■【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

マオリは西洋人との出会いでいかなる運命に遭遇し変容したか

荒木 重雄

 ニュージーランドでマオリのアイデンティティを尊重する女性外相が就任したことに因んで、前号ではマオリの創世神話や伝統について述べたが、今号では、西洋人との接触による伝統の変容を見ていこう。

 ◆ 銃と聖書と「文明化」

 部族間の争いも多かったマオリは、独特な「戦いの文化」を育んでいた。代表的な一つが、現在もニュージーランドのラグビーチーム、オール・ブラックスが試合前に演じる、目をむき舌を出して勇壮に踊る「ハカ」の応酬である。漲る闘志を見せつけて敵を威嚇し、相手の戦意を喪失させる。実際の戦いも、金属や飛び道具を持たない彼らは、木の棒やクジラの骨を武器に殴り合うたぐいのものだった。いわば儀礼的な意味合いが強く、死傷者の数も限られた。

 ところが、19世紀に入って西洋人が流入しはじめ、マスケット銃などがマオリの手に渡るようになると、戦いの様相が一変し、同世紀前半の20年間ほどの部族間抗争で2万人を超える死者を出すにいたる。

 じつはこの銃の流通には、英国国教会の宣教師たちがかかわっていたと指摘されている。すなわち、布教を進めるに当たって、便宜や庇護を与えてくれる部族に見返りとして銃を提供した。その圧倒的な威力を目にした各部族は競って宣教師を通じて銃を調達したというのである。

 部族間抗争を凄惨にしたのは宣教師だったが、それを止めようとしたのもまた彼らだった。マオリ語を学び、マオリ語で説教ができるように努めた宣教師たちは、やがて、部族間抗争の仲裁にも乗り出した。宣教師たちがマオリに影響力を持った背景には、銃や斧、衣類や毛布など、マオリがそれまで知らなかった「文明の利器」や、文字や教育といった文明システムをもたらしたことが大きく働いたとされている。それは、生活様式や文化は神がもたらす、と考えるマオリが、このような優れた文化や生活様式を持ち込んだ西洋人の神はマオリの神より格段に優れていると認識したから、といわれている。
 その当否はともかく、宣教開始(1814年)から僅か40年ほどで、マオリのほぼ全部族がキリスト教に改宗している。

 この時期、英国国教会にカトリックも加わって宣教師たちが力を注いだのが、聖書のマオリ語訳とその印刷・出版であった。この活動は識字教育とあわせて行われた。文字を持たなかったマオリにとって、文字によってものごとを伝えられるということはたいへんな驚きであり、便利であり、同時にそれを得ることはマオリのなかで優位性を獲得することであったので、学習欲は盛んであった。そしてこの識字教育のテキストが聖書であったことから、自ずと聖書の思想がマオリに摺り込まれた。
 この、聖書による識字の獲得はやがて二つの事柄につながっていく。

 ◆ 闘う「預言者」が出現

 一つは、マオリと英国統治の政治的・経済的軋轢である。植民地化を図る英国は1840年、マオリの部族長たちとの間で「ワイタンギ条約」を締結する。その条約は、英語本文では、「マオリはすべての支配権を英国女王に譲渡する」とされているのだが、マオリ語では部族長の支配権を認めることになっている。実際の場面でのこの齟齬がきっかけになってマオリの一部と英国植民地政府との間で戦争が起きる。
 さらに、はじめはマオリとの合意で土地を買い上げていた植民地政府がやがて武力を用いて土地の取り上げを強行するようになると、これに対して、マオリは連携して1853年、新たに王を立てて抵抗。60年から72年まで激しい「土地戦争」が戦われた。
 因みに、現在、マオリ王位は、なんの権力も伴わないが、6代目の女性が継承している。

 識字と布教のワンセット化のもう一つの影響は、上述のマオリと英国政府との戦いも背景に、独特なキリスト教を発展させたことである。

 この時期、マオリに数多くの「預言者」が出現したが、共通することは、土地を奪われた自分たちマオリを、同じように土地を失った古代イスラエルの民と同一視して、土地を奪う政府の背後にあるキリスト教を厳しく批判し、新約的なキリスト教信仰を排除して、旧約聖書の神のみが真の神であると主張したことである。

 天使ガブリエルとミカエルから召命を受けたと自ら信じたり、アブラハムやモーセやダビデに自らをなぞらえる「預言者」たちは、政府が没収した土地に調査隊が打ち込んだ杭を抜いて回ったり、没収された土地に不法に作物を植えたりなどの非暴力運動から、政府軍を脅かすゲリラ戦まで、さまざまな反政府抵抗運動を組織・展開した。

 ◆ マオリの民を救済する信仰を求めて

 72年に主だった戦争が終わり、戦争と西洋人が持ち込んだ疫病によって減少を続けていたマオリの人口が4万人を切ったころ、マオリはやがて絶滅する運命にあるから武力を用いてまで土地を奪う必要はなかろうとの見方が植民地政府に出てきたといわれる。
 同じころ、マオリの預言者のなかにも新約的キリスト教に目を向ける者も現れてきた。彼らは、「闘う預言者」の思想を受け継ぎながらも、聖公会やメソディスト、カトリックなどともかかわり、さらにマオリに伝統的な神霊の力を借りた医療や口寄せなどを加えた、マオリの民を救済する信仰を創ることに取り組んでいった。
 異端とされながらその系統を引く教会は、現在のニュージーランドにも散見される。

 政府がマオリの復権と復興にそれなりに目を向けるようになったのは、1935年に労働党政権が「マオリ貧民救済法」「マオリ社会経済促進法」などを制定するようになってから。そして、いまやニュージーランドの観光資源として欠かせない、精緻な彫刻をはじめとするマオリの芸術や文化が注目されるようになったのは、20世紀も後半になってからである。

[観光情報を除いてマオリの資料はいまだ乏しい。前号と今号のこの欄の記述は、向井考史(神学者・関西学院大教授)氏の論考「マオリ・土地戦争・旧約書」をベースにしている。記して深謝する]

 (元桜美林大学教授・『オルタ広場』編集委員)

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