【オルタの視点】

ロヒンギャとはなにか? 受難の民はどこへ行く?

荒木 重雄


 ミャンマーでのイスラム系少数民族ロヒンギャへの人権侵害と、それに対する国際社会の批判が、この2カ月ほど、連日、新聞・テレビのニュースを賑わせてきた。
 ことは、8月末、バングラデシュと国境を接する西部のラカイン州マウンドーで、刃物や棒を手にしたロヒンギャとみられる集団が警察施設を襲撃したことにはじまる。これに対し、治安部隊は、ロヒンギャ住民の集落に広範囲な掃討作戦を展開して、銃撃や暴行、性的虐待にくわえ、村全体を焼き払って、住民の追い出しを図り、400人以上の死者を出し、50数万人が難民として隣国バングラデシュに逃れたのである。

 この事態に対して、イスラム教徒の多いインドネシアやマレーシア、中東諸国ばかりでなく、欧米諸国や国連、さらにはノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイ氏らからも厳しい批判が起こり、ミャンマー民主化の象徴として同じくノーベル平和賞を受けた、事実上のミャンマー政権トップ・アウンサンスーチー国家顧問は窮地に立たされた。

◆◆ ロヒンギャはなぜ迫害されるのか

 だが、ロヒンギャの人権状況が問題になったのは今回だけではない。近いところでは昨年、一昨年、12年、09年にも、仏教徒住民や軍から迫害を受けた何万人もが国外に逃れようとして、何千人かの難民が老朽船でアンダマン海やマラッカ海峡を漂流しながら多数の犠牲者を出したり、あるいは、陸路を逃れながら人身売買業者の手にかかって、過酷な扱いのすえ放置された多数の遺体が発見されたりして、国際社会の耳目を集めた。

 このような迫害を受けるロヒンギャとはそもそも何者なのか。
 15世紀から18世紀にかけて、当時、ビルマ西海岸に栄えていたアラカン王国(アラカン族の国)に、東インドのベンガル地方(現在のバングラデシュ)から、商人や傭兵として移ってきた人たちがいた。アラカン王国の繁栄の基盤は、仏教国ながら、ベンガル湾のイスラム諸国との海上貿易にあったため、貿易を推進する便宜上から、王朝ではイスラム教徒の名を名乗る王さえあった。
 そのような中で、ベンガル地方から移住してきたイスラム教徒のかれらが重用されたのは当然である。その末裔を中心に、19世紀以降の英領植民地時代や、1947年の印パ分離独立の騒動の中で移ってきたベンガル系イスラム教徒も加わって、かつてのアラカン王国の地であるラカイン州にまとまって住むのがロヒンギャである。

 19世紀、英国の植民地政策によって、伝統的に仏教徒の地主が継承してきた農地がイスラム教徒の労働移民にあてがわれることが起こり、それが仏教徒対イスラム教徒の対立をめばえさせ、さらに第2次大戦中、日本軍が仏教徒側を、英軍がイスラム教徒側を、武装させて戦わせたことが対立を先鋭化させた、との指摘もあるが、ともあれ、イスラム教徒ロヒンギャ族と仏教徒アラカン族は、日常生活レベルでは普通に共存してきた。それが急激に変化したのは、ネウィン軍事政権下の1982年のことである。
 この年に制定された国籍法でロヒンギャは国籍を剥奪され、バングラデシュからの不法移民とされて、無権利状態に置かれることになった。さらに88年、アウンサンスーチー氏らの民主化運動を支持したことが軍事政権の逆鱗に触れ、ロヒンギャに対する財産没収や移動の制限、強制労働や暴行などの弾圧が常態となって、現在に至っている。

 注目されるのは、2011年の民主化過程以降もロヒンギャの人権状況は改善されぬばかりか、むしろ悪化を辿っていることである。たとえば公民権。軍事政権に結果を無視された1990年の総選挙でも、テインセイン政権に移行した2010年の総選挙でも、軍政下の選挙ではロヒンギャにも被選挙権が事実上認められ、立候補して当選した議員がいた。ところが民政移管後の、国民民主連盟政権が成立した15年の総選挙では、ロヒンギャ出身者やイスラム教徒のほとんどは選管から立候補を認められず、ロヒンギャには前回は与えられた投票権すら認められなかった。さらに同年には、異教徒男性と仏教徒女性との結婚を規制する法律さえ成立した。
 こうしたロヒンギャの人権抑圧の動きに、民主化を訴えてきたアウンサンスーチー氏は沈黙を保ったままであった。

◆◆ ミャンマーを蝕む少数民族問題

 だが、ミャンマーでロヒンギャは少数民族にかかわる主要なテーマではない。さらに広範な少数民族問題がある。
 ミャンマーの人口の7割余りは、ほとんどが仏教徒のビルマ族であるが、かれらは国土の中央、イラワジ川流域の平地を占め、その周囲をかこむ山地には、人口のほぼ25%に当たるさまざまな少数民族が、精霊崇拝に加えて仏教、キリスト教、イスラム教などを信奉して居住している。
 全体で135民族ともいわれるが、主な民族は、居住地(州)にそって西から時計回りでみると、インドと国境を接する地域に住むチン族、中国と国境を接する地域のカチン族、ラオス、タイと国境を接する地域のシャン族、その南のカヤー族とカレン族、さらにその南に住むモン族などであり、これら主要民族を含む少数民族各派が、合わせれば20を超える、それぞれの民族の名を冠した武装組織をつくって、束の間の停戦をはさみながらも60年あまり、ビルマ族の中央政府と戦ってきたのである。

 しかし、このような強い民族意識がもともとあったわけではない。かれらは、焼畑や水稲耕作、あるいは象を使った山仕事など、環境に適合した生活形態で棲み分けながらも、交易と交流を通じて穏やかに共存してきた。

 ところが1885年までにビルマ全土を支配した英国植民地政府は、ビルマ人と非ビルマ人を類別し、さらに非ビルマ人も民族ごとに細分して、平野部のビルマ人居住地域は総督による直轄統治、山岳地帯の各少数民族にたいしては土侯・藩王など伝統的な権力者を残しての間接統治という、英国お家芸の「分割統治」を実施した。この政策が、人々にはじめて「われわれ意識」(民族意識)を目覚めさせたことが指摘されている。

 さらに植民地政府は、非仏教徒である山地民にキリスト教の布教を行い、キリスト教と仏教の対立を生み出した。布教の対象になったのがカレン、チン、カチンの各民族であった。とりわけ、この中で最大勢力のカレン族は、植民地政府に官吏、軍人、警官を供給し、ビルマ人の弾圧に手を貸すこととなった。

 これに対してビルマ族の民族運動は、後述のように、仏教を推進軸に進められ、ビルマ族を抱き込んだ日本軍政下では逆にカレン族が「英国の犬」と蔑まれることとなった。

 こうして煮詰まっていた各民族の民族意識は、1948年の独立を前に、独立後の権益をめぐる自己主張と化して膨らんだ。ビルマ族の国軍を率いて独立を導いたアウンサン将軍は、民族居住地別の州編成と州の連邦からの分離権を定めて少数民族の統合に努力したが、独立を見ずに凶弾に斃れ、少数民族側はビルマ族と平等の権利や一層の民族自治を要求して、カレン族を先鋒に各民族団体が次々と反政府武装闘争を開始した。

 少数民族勢力と、共産党などビルマ族反体制派の勢力に押されて、中央政府は1950年代初めの一時期には、僅かに首都ラングーン(現ヤンゴン)のみを統治する状態に陥ったが、やがて、ネウィン率いる国軍が態勢を立て直し、反乱勢力を辺境のジャングルに追い込むまでに至った。それ以来、各少数民族は、勝つ見込みのない、しかし決して武器を置かない抵抗を続けることになったのである。

 少数民族についてはもう一つ触れておこう。カレン州のジャングルにあったカレン民主同盟(KNU)の根拠地マネプローは、カチン、モン、シャン、パオなど各少数民族の武装組織も糾合した民族民主戦線(NDF)の本拠でもあった。そこに、1988年の民主化闘争で軍事政権に追われた学生、知識人、僧侶などが集まり、90年の総選挙で当選しながら身に危険の迫った国民民主連盟(NLD)の議員なども逃れて、ここがいっとき、民族を問わぬ反軍政民主化運動の拠点として高揚した。ところが、95年、軍事政権が同じカレン族の中の仏教徒に手を回して結成した民主カレン仏教徒同盟(DKBO)の攻撃を受けて陥落する。

 以来、少数民族への弾圧は一層強化され、国軍による武力攻撃や強制労働から逃れて、国境沿いのタイ領に点在する難民キャンプに十数万人が暮らし、ミャンマー側のジャングル内をさまよう国内避難民も数十万人に及んだ。

 2011年の民政移管後のテインセイン政権は、軍の意向を受け継ぐ政権ながら、国内和平を掲げて各少数民族組織と交渉を開始し、15年までに、約20ある主要武装組織のうちカレン民族同盟など8組織との間で停戦協定を実現した。しかし、アウンサンスーチー国家顧問率いる現国民民主連盟政権下では進展が見られない。昨年夏からは政府軍が有力組織・カチン独立機構(KIO)への武力攻撃を強め、カチン独立機構は他の3組織と「北部同盟」を結成して対抗するなど、状況はむしろ悪化している。

 アウンサンスーチー氏は、先に触れた、彼女の父アウンサン将軍が独立前年、ピンロンで少数民族代表者らと会議を開き、一つの国として独立する同意を取り付けた「ピンロン協定」の精神を引き継ごうと、昨年8月、政府軍と武装勢力双方の代表を集めて「21世紀ピンロン会議」と称する和平会議を首都ネピドーで開催した。会議では、以後、半年ごとに会議を開いて少数民族側が求める真の連邦制などを協議する枠組みを定めたが、その後の状況は聞こえてこない。

◆◆ 仏教側には闘う伝統

 ミャンマーの民族問題の、もう一方の主要なファクターである仏教徒ビルマ族のほうに目を向けてみよう。

 国民の7割を占める主要民族ビルマ族が仏教と接触したのは、11世紀、かれらがイラワジ川上流域にパガン王国をつくったとき、南部の海岸沿いにあったモン族の国ペグーを攻略し、多数の僧侶を捕虜とするとともにパーリ語の南伝大蔵経を手に入れたことに始まる。ペグー征服によって海への出口を得たパガン王朝はインド、セイロン(スリランカ)と交流を開き、仏教を導入して、上座部仏教を国教とするに至った。

 この急速な仏教受容はなぜか。仏教には、王は前世において無限の功徳を積んだ菩薩であり(菩薩王)、仏教の理想を現世に実現する(正法王)という観念がある。この観念を王権の正統性と求心力に利用できると目論んだからであった。歴代の王は自らが菩薩王であり正法王である証しに、夥しい数の壮麗な仏塔・寺院を建立し、あわせて仏教教団の保護に努めた。

 王による仏教の振興・保護はその後も各王朝で連綿と続いたが、19世紀末、植民地支配者英国によって王制は廃止された。すると人々は、王によって果たされてきた仏教のパトロンの役割を英国女王に求めたが、その期待が裏切られたとき、新しい支配者への不満を高めた、とは、よく語られる挿話だが、事実、ビルマの反英独立運動は、仏教徒ビルマ族を中心に、仏教の旗印のもとに進められることとなった。

 世紀が変わる頃から各地に仏教の護持と興隆を掲げる団体が結成され、青年仏教徒連盟(YMBA)などが反英・民族解放運動に乗り出す。一方、自らを「転輪聖王」と名乗る僧侶が率いる大規模な農民一揆が英国統治を揺るがせる。

 1930年代からは、自分たちこそがこの国の主人であるとの主張を込めてメンバーが自分の名に「タキン(主人)」の称号を冠すタキン党がラングーン大学の学生や卒業生を中心に組織され、共産主義を志向する者が多かったが、タキン僧侶団と称する数千人の僧侶なども加わって広範な独立運が展開された。
 こうした動きに対して英国がとった対応は、キリスト教徒に改宗したカレン族などの少数民族を植民地軍に採用し、ビルマ族の運動を締めつけることであった。

 この仏教徒ビルマ族の不満に目をつけたのが日本の旧軍部であった。アウンサンやネウィンらタキン党の主要な活動家30人をビルマから脱出させて中国南部の海南島で軍事訓練を施し、亡命ビルマ人によるビルマ独立義勇軍を編成して、太平洋戦争開戦と同時にビルマに送り込んだ。
 かれらの働きで日本軍は労せずしてビルマを占領するが、やがて、独立を志向するアウンサンらは日本軍と対立し、ついには戦火を交えることとなる。だが、ビルマ国軍の誕生にこの旧日本軍の影響は欠かせない。余談になるが、今でもミャンマー国軍の軍歌には旧日本軍の軍歌のメロディーが混ざっている。

 アウンサン亡きあとのビルマは1948年1月、ウー・ヌ首相の下で独立を果たすが、ビルマ族内のイデオロギー対立に加えて少数民族の反乱が重なり、政情不安が絶えなかった。その原因の一つには、前述のように闘う伝統をもって圧力団体と化した仏教教団の過剰な政治介入があった。
 61年、ウー・ヌ政権は仏教界からの強い要求に押されて一旦、仏教を国教とする法律を成立させるが、少数民族など非仏教徒の信教の自由を巡って事態は紛糾し、ひと月を経ずしこの仏教国教化法を廃止する。すると今度は仏教側が黙ってはおらず、緊迫した政情となった。62年3月、ネウィン将軍がクーデターを決行し、以後、ビルマ(のちにミャンマー)に軍部独裁政権が長期に亙って定着したのはこうした背景でのことである。

 ネウィン政権は仏教勢力に慮って、「ダンマ(仏法)社会主義」とか「パゴダ(仏塔)社会主義」とも称された、仏教思想を加味した「ビルマ式社会主義」を掲げたが、仏教国教化への道を封じ、仏教教団を政府の管轄下に置き、政治への介入を禁じた。仏教界には当然そのことへの反発が溜まっていた。1988年および2007年の民主化運動では仏教僧の一部が前面に登場して国際社会のマスメディアを賑わせたが、その背景にはこのような事情もあった。

 とはいえ、88年や07年の民主化運動で敢然とデモの前面に立った青年僧たちには、正義や民衆の安泰を願う純粋な気持ちもあったろう。しかし一方、古都マンダレーで3千人もの僧侶を擁する僧院の幹部であるアシン・ウィラトゥという高僧などを中心に、少数派、とりわけイスラム教徒への、聞くに堪えないヘイトスピーチ(憎悪表現)を繰り返している僧たちがいる。いわく、「イスラム教徒はこの国のすべての町や村で仏教徒をレイプしている」「かれらは人口を増やして国家を乗っ取るつもりである」云々と。

 ミャンマーでのイスラム教徒は西部ラカイン州に集住するロヒンギャだけでなく、それ以外の各地で仏教徒と混ざって暮らすイスラム教徒がいる。その数は人口の約4%とされる。かれらの多くは19世紀、英国による植民地化にともなって同じく英領のインドから流入してきた人たちである。

 1948年に英国から独立したビルマがビルマ族主体の国造りをはじめると、かれらは、カレン族やカチン族のような特定の少数民族集団としてではなく、最大民族のビルマ族の一部として生きることを選んだ。したがって政府が発行する身分証明書ではかれらは、民族名は出身地のインドやバングラデシュに加えビルマ族と記され、名前もイスラム名でなくビルマ名で記されている。

 このような同化志向の生き方から、普段は仏教徒の住民と溶けあって暮らしてきたが、しかし仏教徒側には文化や風習が異なるイスラム教徒を嫌悪する者も少なくなく、また、イスラム教徒には、たとえば、公務員になっても上級職には登れないとか、軍では昇級しても少佐どまりなどの壁がある。

 このようなイスラム教徒を敵に見立てて脅威を煽ることになんらの合理性も認められないが、「イスラムの陰謀」に対抗すると称するウィラトゥ師ら仏教僧の主張はソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などを通じて急速に広まり、仏教徒大衆の反イスラム感情を増幅させている。そのような影響を受けてか、2010年代に入ってからは全国各地で反イスラム暴動が頻発するようになり、仏教徒の群衆がイスラム教徒の商店やモスクを襲撃したり、集落を焼き払ったりする事件が続いている。

◆◆ 政治化するロヒンギャ問題

 これまでミャンマーにおける少数民族と多数派・仏教徒ビルマ族それぞれの歴史や両者の葛藤を、多くの紙幅を割いてみてきた。それは他でもない、ロヒンギャの状況や問題もこのような大きな文脈を背景としてあることを再確認しておきたいためである。ロヒンギャに戻ろう。

 さて、今回のロヒンギャ問題では、幾つか注目すべき特徴がある。
 まず一つは、これまで一方的にやられっぱなしだったロヒンギャ側が、昨年10月に次いでだが、はじめて反撃に出たことである。これまでも度重なった迫害事件ではロヒンギャと仏教徒アラカン族住民との偶発的な小競り合いがきっかけだったが、今度の事件は、武器が棒や刃物とはいえ、数百人ものロヒンギャとみられる武装集団が20もの警察施設を次々襲撃したことに始まる。ミャンマー政府はこの襲撃を「アラカン・ロヒンギャ救済軍(ARSA)」という、サウジアラビアやパキスタンなど外国で暮らすロヒンギャを中心に結成されたテロ組織によるとする。

 事件前の数日間の出来事も顧慮に値する。政府調査委員会がロヒンギャ迫害は「証拠がない」との報告書を出したり、旧軍政系政党に資金援助された仏教徒が大規模な反ロヒンギャ・デモを展開したり、アナン元国連事務総長を中心とする政府の諮問委員会がロヒンギャ問題への政府の責任は問わず地域開発で解決をとの報告書を発表したり、ロヒンギャの立場を否定する動きが続いていた。襲撃事件が起きたのは、まさにこの諮問委員会発表の翌日だった。こうした一連の経過からは、ロヒンギャ問題がこれまでとは異なる明確な政治性を帯びて、新たな次元で立ち現われてきたことを示していよう。

 次の特徴は、政府側は明らかに、ある民族を居住地域から一掃する「民族浄化」を意図しているのではなかろうかという疑念である。これまでの騒動での難民の数は、毎回、数万人から十数万人であった。ところが今回は50万人をはるかに超える。ロヒンギャの人口は全体で約100万だから、半数以上が、集落の焼き打ちや威嚇、銃撃で追い立てられたことになる。グテーレス国連事務総長をして「これを形容するのに(民族浄化より)適した表現がほかにあるだろうか」といわしめた状況である。

 もう一つの特徴は、これまでにない広範な国際社会の批判と、それに対するミャンマー国民の強い反発である。

 以前はかかわりを嫌って沿岸警備隊が難民の漂着船を沖へ追い返してさえいたインドネシアやマレーシアでも、迫害に抗議する国内のイスラム民衆の圧力に押されて、政府がミャンマー政府に遺憾や改善要求を伝えるようになった。国連では人権理事会のみでなく安保理や総会の閣僚級会合でも議論され、アウンサンスーチー氏は国連総会出席を取り止めせざるをえなくなった。スーチー氏のノーベル平和賞撤回を求める国際的な署名運動さえ始まった。

 これに対して仏教徒が多数のミャンマー国内の反発は強く、スーチー氏を支持するフェイスブックが出回り、民主化活動家や知識人たちからさえ、「ロヒンギャは国民ではない。政府批判は間違っている」「これはテロリストとの戦いだ」などの主張が漏れる。ロヒンギャ難民への支援物資を船に載せようとしていた国際赤十字のスタッフが群衆から火炎瓶や石を投げつけられる事件も起こった。

 ここで注目されるのは、やはり、アウンサンスーチー国家顧問の政治意志と政治力である。だが、スーチー氏は、政権トップの国家顧問とはいえ、国軍最高司令官が任命すると憲法で定められている内務相や国防相が統括する軍や警察に関与する権限はなく、しかも、自らの政治生命の維持のためには、絶対多数の仏教徒の感情に逆らう行動は取り難い。多くの期待を寄せるには無理がある。

 ミャンマー政府の非人道的な扱いを非難する国際社会の声は高い。しかし、難民に対する周辺諸国の対応や受け入れは決してかんばしくない。タイやマレーシア、インドネシアは従来からかれらを経済移民とみなして難民とは認定せず、インドではモディ政権が国内にいるロヒンギャを「不法移民」と断じて国外追放する方針を示し、大量の難民の流入に悩むバングラデシュでは、ミャンマーへの送還を前提にロヒンギャを無人島に移住させる計画を検討中だ。こうした状況の中で、絶望的になったロヒンギャ難民の一部が過激化してテロに走ったり、IS(イスラム国)などテロ組織の要員供給源になる危険性が指摘されている。

 ロヒンギャ難民の政治化、過激化。これが今後、現実の課題となることは確かだろう。しかしこの小論は、一つの挿話で締め括ろう。

 ロヒンギャの出身の地とされることに困惑しながら、ミャンマー側での迫害のたびに大量流入するロヒンギャ難民に悩むバングラデシュでは、一部を難民と認定して国連が運営するキャンプの設営を認めながらも、周囲の仮設キャンプに暮らす数十万人については「不法移民」としてミャンマー政府に引き取りを求め、収監や強制送還を繰り返してきた。そうした中で、逆境にあるイスラム教徒の難民を助けているのが、なんと、バングラデシュではごく少数派の仏教徒のアラカン族なのである。

 ことはこうである。東インド・ベンガル地方の一部は47年のインド・パキスタン分離独立でパキスタンの領土となるが、71年に独立してバングラデシュになる。この2回に亙る混乱の中で、多くの仏教徒アラカン族がミャンマーに移住したが、コックスバザール周辺には、僅かに残った仏教徒アラカン族がいまだに住んでいる。ミャンマー側の仏教徒アラカン族に迫害されてバングラデシュに逃れてきたイスラム教徒のロヒンギャ難民たちを支援しているのが、じつはこれら少数派の残留・仏教徒アラカン族なのである。「宗教や民族は違っても同じ少数民族として困っている人を見過ごしにはできない」というのがかれらの心情であると聞く。

 (元桜美林大学教授・オルタ編集委員)

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