【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

ミャンマー3度目のクーデターを遠望する

荒木 重雄

 3度目のクーデターで権力を奪ったミャンマー国軍と、抵抗する市民がせめぎあっている。日々の状況はメディアでも報じられているが、帰趨はいまだ不透明のままだ。このようなときには少し視野を広げて、歴史を俯瞰して見ることも、現状を理解・判断する一助になろう。
 そこで気がつくのが、ミャンマーの現代史には、通奏低音のように、民族や宗教とかかわる葛藤が存在することである。政治変動には必ずといってよいほど、きっかけになったり、原因であったり、名目であったり、背景であったりで、宗教や民族が顔を覗かせる。
 そのそもそもの事の始まりは・・・

 ミャンマーでは、イラワジ河流域の中央平野に多数派のビルマ族が住み、周囲の山岳・高原地帯に幾多の少数民族が住む。

 11世紀のパガン王朝以来、ビルマ族が仏教を王権の基盤とする社会を発展させてきたが、19世紀にこの地を植民地支配した英国は、お家芸の「分断支配」に則って、少数民族にキリスト教を布教し、キリスト教化した少数民族を植民地政府の官吏や警官として仏教徒ビルマ族の監視と弾圧に用いた。
 ここに、現在の状況につながるミャンマーの宗教的・民族的葛藤がはじまるのである。

 英国植民地支配に対する抵抗は、それゆえ、ビルマ族によって仏教護持をスローガンに行われることとなった。僧侶や仏教青年組織が運動の主体を担った。
 ビルマ族の不満に目をつけた日本の旧軍部は、海南島で軍事訓練を施した活動家を中心に亡命ビルマ人による軍を編成し、太平洋戦争開戦と同時に、日本軍とともにビルマに進攻させた。これが現在の国軍の発端であり、ビルマ側指揮官が、アウンサンスーチー氏の父、若きアウンサン将軍であった。
 日本の先兵として働く仏教徒ビルマ族の軍と、英国が組織したキリスト教徒やイスラム教徒の少数民族による軍との戦闘は、両民族の対立を決定的とした。

 1948年に独立したビルマでは、自治権や利権を巡って、武装組織を備えた各少数民族とビルマ族中心の中央政府との戦いが熾烈をきわめた。一時は、中央政府は僅かに首都ラングーンを守るのみにまでなった。一方、仏教界は政府に仏教の国教化を求め、政府は一旦、国教化を決定するが、非仏教徒からの激しい反発に遭って一夜にして覆す。
 このような混乱に乗じて決行されたのが、62年のネーウイン将軍によるクーデターである。長い軍事独裁政治のはじまりであった。

  ◆ 挫折した2度の民主化運動

 徹底した強権政治にも綻びが生じる。26年に及ぶ軍政下で溜まった鬱憤が、88年、ネーウインの引退表明を機に爆発し、大規模な民主化運動が起こった。だが、数千人の犠牲者を出した流血の弾圧で国軍が再び政権を掌握する。アウンサンスーチー氏が母国の政治に向き合う覚悟を決めたのはこのときであった。

 90年、軍政下で総選挙が行われたが、民主化勢力が勝利すると、軍は選挙の不正をあげつらって無効とし(今回のクーデターでも使われた口実)、逆に民主化勢力への弾圧を強化した。
 弾圧を逃れた活動家や政治家をかくまった少数民族地域への国軍の攻撃が激しさを増した。

 再び民主化運動が燃え上がったのは前回の運動から19年を経た2007年。燃料費の高騰がきっかけだったが、主導したのは若い僧侶たちだった。
 民衆の窮状を黙視することができずに立ち上がった僧たちのデモに、軍が威嚇発砲し、殴打、拘束する事件が起こった。僧侶が民衆の厚い信頼と尊敬を集める社会で、僧侶への暴行とは尋常のことではなく、事件の衝撃に促されて市民の間に「軍政打倒」の大きなうねりが盛り上がった。弾圧による死亡・行方不明が百人を超え、取材していたジャーナリスト長井健司氏が犠牲になったのもこのときであった。

 僧侶のデモ参加は民衆を励ます(今回の抗議デモのテレビ映像でも柿色の僧衣姿の僧侶の一団が目についた)。88年の民主化運動でも僧侶は一翼を担った。このときは運動衰退の後でも、一部の僧たちが軍人やその家族から依頼される読経を拒否したり、布施や托鉢を受けることを拒否する「覆鉢行」で抵抗を示し続けた。

  ◆ ロヒンギャ問題に阻まれて

 2010年、軍政下で民主化勢力がボイコットした総選挙で国軍系政党が勝利したのを見届けた軍は、民政移管に重い腰を上げた。
 しかし、15年の選挙では、アウンサンスーチー氏率いる、民主化勢力を糾合した国民民主連盟(NLD)が圧勝し、ついに、半世紀に及んだ軍の政治支配に終止符が打たれることになった。
 国会議席の4分の1は「軍人枠」など、軍政下で仕組まれた縛りが足枷にはなろうとも、民主化は確実に進むだろう、と、期待された矢先、そこに起こったのがロヒンギャ問題であった。

 ロヒンギャとは、ベンガル地方が出自とされるイスラム教徒の少数民族である。中央政府に抗えるはずもない弱小少数民族のゆえでもあろう、ネーウイン時代から国籍剥奪などの迫害を受けてきたが、2010年代から、仏教徒住民のいじめに耐えきれず、大挙、老朽船で洋上に逃れ出て、遭難したり、他国に漂着したりで、国際社会の注目を集めてきた。とりわけ17年には国軍による残酷な掃討作戦を受けて居住地を焼き払われ、70万人余りがいまだ隣国バングラデシュに難民として逃れ出ている。

 国際社会がジェノサイドと非難する中で、国軍の政治関与を弱める憲法改正にも、少数民族武装勢力との和平にも国軍の協力が必要なアウンサンスーチー氏は、ジェノサイドを否定して国軍をかばったが、「行き過ぎた武力行使」の可能性は認めた。それが、今回の国軍によるクーデターの幾つか挙げられている原因のひとつともいわれている。

  ◆ ミャンマーは「地政学的要衝」のみにあらず

 クーデター首謀者のミンアウンフライン国軍最高司令官は、意思決定機関「連邦行政評議会」に一部の少数民族幹部を加えたり、僧院を訪れて僧を敬う姿勢を示したりして、民意を得ようと試みている。だが、とりわけ目立つところのない軍人だった彼が、2007年の僧侶が正面に立ったデモの鎮圧や少数民族武力弾圧の指揮で頭角を現し、現在の地位にまで登り詰めたことは、ミャンマーの多くの人が知るところである。

 一方、米国のミャンマー・ウオッチャーの間では次のような説もある。
 現時点でクーデターを起こすことは国軍になんの利益もない。軍は議席の4分の1を確保し、内政の枢要を占める内務相も軍が握り、国軍の影響力は憲法上も盤石である。国軍傘下の企業群も民政移管と経済改革でむしろ潤っている。にもかかわらずクーデターの暴挙にでたのは、ミャンマーの軍政の指導者たちは制服を着た政治家ではなく、戦士だから、というのである。

 すなわち、国軍は、英国統治と日本の占領に抗して戦い、独立後の内戦も制した歴史を通じて培った、「ビルマ民族主義の守護者・象徴」としての正統性の矜持と、強固な結束の自負を持つ。ところが、88年の民主化運動以来、ビルマ民族の支持を集める新たな受け皿として国民民主連盟が台頭し、しかもそれを、国軍の創設者アウンサン将軍の娘であるスーチー氏が率いることで、国軍の正統性の絶対化に傷がつけられた。

 それが積年の国軍と国民民主連盟(2015年以降はその政権)との対立の底流をなしていたが、とくに昨年には、ロヒンギャ問題でアウンサンスーチー氏が国軍を国際社会でかばったことが、国軍幹部には耐えがたい屈辱と映り、さらに昨年11月の選挙で国民民主連盟が圧勝したうえ、こともあろうに身内の国軍兵士からも多くの票が国民民主連盟に流れたことが、国軍上層部の自負心を著しく損なうこととなり、その面目上の危機感が、国際社会での非難・孤立や世界経済から疎外のリスクも顧みぬクーデターの動機になったとするのである。

 ミャンマーは海外企業の投資市場として「最後のフロンティア」と呼ばれ、また、インド・中国・東南アジアを繋ぐ要衝にあるところから、中国と欧米諸国との角逐も背景に、地政学的な戦略上の観点から論じられることが多いが、まずは、この地に生きる人々の情念のマグマに思いを致すべきであろう。

 当面の情勢に触れれば、アウンサンスーチー氏の訴追や国民民主連盟の解体は国軍の意のままにできても、民政移管後の10年を経験した市民は以前ほど軍に従順ではない。路上デモを鎮圧されても、SNSで国際社会に訴えたり、不服従運動で軍の統治を妨げたりの抵抗は続こう。非常事態宣言の解除後に自らの意に沿う政権をつくることが国軍の思惑であっただろうが、国民が受け入れるとは考え難く、目論みは順調には進むまい。不安定な状況が当分は続くことが予想される。

 (元桜美林大学教授・『オルタ広場』編集委員)

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