【コラム】酔生夢死

ムラ社会の秩序めぐる攻防

岡田 充

 大相撲の横綱日馬富士(33)が引退した。同じモンゴル出身の幕内貴ノ岩(27)に暴行した責任をとったのだが、メディアは暴行問題を離れ、角界というムラ社会の権力闘争を面白おかしく報じる。不祥事の度に強調される「国技」「神事」「横綱の品格」など、ムラ社会の秩序を支える「おきて」とはなんだろう。

 相撲が好きだ。小学校の時は街の相撲大会で優勝し、中学では相撲部に入った。同級生にまわし姿を見られるのが恥ずかしくなり相撲部はやめたが、かなり忙しい時でもテレビで大相撲を観戦している。小兵力士が巨漢を投げ飛ばすのは何度みても小気味いい。何より分かりやすい格闘技なのだ。

 まず「神事」。大相撲は日本相撲協会が1925年(大正14年)、寺社への寄付を募るため全国にあった「勧進相撲」を吸収合併して始まった。神仏に奉納するための「奉納相撲」ならともかく、大相撲は格闘技というスポーツ興行である。

 ついで「国技」。日本に正式な国技はない。今も昔も相撲を正式な国技と指定した法令などなく、「国技とみなす風潮」があるにすぎない。「国技」の強調は、日本の文化・伝統を「理解できず、体現できない」外国人力士への上からの説教として使われることも多い。彼らをなぶりものにする「おきて」なのである。

 でも「横綱の品格」に勝る「おきて」はあるまい。あるジャーナリストはそれを「『心技体』で、すべての力士の模範となり得る威厳で、しかも高貴な品格」と書く。ふーん、威厳と高貴ねえ。よく言うよ。テレビで今も偉そうに「横綱の品格」を強調する元横綱は、暴力団幹部と兄弟の盃を交わしたことはよく知られているけど、どうなの?

 白鵬が立ち合いに使う張り手を「横綱の品格」から批判する向きがある。だが相撲技の一つで、ルール違反ではない。そこに「品格」という情緒的であいまいなモノサシを用いるのはどうか。「懸賞金を受け取る態度に品がない」という注文も同じ。まるで「箸の上げ下ろし」にいちいち難癖をつける姑、小姑の「嫁いびり」だ。

 白鵬が優勝インタビューで「日馬富士と貴ノ岩を再び土俵に上げたい」と言えば「言い過ぎ。何様の分際で」と、小姑の注文がまた付いた。いいじゃないか。自由にものを言わせろ。こうしてみると、メディアが取り上げる不協和音の正体には、ムラ社会のおきてに馴染めないモンゴル勢力士への「そねみ」が潜んでいる気がしてならない。

 先のジャーナリストは「毅然とした姿勢で対応してこそ、尊敬に値する国としての『日本の品位』を取り戻すことができる」と締めくくった。なんじゃそれ? 「美しい日本を取り戻す」が口癖のわが宰相じゃあるまいし。「日本の品位」という言葉に「日本ボメ」のナショナリズムがちらつく。

 (共同通信客員論説委員)

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  カエルのような日馬富士の仕切りはもう見られない

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