運動の精神は生き続けました。1951年に長年
対立を続けてきたフランスとドイツ(当時は西ドイツ)が手を結び、欧州石炭鉄
鋼共同体が設立されました。これが現在のEUの原型です。世界連邦共和国を求め
る運動は戦後数年で停滞してしまいましたが、当時から地域的な連邦運動として
注目されていたものが今日ヨーロッパ統合という形で結実したと考えてもよいか
もしれません。

もちろん、そこには第1次世界大戦以来、汎ヨーロッパを唱えていたクーデン
ホフ・カレルギー氏のような思想家、またフランスの外交家で体系的な構想を
現実のものにするジャン・モネ氏のような優れた政治家が存在したことを忘れ
てはならないと思います。

 それは夢だと思われていた経済統合、とくにEUROという共通通貨が誕生し、日
常化し、かつてソ連圏に組み込まれていた国が相次いでEUに加盟している状況を
みると、まだまだ解決すべき課題は多く横たわっているにせよ、今は亡きボルゲ
ーゼ女史(2002年2月没)の好きな言葉、「今日のロマンチストは明日のリアリ
スト、今日のリアリストは明日は消える」を思い返さずにはいられません。

            (元日本社会党国際局長・元衆議院議員)

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