■ 【書評】 

   『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』
    黒岩比佐子著 講談社刊 定価 2400 円
                           井上 定彦
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 自分・個人としては、なんとなく山川 均やおそらくは堺 利彦のなんらかの
影響(おかげ)で暮らしてきたのだろうとは、すこしは思っておりました。しか
し、実際のところは、現在の政治経済状況を含め、日々の世の変遷を追ってゆく
ことを仕事としてきており、「昔」の人物伝の類いにそれほど興味をもたないと
いう、知的生活としてはあまり自慢できない暮らしをしてきたと反省しかけてい
たところです。そこに、この新著・黒岩比佐子『パンとペン 境利彦と「売文社」
の時代』に偶然にであうことになったわけです。
 
  今から100 年位前くらい前に活躍を続けた堺利彦をはじめとするいわゆる「社
会主義者」が、日本でどのようにして誕生し、育ち、ひどい弾圧をうけながら生
きのびてきたのか、いわゆる「冬の時代」(おおよそ1910年頃から1918年頃まで)
を描いたものです。本書はこれを相当に鳥瞰図的に描き、話題となりました。著
者の黒岩比佐子さんのことはよくわかりませんが(あるいは小松隆二氏と交流が
あった可能性もあり)、若手の女流ドキュメンタリー作家で、残念ながら本書が
最後のものとなったとのことです。この著書については、いくつかの新聞の書評
にもでました。
 
  読み始めると、夏目漱石とか黒岩涙香、高畑素之、有島武郎とか、なんとなく
聞いた名前が続出し、それらの人を通じてこの時代というものを高い密度で描い
ているので、つい引き込まれ夜更しをすることになりました。 「売文社」とは、
堺利彦が「大逆事件」で幸徳秋水をはじめとする当時の社会主義者の多くが国家
権力によるフレームアップ( デッチ上げ) でつぶされ、活動の大半をやめざるを
えなかった時代に、しぶとく生き残る役割をはたした「売文」を表看板とする会
社のことです。
 そのリーダー、まとめ役が堺利彦で、山川均、大杉栄、荒畑寒村などおおくの
ものが、「民間ベース」で現代ならば著作権違反となりそうなことを含めた出版、
政治家のスピーチを含む代筆業をし、メシをくいながら「猫をかぶって」生きの
びた。一方でマルクス・エンゲルスを論じ、他方で「犬・猫」のものがたりを書
き、また足袋屋の広告文を書くというふうにです。そして次の時代、つまり大正
デモクラシーという言論界の百花繚乱の時代につないでいったわけです。
 当時の知識人が、左翼から右翼までここを場にして交流する、この面白さは無
類のものといえましょう。黒岩さんは系統的な下調べ、膨大な量の資料を読みこ
なし、まったくの「コスト割れ」で書き込んでいます。執筆完了後は「全力を出
し切った」とのべていますが、本当に読み応えのあるものです。 キリスト教社
会主義、サンディカリズム、アナーキズム、はじまったばかりのマルクス主義、
あるいは国家社会主義等。私たちが知っている山川 均や荒畑寒村は実に読みや
すい平易な文章を書いておられたことを知っておりますが、それもこの時代にあ
って人々に読まれる文章を書くことで生きのびてきた訓練の賜物だった。それを
先頭に立って演出してきた堺利彦の人間としての幅の広さにあらためて感銘しま
した。
 現世では、「大きな物語」が終わっているといわれ(本当に終わったのか?)、
「ポストモダン」風に「消費する」文章が主流となってしまっているように小生
には思えます。堺利彦などにあった近代的批判精神でみると、「孤独死」「ワー
キング・プア」「ニート」「自殺」の蔓延、そして今回の津波に伴う原発大事故
等は、すくなくとも「社会改良」へ向けての世の動きの遅滞について、人々の焦
燥感をかき立てるテーマのように思えるのですが。やはり「思想」というような
もので時代を語ることは難しい(鶴見俊輔氏)ということなのでしょうか?
                  (評者は島根県立大学教授)
                

 以前に、安東仁兵衛さんの『日本共産党私記』をざっとみたとき、勇気・知性
に感心しながらも、仲間割れ等「あーあ」とか「なんたること」とか溜め息をつ
きいわんや新左翼系の「内ゲバ」に関わるようもなものはなんとなく読む気もあ
まりしませんでした( それでも最近の小熊『一九六八年』は多少おもしろかった
ですが)。他方、現代の理論社からのジョルジュ・ルフランの『ヨーロッパ現代
社会思想史』は面白く読み、自分の仕事の体験上、めぐりあった現代欧州の労働
運動に関わるリーダー、スタッフの「健常さ」、たとえば仏人民戦線のオルガナ
イザー、ブノア・フラションから後にデンマーク社民党首相とってラスムッセン
氏、仏社会党のレギュラシオン派の何人かのリーダーなど) には「素朴に」感銘
したものです。

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