不平等と貧困
日本社会の現在と民主主義の中心課題

井上 定彦
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〔もくじ〕
 1.貧困の広がり、問われる「社会の持続可能性」
 2.社会的孤立と貧困 — 社会解体の懸念
 3.コアをなすワーキング・プアという問題 — 疲弊する青年と女性
 4.民主主義と自治の意味 —「空洞化」を回避し社会自治の力を高める

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◆1.貧困の広がり、問われる「社会の持続可能性」
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 格差や低賃金の問題が議論されるようになってからかなりたつ。今からみると、フリーターやワーキング・プア、そしてさまざまな貧困層について、それなりにジャーナリズムでもとりあげられるようになったのは、市場原理主義を基調とした小泉政権の退場のころからだった。2008年の日比谷公園のテント村(ホームレス問題)の頃からは、政権交代の背景のひとつにまでなってきたし、その後もすくなくとも個別課題としてはしばしばとりあげられることもあった。不十分なものとはいえ、個別対応策として法律となったものもある(困窮者自立支援法、子どもの貧困対策法等)。
 しかしながら、これが現代日本の社会・経済・政治にとってもっとも深刻で最大の課題である、というような認識は必ずしも定着したようにはみえない。またそのような視点にたつ系統的な政策や社会での戦略的な対応策についつての合意はない。筆者は、このような不平等と貧困という問題は日本の諸課題のひとつということではなく、未来を含めて社会の根幹に関わる致命的ともいうべき課題であると考えている。すなわちこのままでは日本社会の持続可能性すらも危うくなっているのではないか、という強い懸念がある。

 最初に二つの意識調査を紹介しよう。
 ひとつは、「国民生活基礎調査」(2013年調査、厚生労働省)によると、今日の生活の状況いかんについて問うと、1986年時点では、「普通」が50%を越えていたものが、2013年調査では大きく低下、「大変苦しい」「やや苦しい」の合計は60%となっている。生活の「ゆとり」どころか窮迫感が過半にまでひろがっている。かつては「貧困」というのは終戦直後の状況をさしたり、めぐまれない例外的な社会層についてのことであったが、いまや貧困は日常的というか、むしろ普通のこととなってきたわけである。
 近年は「貧困対策」という名前のついた法律(「子どもの貧困対策法」)も成立するような時代に変化したのである。ここには、この20年の間に主要諸国では例外的にGDP規模の縮小ないし停滞が続いているという日本の平均値的な姿があるが、それに加えて社会構造の変化への制度的対応が遅れている、という問題がある。

 いまひとつは、経済的貧困はむろん含まれるものの、もっと深刻なのは人々の間の「関係性の貧困」、たとえばOECDがさきに「社会的孤立」に関する国際比較調査(2005年)をおこなったところ、日本は孤立度、「孤立感がもっとも強い国」とされたことに端的にあらわれている。かつて日本は家族や地域の支えあう力、営利企業にもかかわらず会社は雇用維持や人的能力開発、退職金のみならず、従業員の生涯支援についての福利厚生にも力をそそいできたといわれてきた。
 日本はある時期には「文明としてのイエ型社会」とか、「一億総中流社会」とかいわれてきたわけであるが、今日まさに昔日の感がある。いまとなってみれば、「強い家族」「強い企業」「強い地域共同体」というような観念(そのときの現実から相当に乖離はしていたわけであるが)があったために、実際に進行してきた社会構造の変化への認識が遅れ、必要とされる社会制度の新たな構築、コミュニティ機能の新たな構築、「家族にやさしい」社会政策の設計等が遅れてしまったということではないだろうか。

 日本での貧困と格差のひろがりについて、少し時間軸を先にのばして考えると、事態の深刻さがみえてくる。よく指摘されるのは、「人口減少社会」と悲観的な日本の将来人口の推計についてそしてそれに連動する経済・財政の状況の悪化という点である。すでに2005年頃から人口減少がすすみはじめており、「選択する未来」委員会のデータによると2013年の人口1億2730万人、高齢化率25%というのは、このままでゆくと2060年には32%減の8674万人へ、高齢化率は40%となる。
 成長率は投下労働量×生産性上昇率なのだから、労働力人口が1995年頃からわずかずつ減りつつ、一人あたり生産性上昇率は主要国に対して遜色はなかったにもかかわらず殆どゼロ成長を続けてきたという経緯がある。これからは主要国の中でももっともひどい財政の累積赤字規模に加えて、かつては黒字がずっと悩みだった貿易収支が近年赤字に転じ、その幅が拡大しているのである。さらに、高齢化に伴い国内の民間貯蓄率がアメリカ並みに下がっていくとなると、過去20年間については不十分ながらも拡充していた社会保障や財政支出が中央でも地方でもこのままでは維持不能となることは時間の問題である。

 そこに、社会の基礎構造である家族や地域コミュニティのあり方の変化、そして非正規雇用比率が40%近くまで上がってきていることにもみられるような会社・職場の変化、しかもそのスピードが速くなってきていること、そこでは近代化のひとつの帰結ともいわれる社会解体の懸念がますます現実化してくる。これは個人的責任に解消できない社会的な課題である。西欧では公的社会保障の拡充、育児・教育の社会化(無償化を含め)、医療・介護の社会化と社会負担について、19世紀後半から20世紀をつうじて100年前後はかけて拡充してきた。
 日本はその西欧・北欧諸国の人口停滞の経験をはるかに上回る速いスピードで人口減少過程に入り、家族や地域社会の変貌が急激に進んだ(「圧縮された近代」とか「半圧縮された近代」ともいう)。そしてそこにひろがっている貧困と社会的孤立、格差拡大という二重の困難に直面している。

 はたして社会の持続可能性をいかにしてはかってゆくのか、社会の再生産が可能なのかどうかが問われている。日本はマクロでみても、ミクロでみても、世界の「社会課題・先進国」なのだ、という認識をもつことが必要である。というのも、こうした社会現象はひとり日本にとどまらず、すでに合計特殊出生率が日本以下にまでも低下してしまっている東アジアの韓国、台湾、中国大都市部を含む新興諸国においてせいぜい10から20年後に迫ってくる課題でもあるのだ。

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◆2.社会的孤立と貧困 — 社会解体の懸念
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 さきのOECDの日本の孤立感の強さをしめす調査は、いかなることを意味するかを考えると、むしろ個人主義の徹底したアメリカや西欧の方が孤独感が強くあらわれそうにもみえるが、それらの国ではさまざまの社会団体(NPOや宗教団体、文化活動団体)に多くが複数にまたがって所属していること、殊に西欧・北欧では地域コミュニティ・レベルの公的社会福祉活動が充実しているということがある。つまり、横型の社会的つながり(Social Cohesion)の多元的なネットワークが形成されているということがある。
 他方、同じ東アジアでも韓国も孤立度が国際的には高い方に属するものの日本ほどではない。というのも未だもとの家族・親族の紐帯が強く残っていることにあるのかもしれない。しかし、これも時間の問題ではないか。日本もかつてならば農村共同体や家族・親族そして会社がコミュニティとして機能することで福祉・教育を含めこのような共済的役割を担ってきたといわれていた(「文明としてのイエ型社会」)。しかし、わずかこの20〜30年で間での、会社のあり方、家族・地域コミュニティの変化があった。かつては冠婚葬祭にも会社が支援し、雇用慣行も退職金も生涯にわたることが「通念」としてあったが、いまや中小企業を含めてそのようなつながりは乏しくなっている。

 並行して家族の変貌のスピードが速い。まずは基礎となる一般世帯の平均人員は、戦後ながらく5人前後の時期が続いたが、次第に3人そして近年は2人強、すなわち単身者世帯の比重があがり、核家族はかならずしも代表モデルではなくなってしまった。離婚率も高どまりし、かつては独身貴族といわれた「パラサイト・シングル」は、親の年金にすがる自立できない「中年」に変わってしまったところも多い。
 地域社会の変貌はもっと激しく、元の町内自治会や小学校単位の保護者のまとまりも希薄になっているところがふえている。殊に大都市近郊の高度成長時代におしよせた世代が居住するベット・タウンは、まずは相次いで「孤独死」対策におわれることが普通のこととなった。結婚しない青年層だけでなく、一斉に高齢化した地域で高齢者夫婦世帯は多くは最後は単身世帯となり、いずれも社会的に孤立しがちとなるからである。体が不自由になると介護虐待を懸念するどころか、駆け込み先を探し続ける「介護難民」として流浪するのが普通のことになっている。
 このような中では、シングル・マザー(ファーザー)の多くは孤立し、子育ての文化を受け継げないままで児童虐待、不登校が目立つ、ということになる。
 日本社会の基礎構造をなしてきた家族の変貌、地域コミュニティ力の低下、日本にはあったとされた会社のコミュニティ機能放棄が重なったところに(「無縁社会」化)、所得格差と不平等の広がりという現代経済の課題がおしよせているわけだ。

 さまざまの所得統計・資産統計の格差・分布について、ようやく国際規模での調査研究が近年なされるようになった。OECDの所得格差の国際比較統計が、それまで比較的平等度が高いと思われてきた日本について、実際にはアメリカに次いで格差の大きな国であることがあきらかとなって衝撃をあたえてから、すでに数年はたつ。
 最近、ひとつの出版ブームにもなったトマ・ピケティの「21世紀の資本」は、主要国の所得・資産の格差拡大は、19世紀からの基本的傾向であり、これからもよほど強烈な政策手段(たとえば国際規模の累進資産課税のような)が実施されないかぎり、格差社会はいっそう広がる。統計的根拠にもとづいて、反証困難な分析が体系的に示した。そして日本はむろんそのなかに含まれるのである。つまり、第二次大戦から1970年代までの格差圧縮の「資本主義の黄金時代」の時期の方が例外的だったというのである。社会分裂の様相は、世界でこれが放置されるかぎりこれからますます厳しくなると警告しているわけだ。

 日本の場合は、上位1%層の所得層への集中も問題ではあるが、それよりも、冒頭にみた貧困感のひろがりにあらわれているように、所得上位10%を除く90%で貧困化が広がっている、ことが統計的に検証できる。大衆層の没落というものもいる。そのなかでも下位40%の貧困化がいちじるしいという。それは後述の低賃金層の拡大に深く関わっている。
 非婚、未婚者比率が男女ともに上がっている。初婚年齢があがり晩婚化がすすんでいるだけでなく生涯にわたって一度も結婚しないのもの比率は、男性の2割弱、女性の1割強にものぼり、これらが直接的な主因となって出生率が下がっている。なかでも親と同居の壮年(35−44歳)未婚者数は、1990年ころには100万人程度しかいなかったが、2012年時点で305万人もいると推計されている(統計研修所・西氏推計)。これは親の介護をささえてくれる側面がある一方で、このままでは持続不能である(パラサイトが多数でないことを前提としても)。このことと低所得・低賃金層と重なる部分が大きいことは推察の通りである。

 民主党と自民党の政権の間にかけてのこの7−8年のあいだに、少子化対策をはじめ個別のさまざまな対策はなされてきた。しかし、マクロで集計された所得の再分配効果はそれほど大きなものではなかった。「格差社会・日本」の是正は殆ど進んでいないという現実がある。
 やはり、少子化対策としての個別分散的な対症療法ではまったく不十分である。この場合はむしろ「子ども対策」、「家族支援対策」を正面において、結果として「少子化」対策にもなる、というように考えるべきである。
 教育学者のあいだでは、現在の子どもの貧困は社会の矛盾の縮図であり、これが社会階層の亀裂をその子どもの人生全体にわたりひろげるにとどまらず世代を越えて教育格差をひろげ引き継がれてゆくとの多くの警告がだされている。
 問題は現在の所得格差また貧困そして社会的孤立が悪循環しているということである。

 ごく普通の働くものにとって、一次所得における是正(最低賃金引上げ)にとどまらず、社会設計を日本の基礎社会の構造変化に対応したかたちで戦略的に組み直す必要がある。本格的な子ども手当て含む最低所得保障、教育の家計負担の軽減と公教育の拡充、介護の社会化と保障、困窮者支援を含む社会公共サービス、地域包括支援のシステム整備すること、その前提となる雇用保護の政策や後退の懸念のある医療保障や安定的な年金システムの保障など、暮らしの安定度をます基本戦略が不可欠なのである。
 それには系統的な普遍性のある福祉システムをいま一度1995年の「社会保障制度審議会第三次勧告」にそって、その後の社会構造、雇用構造の変化をふまえて再設計しなければならない。働く意志と能力のある高齢者がずっと働き続けられる年齢差別禁止の考え方がさらに現実化されていくことも不可欠であろう。

 人口減少の懸念に対して、欧州のいくつかの国がとった少子化への対応は、社会の多数をしめる普通の人々、雇用労働者の家庭を視野に生活を支えるに足る子ども手当てを含め系統的な福祉社会システムをつくること、家族の変貌や孤立しがちな社会に対して「家族にやさしい政策」をとることであった。せめて人口置換水準にもどるためには(あるいは、人口減少のテンポを遅らせるには)、対症療法・部分的効果しか期待できない程度の個別政策以上のものが必要なのである。
 そこには、いまひとつ、新自由主義的政策傾向や思潮に対する、カウンターパワーがグラス・ルーツに定着している必要があるという大切な点がある。すでに社会的格差の拡大がひとり経済的格差であるだけでなく、人間の精神的状況、生理的な健康・寿命にまでも大きな影響をおよぼしている、との実証研究が医療や社会疫学から公表されている(R.ウイルキンソン「平等社会 成長に代わる次の目標」)。すべてを個人責任に解消し、短期的な市場価値を尺度としてみるような(新自由主義の)文化傾向に対して、社会の共同性やその長期的な構築、「社会的共通資本」とか市民的「信頼」といってもよいが、そこを重視する社会活動・文化活動の役割、またその知的ヘゲモニーの大切さが注目されねばならない。「社会的一体性 social cohesion」や社会的信頼を高める職場文化、地域文化をつねに支え高めてゆく日常活動のひろがりなしに、福祉社会の普遍性を担保することはできないのである。
 「無縁社会」化と「リスクの個人化」(ウルリッヒ・ベック)のなかで、社会解体の懸念に立ち向かうには、制度政策上の対応に加えて、職場と地域でのさまざまの共同性の構築活動、連帯活動の日常化が不可欠であり、「成果主義」「能力主義」というレッテルでの差別、地域や暮らしの場における「社会的排除」の横行をチェックしつづける必要がある。

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◆3.コアをなすワーキング・プアという問題 — 疲弊する青年と女性
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 日本の貧困と不平等に通底するコアとしての問題は、働きながらもなお貧困であるという点である。欧米での貧困層はどちらかといえば、失業とか疾病・事故による労働能力の喪失がイメージされるが日本ではそうではない。フルタイマーとして働いており、一定期間の仕事の継続性、それなりの専門性をもつ仕事についていても、月収15万〜よくて30万弱、年収にして200万〜300万足らずの低所得階層が中心をなしており、なかには生活保護の部分的受給で暮らしている層もいる。ここには青年労働者の多く、女性の労働者そしていまや高齢労働者もふくまれ、まさに「ワーキング・プア」といわれる分厚い層をなしている。
 日本の所得分布は正規分布をなさず、所得の低い部分のところに大きな山があらわれるのは、多くは働いている層なのである。これにはいまや1800万人、雇用労働者総数の40%に迫ろうとしている非正規労働者にも重なる。
 またこれには不安定就業のために雇用保険、健康保険、厚生年金についても切れ切れになりがちであるということが追い打ちをかける。真に社会的再分配によって支えられるべき層がその対象からこぼれがちになっているという現実がある。この層は低下した労働組合組織率や労働組合の社会活動の減衰、生協活動の停滞によって、社会に包摂されるための手段すら制限されている現状にある。

 今後ますます求められる介護士の平均所得は月22万円、他の産業の平均所得よりも10万円低い。また東京都の公立保育園ですらも、保育士の40%は非正規、年収120万円ということである(公務員保育士はそこそこの水準、私立保育園や地方の保育園はもっと低いところもある)。資格を必要としており、多くはほぼ同程度の労働時間にもかかわらずなのにである。看護師については有資格者数が多くても労働時間や負担の重さから実際に働いてくれるものが少ないことは知られていた。
 比較的安定しているといわれてきた理容師・美容師についても、過当競争から長時間労働、所得の低下が目立ち、平均月収は22−23万円ということだから、これらの専門職の年間所得での暮らしは誠につましいものである。別格とされていた公立小中学校の教職員についても近年ますます非常勤の比重があがっており、全国平均でも1割をすでに越えた。

 このなかで、製造業だけでなく、流通やサービス産業で働く労働者の労働条件は、労働時間、仕事の負荷・困難度などを含めて多くの問題がある。これは非正規社員が通常は問題とされるが、正規社員でも同レベルの労働条件から脱することのできない「準正社員」の分厚い層もある。そこにはミニマムともいえる社会的規範や法令を無視して人を酷使する「ブラック企業」が日常的に存在する。これは決して中小零細企業の職場に限られないことが、先年も報道された。
 労働基準法や職業安全衛生法による長時間労働の規制が無視されることが日常化し、なさけないことに国際的にも「karoosi=過労死」として知られるようになってから、過労死、過労自殺についての調査、統計が公表されはじめた。2013年9月には、労働基準局は「若者の使い捨てが疑われる企業等への重点監督」の実施をおこなうと共にその結果を公表した。
 それによると、若者の「使い捨て」が疑われる5111事業場のうち4189事業場、全体の82%に何らかの労働基準関係法令の違反があり、「違法な時間外労働があった」43.8%「賃金不払い残業があったもの」23.8%、「加重労働による健康障害防止措置が不十分なもの」21.9%、もともと「労働時間の把握方法が不適性なもの」23.6%と高い比重の事業場で法令違反があったと報告されている。なかでも目をひくのが、1か月の時間外・休日労働時間が最長の者の実績で80時間超というのが1230事業所、24%にものぼるということであった。

 すでに過労死、過労自殺については、多くは過労・長時間労働から「うつ病」にかかることに関わっていることは知られていた。まともな労使関係のあるところならば、労働安全衛生法にもとづく指針や医療上の対策が導入されているはずであるが、多くは見過ごされ、職場・会社レベルで放置され遺族から訴訟がおこされたことから、裁判となり最高裁判決がでたという経緯もある。
 しかしながら、いまだに大半は表沙汰になることなく、「ブラック企業」「ブラック職場」は放置されたままとみなければならない。2014年になってようやく「過労死防止法」が成立したが、すぐにそのあとから「ホワイトカラー・イグゼンプション」導入が労働政策審議会で決められた。結局はこの問題も行政の責任範囲はかぎられており、労働組合運動を含む社会活動いかんにかかっている。企業や業界、労働組合の社会活動など日常の民間ベースの活動力の向上や規範力の広がりがなければプラスの効果は生じえない。

 かつて「日本型企業」というのは生涯にわたって人を育てる力がある、長期雇用と年功型賃金はそれに見合うものだ、と想定された時期があった。かりに、大学を含む学校教育にはあまり人材育成機能はなく選別機能しかないとしても、それでも企業が「最大の学校」として人的能力開発にあたることで産業・企業の中核的人材を育て、それが日本の高い生産性の源泉となっているといわれてきた。いまやこのような見解は殆ど消え去るような厳しい現実がある。「良好な雇用機会」の幅が社会全体としてますます狭まっているだけでなく、人を選別・区別して管理しても、職場で人を育てる機能を大幅に低下させているとみざるをえない現状がある。
 したがって、女性労働力の活用がいわれ、残業自粛・有給休暇取得が表向きには奨励されても、現実の勤労者の生活レベルにはなかなか反映しない。労働市場全体が「規制緩和」の掛け声と共に制度・政策によって、ますます「奈落の底」への競争というメカニズムが作動している現況がある。

 この2年の間、安倍政権は、「アベノミックス」の成功には賃金の実質水準が下がらない程度の積極的「賃上げ」が必要だとの認識に達し、2014年春闘、2015年春闘では政府そして経団連をふくめての支援に回ったという。これは1980年代までの日本政治を知るものにとっては驚くべき変化というべきだろう。しかしながら、このような「官製春闘」によっても、過去数年の実質賃金の低下がはたして止まるかどうかいまだ定かではない。労働市場秩序の「底抜け」状態が制度・慣行でつくりだされたあとで、労働者の労働条件が買いたたかれる「慣性の法則」を脱することができるのであろうか。この2014年度の実質成長率の見込み実績マイナス1%といわれ、実質賃金低下による内需の停滞がアベノミックスの実績なのである。

 これも、リスクが個人化し、新自由主義原理による労働市場改革、政策的「思想イデオロギー」が日本社会と人間へ浸透してしまったという現実について、まず直視するところから考え直さねばならない。すなわち、こうした社会的現実を踏まえて、総合的戦略をもって、社会全体でのぞまなければ方向転換は難しいということだろう。
 地域で孤立し、職場で孤立する、そこにかつては地域運動の主力であった女性(多くは専業主婦)が、不足する会社の労働力・戦力として吸収されてゆくとき、子ども、老人、障がいをかかえるもの、孤立した個人をケアする地域力はさらに下がってしまうことになりかねない。
 職場は「成果主義」の仲間の間での競争のなかで、「無縁職場」となり、「ワークライフ・バランスの回復」という夢は逃げ水のように遠のくばかりとなってしまう。
 これが人口減少にも帰結している家族、地域と職場の現状であるとすると、日本社会の「持続可能性」を回復することは容易なことではない。

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◆4.民主主義と自治の意味 —「空洞化」を回避し社会自治の力を高める
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 以上みてきたように、日本の貧困と不平等、ひとびとの社会的孤立、ひいては社会解体の懸念や社会の持続可能性という深刻な問題は、なにかひとつや二つの原因に帰することはできない。また単純な経済政策の過誤ということもできない。それは、家族やコミュニティをはじめとする社会の基礎構造の変容、産業と企業の行動体質の変化、人々のライフフタイルと価値認識の変化、それにインパクトをあたえているグローバル経済という国際環境の変化などを含めて問い直さねばならない。
 産業・企業はグローバル金融資本主義の勢いのもとで、みずからの金融市場での価値極大化の論理からして、国民国家の利益なぞはないがしろにして行動しようとする(法人税引下げ、社会的規制の撤廃、タックスヘイブン利用等で)。日本社会や地域に責任をもつ企業ということでななく、「グローバル企業」たるように価値最大化をはかるように行動し、それ(新自由主義政策)に抗する思想・政策・行動を阻もうとする有力な政治ロビーを形成している。ジャーナリズムの大宗もそこになびいている現状がある。現代社会の市民という名前の多くの「孤立した個人」はリスクは個人化され、極限にまで「私」の個人責任を意識し、その多くが社会的敗者意識をもってしまう。

 最近の日本社会の文化風潮について、ある友人が印象的な話しをしていた。
 その特徴とは、ひとつは「俺だけ、わたしだけ」(得する、損してる)、次に「カネだけ」これは明快、そして「いまだけ」=短期主義、という「三「だけ」主義」なのだ、という。もしも、政権政党の政治家や財界・産業界のリーダー「群」とみえるものも、「個人化」しておりそれぞれの「孤独な群衆」、三「だけ」主義に生きている「マス」なのではないか、という心配すらある。
 このような社会政治風潮のひろがりと日常化は、いまや1990年代から2015年にいたる四半世紀の「歴史過程」、「時代」というべきところまでに根深くなっているかもしれない。「人間の生きる社会はこうした短期的志向・思考に到底たえられるものではない」、政権と政策の思考は「時間軸を広くとらねばならない」(注)というのは社会の維持再生産を保つという言葉の正しい意味での正統な保守の認識である
 (注)日本アカデメイア『長期ビジョン最終報告・総論』2015年2月

 昨年暮れの衆議院選挙の歴史的な低い投票率について、民主主義の「空洞化」を懸念する論評は多かった。上記までの日本の社会状況を考え合わせると、ここには本来は民主主義というものがもつべき(もつはずの)、社会自治と統治の規範力を、社会の底辺から再構築するという大事業が浮上していると考えるべきだと思う。すくなくとも、それくらいのレインジでものごとを判断し、行動を積み重ねてゆくという視野をもってもらいたいと思う。
 したがって、このような点は、表層的な政党の選択や参加にとどまらず、さまざまな社会組織の慣習や伝統(昔は「作風」ともいった)をねばり強くつくりあげてゆくという数千、数万、数十万の社会活動家(ソーシャル・ワーカーともいうべき)の交流と育成が時代の課題になる。
 行政制度における制度・政策の改革(いわんや文面づらだけの)が求められるだけではない。本当に「市民的文化」といわれる自立して思考し行動する人々を社会と職場で育ててゆく、日常的慣習となってゆく、そのような変化、活動の強化が必要である。

 地域と職場に、「無縁社会」と「無縁職場」が瀰蔓しているとすれば、そこについても自ら温かい気持ちで立ち向かい、コミュニティを構築してゆくという「心の慣習」の形成が期待されている。この頃は、アメリカのプラグマティズムが見直され(ジョン・デューイあるいはアレクシス・トックビルのように)、実践を通じて社会が構築されてゆくのだという「思考」、思想に着目する論者が目をひく(宇野重規『民主主義のつくり方』、猪木武徳ほか)。そのとおりだと思う。ここには、地域と職場が「家族にやさしい」文化、コミュニティを地域でつくり直す日常活動へ参加する、またを支援し再構築してゆくことも含まれている。
 このようにみてくれば、現代の日本社会にそのような芽がないわけではない。それどころか、近年の近隣の市民社会活動(地域より濃淡の差が激しいが)は、前期高齢者(60−70歳代)中心に、あるいは年齢層、性別を問わず、さまざまな社会活動、文化活動、情報発信活動、スポーツ活動等が広がっている。それが地域活性化の大きな力になってきていることも実感できる。NPO法が成立して16年(団体数4万団体、構成員数十万人)、寄付税制等の強化もなされ、また公益法人としての活動もしっかりしたところも多い。
 地域の社会福祉協議会のかなりの部分も、いつの間にか、かつての地縁権威主義のヒエラルヒーと不活性状態から脱していきいきと活動しているところも多い。地域自治体によっては、地域福祉が自治体の責任事項として明示されて久しくなり、いまや公的に策定された「地域健康福祉計画」にも、公助でもなく自助奨励でもない、地域社会の「共助」を重要な柱として明示的位置におかれるところも多くなった。ここには自治体の財政逼迫という現実からくるところはあるだろうが、かつての旧共同体が失われたあとでのヨコ型の市民協働のコミュニティづくり、としてみるべきものも少なくない。

 民主主義の「空洞化」と無縁社会化・無縁職場化との関係が重なっているとみられるとすれば、いまはさまざまなレベルでの「社会自治」を工夫・強化し、確立してゆくという極めて正統な進み方が基本となる。このことが、同時に民主主義を内実化して政治の空洞化を回避する、基礎社会を再構築してゆくうえでの王道だ、ということだ。
 むろん、これは地域社会においてだけのことではない。職場には本来的には、おなじように働くものとして「コミュニティ」機能をつくる可能性がある。それを伸ばしてゆくことが重要である。労働組合が組織されているところはまずもってそのような日常的な活動の文化を意識的に形成しなければならない。ユニオン・リーダーは職場活動家、地域活動家を育て、日常活動を構築していくという任務がある。また地域にはさまざまの市民活動がある。多様なクラブやサークル、社会活動団体が多元的・多次元的に存在している。
 そこに本来的には職場の市民運動にほかならないはずの労働組合運動が結びつき、「職場力」と「地域力」を共に強化しうるはずである。より多くのものがそのような「ソーシャル・スキル」を身につける。そしてそこで目的意識的にソーシャル・ワーカーとしての役割をはたしてゆくことが「活動家」の仕事である。そのようにして築き上げられてゆく社会の自治力が、民主主義を生かし社会形成を担う。

 しかしながら、現政権までの政治や規制改革という名前の動きの多くは、それに逆行しむしろ抑圧的である。たとえば学校教育の現場においては校長に、また教育委員会の権限は制限され首長のもとに集中。また会社においては、現場の従業員の自発的な意志や選択・向上を生かすよりは、トップへと権限が集中さることがいかにもよいことのようにいわれている。これでは、地域と職場のさまざまな創造性、活力を引き出し、民主主義の力を活性化させるどころか、権威主義的に抑制し萎縮させることになってしまう。
 新自由主義の思想は、しばしば権威主義と結びつきがちであるが、ここにおいて社会と時代がもとめている民主主義の内実化・活性化ともっとも鋭く対立する。
 社会構造の変化、家族の変化、地域社会のなかに民主主義の力と規範力を確立してゆく、そして職場のなかにも民主主義を生かすことで、良き社会と良き政治を構築してゆく。
 そのような出発点にあらためて立たなければならない。その延長線上には、現代的な「より良き国民国家」を再構成・確立し、グローバル企業の利権拡張主義の世界的台頭についても、社会益・公共益を踏みつけにさせないように国際レベルでもチェックできる仕組み造りを「良き国民国家」の協調行動で組織してゆくという視野が現代世界に求められている(ダニ・ロドリック『グローバライゼーション バラドックス』)。
 このような社会の基礎から国際レベルいたるまでのスコープでながめるとき、日本にはかつて欧州で大きな存在であったし、今日なお存在している強力な「中道左派」の政治社会勢力という政治空間がガラ空きとなっている、あるいはかつての保守本流すらも影が薄いような気がしてならない。

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◆むすび
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 日本は急激な高成長と、近代化にともなう家族やコミュニティなどの社会基礎構造の大きな変化があり、そこに長期の経済停滞と新自由主義型の経済政策の展開が不幸にも重なってしまった。そして、ほほ四半世紀もの時間が経過した。そこに今日の経済停滞とそのなかでの格差拡大・不平等の拡大が加わってきたのである。日本の社会は家族機能の低下、人口減少の進行、地域社会機能の衰退など、そうでなくとも社会解体の懸念があった。速いテンポの都市と農村の衰退(孤独死などに象徴される)は、日本の社会の持続可能性が本当に危うくなりつつあることが懸念される。

 社会基盤の根底があやうくなってきているとすれば、経済政策は異次元の量的質的緩和というような金融政策なぞに縮減・特化して株高にうかれるときではない。系統性ある社会政策を基本に、持続可能な経済となるような堅実な経済政策が統合的に展開されねばならない。生涯働き続けることが出来、生きがいのあるような、地域と職場を創造してゆくこと。そのためにリカレント型の公教育システムを強化し、雇用保護、持続可能性のあるそして高い安定性を持つ社会保障の改革も求められる。
 そして、そこでは、地域や職場での知的道徳的ヘゲモニーを担ってゆく、ソーシャル・ワーカーとしての多くの活動家がその担い手として求められる。その中核となるような志をもつ人材育成に社会の総力をあげ取り組んでゆく、それ以外の早道はないように思う。 (三月十二日記)

 (筆者は島根県立大学名誉教授)


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