オランダ通信(4)

選択し考え続けることの意味に迫る博物館 —ミュゼオン(教育博物館)—

リヒテルズ直子

 ハーグ市内の私の住まいからすぐ目と鼻の先にある「ミュゼオン」を、数年ぶりに訪ねて見ました。「ミュゼオン」とは、博物館を意味するオランダ語「ミュゼウム」と教育を意味するオランダ語「オンデルウェイス」を融合させた名称で「教育博物館」を意味しています。なんと今から100年以上も前、1904年に設立されたというこの博物館は、現在まで、主として学齢期の児童・生徒に自然や文化についての知識に出会わせる場として様々の展示物を公開してきました。

 毎年、全国各地から貸し切りバスに乗って生徒たちが訪問しています。展示は、小学校や中等学校で必須課題とされている内容にもそっており、ワールドオリエンテーション(総合的な学習)や市民教育の授業の一環として訪れる学校もあります。

 所蔵されているコレクションは、考古学的発掘物、保存された動植物のサンプル、化石や鉱石、民俗学的資料、歴史資料、芸術作品など何と273000点にも及びます。そのうち7000点が、実は、かつてオランダの植民地だったインドネシア(旧蘭領インド)が日本軍の占領下におかれた時代に関する歴史資料で、その点でも、このミュゼオンは、国内屈指のコレクションで知られています。

 以前、まだ、子どもたちが小さかったころに訪れたことのあるミュゼオンをもう一度訪ねて見ようかなと思ったきっかけも、実を言えば、8月15日に開かれた蘭領インド(現インドネシア)における戦時中の日本軍による犠牲者の追悼式でした。式典は、いつものように、ミュゼオンから徒歩で行ける距離にある犠牲者モニュメントの前で行われました。今年はあいにくと雨で、毎年数が減っている日本軍捕虜収容所体験者らが、高齢にもかかわらず、雨に濡れながら式に参加している様子が公営放送で放映されました。

 犠牲者自身とその家族、また子や孫たちが集まる中、総理大臣、防衛相、教育長官、軍総指揮官なども出席し、モニュメントに花輪が捧げられます。オランダと同様、日本軍の犠牲者を多く出したオーストラリア、ニュージーランド、イギリス、アメリカ合衆国、インドネシアの大使らも招かれ、花輪が献呈されます。式典では、文化人のスピーチのほか、毎年必ず、高校生のスピーチが行われます。

 式の様子を放映するテレビ番組の中でインタビューを受けていたのが、ミュゼオンの女性館長でした。彼女は、現在、ミュゼオンで『収容所の外にいた人たち』というテーマの特別展示を行っていると紹介しました。「収容所の外にいた人たち」とは、オランダ人でありながら、収容所送りを免れた人たちです。

 その大半は、現地人の血を引いていたがために「アジア人」として日本軍から収容を免除された、いわゆる(嫌な言葉ですが)「混血」の人たちです。オランダの植民地支配は、特に19世紀に入ってヨーロッパ列強の帝国主義支配競争が続く中、現地人の搾取を強化し、醜い非人道的行為も起こしています。

 したがって、搾取する側と搾取される側の両方の血を引く人たちは、非常に微妙な立場に立たされていたことは明らかです。ユーラシア人とも呼ばれたこの人たちは、蘭領に進軍してきた日本軍に忠誠を誓えば収容所送りを免れた、といいますが、それはまた、裏切りと深いジレンマの感情を伴う苦しい選択であったに違いありません。

 ミュゼオンの展示では、こうした経験を持つ人たち一人ひとりの証言と彼らの経験の証しである当時の携帯品が展示され、会場のスクリーンには映像でインタビューの様子が伝えられていました。

 この人たちは、日本軍の捕虜にはならずに済んだのですが、1945年8月の日本敗戦以後、急速に拡大していったインドネシア独立戦争の間、今度は、インドネシア人から敵視されることとなり、命を脅かされることになります。こうした、生まれてこの方、オランダの地を一度も踏んだことがなかったという人たちが、戦後、たくさん『引揚者』としてオランダ本土に入国しています。そして、彼らは、その後、純血(?)の白人系オランダ人の『引揚者』とは、また一つ異なる立場で、オランダに定住してきたのです。

 旧蘭領インドにおける戦争(日本軍)犠牲者については、このように、犠牲者社会の内部でも複雑な事情があり、戦後、戦時中の反ユダヤ人差別を糾弾していたユダヤ人たちに比べて必ずしも容易に一丸となることができず、オランダ社会一般からも顧みられることがなかった、という事情がありました。

 日本軍収容所の捕虜となったり、日本軍の強制労働に駆り出されることとなった人たちは、もともと植民地で普通に生活をしていた非武装のオランダ市民が大半ですが、オランダ本国にいた一般の人からは、植民地で「豊かな生活」を享受していた人たちとして、戦前は羨望の対照ともなっていた存在で、日本軍の捕虜となり数年を経て、飢餓と病気に苦しみ、家族を亡くし、家財も住居も衣類も一切失って赤十字の派遣した船でオランダに戻ってきたときも、親族からも冷遇されることがしばしばだった、といいます。日本の、かつての『引揚者』の事情とも重なる姿です。

 上のような事情もあり、犠牲者のモニュメントができ、そこで、追悼式典が行われるようになったのは1988年、何と終戦から43年もたってからのことだったのです。

 とはいえそれから25年、こうした人々が、「歴史を忘れてはいけない」と、戦争が一般の市民にもたらす犠牲の大きさを歴史に残し、その記憶を後世の人々に受け渡していく運動を続けてきたこと、それが、物事に付きまとう二律背反性、批判的に物事を考えることの大切さ、建前ではなく本音を語る歴史証言の大切さ、といったことへのオランダ人一般の自覚を広め深めてきた、と思います。

 『悪いのは戦争だ』と一刀両断に事を済ませ、それについて語ろうとする口を封じることなくオープンに議論を続けてきた国であればこそ、高校の歴史の授業で、「もしもあなたが今1930年代後半に生きるドイツの労働者だったと仮定して、なぜあなたがヒトラーを支持したのか、その理由を書きなさい」「戦時中のドイツにいたとしてナチスのプロパガンダを描いたポスターを作りなさい」といった、日本人には『過激』とも見える課題を生徒に与えることができるのでしょう。

 それは、社会が経済不況で行き詰まり、多くの人々の生活が脅かされるとき、人々は互いに排他的となり、見た目の格好よさや甘言で人気を集める指導者に安易に動かされやすくなるものであること、こうした、自分が向かう方向の危なさすら顧みずに、怒涛のように地を蹴り走り始める群れの中では、一個人の力では何の抵抗もできなくなることがあることを、平時において教えようとするものです。

 追悼式典をテレビで視聴したことがきっかけで訪れたミュゼオンでも、オランダ社会にすっかり浸透したこうした意識をつくづくと感じることとなりました。

 ミュゼオンの常設展示は、いわゆる自然科学と人文科学に境界を引くようなものではなく、むしろ、積極的に、Nature(自然)と Culture(文化)との深い結びつきを意識し、両者を融合的に、それぞれ切り離されたバラバラのものとしてではなく、子どもたちに体感させようとするもののようです。展示されているものには、随所に、子どもたちが実際に見たり触ったり実験したり観察したりできる仕掛けが満載されていました。

 人類の発祥と進化を巡る考古学的な展示、地球上のさまざまな地域の気象や地形環境(風土環境)、水やエネルギーといったテーマ、地殻変動や火山活動という人知ではコントロールしがたい地球自然の脅威といった展示の後に、いきなり大型カプセルのような展示室が出てきました。中に入ってみると内部の壁には何十個にも仕切られたガラスケースがあり、そこに、十字架や仏像、ヒンズー教の絵など、宗教にまつわるありとあらゆる物品・絵・シンボルがランダムにぎっしりと展示されていました。

 カプセルの外壁には、「私たちはどこから来てどこに行くのか」「なぜここにいるのか」「死後どこに行くのか」といった、子どもだけではなく、人間ならば一度は自らに問いかける根源的な問いが書かれています。そして、世界のいろいろな宗教がそれにどう答えているかを例示し、それが「信仰」だ、と告げています。どれか一つの宗教が正解を持っているというのではなく、世界のあらゆる宗教を一堂に集め、いずれもが、人間が心に抱いている根源的な問いに答えを出そうとして、風土の異なる地域の異なる文化の中から生まれてきたものであることを示しているのです。

 そのカプセル型の展示室のすぐそばの部屋は、「行き、来る」というテーマの展示室でした。長い歴史の中で、オランダの国土に流入してきた人たちとその人たちが伝えもたらした文化を展示しています。古くはドイツやベルギーから、また、中国から、そして、植民地だった地域から人々が流入し、戦後の高度成長期には労働力不足を補うために、まずはイタリアから、そして、以後トルコ、モロッコ、最近は東欧諸国から人々が流入してきたことを伝えています。

 他方、戦争直後には仕事を求めて多くのオランダ人がアメリカ大陸に渡っていったことも伝えています。展示の最後には、今、オランダで暮らす、皮膚や髪の色、顔かたちなど、さまざまな外見の子どもや大人の写真を壁いっぱいに並べ、それぞれに証言とその人たちが持ってきた文化を象徴する品物を入れた箱がその後ろにありました。どの民族・度の文化一つを優勢と見なすこともなく、見るものに、オランダ社会の異文化共存の有様そのものを提示しています。

 当然、その背後には「差別をしてはいけない」という暗黙のメッセージがありありと伝わってくるのですが、それを言う代わりに、その隣室は「法と正義」というテーマの部屋が続いていました。「法による平和」という語がいきなり入室する者の目に飛び込み、部屋の壁には、「空気は誰のもの?」「海は誰のもの?」「月は誰のもの?」「あなたは他の人と協働できますか?」といった言葉が書き並べられ、裁判所や議会について展示されています。差別をするとかしないとかではなく、すべての人の、人としての権利は「法が守っている」と伝えているようです。

 そしていよいよ『戦争の中の子ども』という、ミュゼオンならではの展示室。部屋に入ると、正面に、何十個もの引き出しと小さな開き戸の棚で埋め尽くされた壁が見えます。いったいなんだろう、と思って開いてみると、その一つ一つの引き出しや開き戸の中に、子ども時代に戦争を体験した人たちの写真と短いライフヒストリー、そして、その人たちが持っていた手紙や証書、本、衣服、玩具、などがきれいに整理されて見やすく展示されていました。

 ある引出しからはユダヤ人として収容所に送られ静観してきたことを伝える資料、もう一つの引き出しからは親から引き離されオランダ人の養子としてユダヤ人としての出自を隠して生き延びてきた人のライフストーリー、また、別の開き戸からは、正反対にナチスドイツの親衛隊だった親元で育った経験などが飛び出してくるのです。戦争当時であれば、お互いに敵同士の関係であったに違いないと思われるものも含まれています。ミュゼオンは、そうした証言の数々を取捨選択することなく、すべて、『戦争の中の子ども』として同等に扱い来館者に提示しています。

 かつて、日本では「もう一つの教科書」論争がありました。それは、子どもたちに日本の歴史を教えるための教科書には「何を記述してよいのか」「何は国の検定で認められ、何は認められないのか」という議論でした。その論争の中で、ほとんど聞こえることがなかったのは、人は誰でも自分で何らかのものを正しいと信じる自由がある、という議論ではなかったでしょうか。

 元来、歴史教科書として何を記述するかは、歴史教育を与える側の権利ではなく、学ぶ側の選択でなければならないはずです。学ぶ側が、歴史の生の資料に触れ、それについて自分で批判的に思考し解釈する訓練を与えること、それが、本来の歴史教育であるはずです。一人ひとりが何を「正しい」と信じるか、その決定や選択を助けるために、子どもたちには、客観性の高い科学的手続きはどういうものであるのかを教え、できるだけ多くの多面的な証言に触れるという経験を持たせなくてはならないのでしょう。

 ミュゼオンの展示は、ありとあらゆるテーマを捉え、人は皆、歪みのない生の情報や声に触れる必要があること、そして「選択は情報を与える側にではなく、受け取る側にある」ことをメッセージとして強く観る者に訴えてきます。こうして「選択するのはあなただ」という教育を小さいころから受け続けて育つ人間と、「正しいことはこれだから信じろ」と選択権を奪われ、選択するという意思を放棄させ続けられて育つ人間との間で、一体、将来、この地球社会を健全に回復させるための、どんなコミュニケーションと協働が可能なのでしょうか。

 (筆者はオランダ在住・教育・社会問題研究者)
====================================
====================================
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップ>バックナンバー執筆者一覧