【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

フランスの変質を加速するムハンマド風刺画事件

荒木 重雄

 この秋、フランス・パリで5年前の「シャルリー・エブド」事件の悪夢が甦った。

 風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が9月初め、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再び掲載したことを動機に、同月末、同紙旧本社前で男女2人がパキスタン出身の男性に刃物で襲われる事件が起こり、その20日余り後には、教室で生徒にそれらの風刺画を見せた中学校教員が、ロシア南部チェチェン出身の18歳の青年に首を切断されて死亡し、加害者も警官に射殺されるというショッキングな事件が起きたのだ。

 事件をフランス社会に位置づけて見るために、まず、5年前の「シャルリー・エブド」事件を振り返っておこう。

◆ 人々を「愛国」「結束」に統合

 「シャルリー・エブド」紙は、今世紀初め、米国がニューヨーク同時多発テロの報復としてアフガニスタン、イラクへ軍事侵攻を開始した頃から、ムハンマドの風刺画を頻繁に掲載するようになった。それらにはムハンマドをテロリストに仕立てたものや性的に揶揄した描写も含まれ、当時のシラク大統領から「挑発的で行き過ぎ」と自粛要請されたほどであった。

 2015年1月、風刺画をイスラムへの冒瀆としたアルジェリア系フランス人の兄弟が、パリの同社編集部を襲撃し、会議中の風刺漫画家や記者ら12人を殺害した。翌日、別の男が同市内で警官を射殺した後にスーパーに立てこもり、人質4人が犠牲になった。3人の実行犯はいずれも射殺された。

 事件の概要は上の通りだが、事件を受けたフランスは興奮状態に陥った。
 「私はシャルリー」のプラカードを掲げた人々が街頭に繰り出し、事件後最初の日曜日には政府の「立ち上がれ」の掛け声に促されてフランス全土で370万人以上の市民が「自由の大行進」に参加した。120万人超が参加したパリの行進にはオランド大統領(当時)が各国要人らと腕を組んで先頭を歩いた。これだけの規模の大行進は第2次大戦末の「パリ解放」以来の「歴史的情景」とされた。
 国民議会では、国歌「ラ・マルセイエーズ」の大合唱が湧き起こり、これもなんと、1918年の第1次大戦終結のとき以来とされる。この高揚の中で、政府は「イスラム・テロとの戦争状態」を宣言し、空母を過激派空爆のため中東へ向かわせると発表した。

 当の「シャルリー・エブド」紙は、この事件を奇貨として、「すべては許される」との見出しをつけたムハンマドの風刺画を表紙に飾る「特別号」を発行し、普段の発行部数3万部をはるかに超える700万部を売り上げた。

◆ 軋む社会で進んだ規制強化

 フランス社会を「愛国」と「結束」の渦に巻き込んだ「シャルリー・エブド」事件は、だが、特異で突発的な出来事ではない。近年のフランス社会の移民を巡る軋みが背景にある。

 たとえば、05年10月、アラブ系とアフリカ系の二人の少年が警官に追われた末に不慮の死を遂げた。この事件の政府の処理に反発した同じ移民出身の若者たちが、約20日間に亙って車への放火や商店への襲撃を繰り返す暴動が起きた。10年7月にも、移民出身の強盗が警官との銃撃戦で死亡した事件を引き金に暴動が起こった。
 いずれも、移民は4人に1人が失業(国内平均の2倍)という貧困や社会的疎外が背景にあるのだが、極右票も支持基盤とする当時のサルコジ大統領(国民運動連合=共和党)は、貧困問題などには一顧だにせず、自ら陣頭指揮をとる強硬な鎮圧に終始した。揚句のはて、「望ましからざる」移民を追い出す「選別的移民政策」を強化し、さらに、イスラム女性がスカーフやブルカを公共の場で着用することを禁じる法律の制定などアイデンティティ攻撃にも手を下した。

 「シャルリー・エブド」事件から間もない15年11月には、イスラム過激派によるとされる、130人が犠牲となったパリ同時多発テロが起きる。「分断の政治から連帯の政治へ」を訴えていた当時のオランド大統領(社会党)も、国家非常事態法の期限を大幅に延長して、ほぼ無制限な令状なし家宅捜査を許容したり、要注意人物に居住地域を指定し電子ブレスレットを着用させて監視するシステムをつくるなど、移民と国民全体への管理強化を進めた。

◆ 神聖なるものが冒瀆されて

 こうした流れのなかで起こった今回の事件は、先に述べた「シャルリー・エブド」事件で実行犯に武器供与などで関与したとされる被告14人の裁判が開始されるのに因んで、同紙が事件の発端となったムハンマドの風刺画を再掲載した記念号を発売したことが動機となった。
 同紙は「我々は屈することはない」と主張し、マクロン大統領はなんと、「フランスには冒瀆の自由がある。私はその自由を守るためにいる」と言い放った。

 偶像崇拝を禁じるイスラムではムハンマドを画像にすることさえ禁忌であるのに、全裸や性的に揶揄する低俗な戯画化で、最も神聖にして侵すべからざるものを冒瀆される者の痛みに、想像力が及ばないのだろうか。
 近代フランスは王権と結びついたカトリックとの苛烈な闘争の上に生まれ、それが今日の厳格な政教分離主義(「ライシテ原理」)に繋がると主張するが、それとは話の次元が違う。

 公の場所に宗教を持ち込まないのがフランスの原則というならば、特定の宗教を公の場で「貶めない」ことも、宗教を持ち込まない原則の一環ではないのか。「シャルリー・エブド」のムハンマド風刺画が、特定の宗教を「貶める」、誹謗中傷、冒瀆の域を超えるもの、とは、とてもいえまい。

 「表現の自由」はもちろん重要な理念だが、その理念を振り回すことによって、傷つきうる者の存在を忘れてよいのか、との問題は残る。異なる歴史と文化、価値観を持つ人々が共存する社会で、「表現の自由」がどこまで普遍的なのか、改めて問われよう。
 さらにつけ加えれば、風刺(画)とは、ほんらい、真実を提示することによって権力や権威に抵抗する、民衆にとっての武器である。それは強者に対して向けられてこそ「風刺」であって、弱者・少数者に向けられては傲慢な「弱い者いじめ」にほかならない。

 地理・歴史を担当教科とする中学校教員が「表現の自由」を教えようと生徒に、裸でしゃがむムハンマドが尻から星を出している戯画を見せたというが、一体それで、何を伝えたかったのだろうか。疑念が残る。

 教員は、見たくない者は見なくてもよいと前もって生徒たちに伝えたというが、一部の保護者が授業後に学校に抗議し、非難する動画をSNS上に投稿した。動画は、「イスラム教徒の子どもたちを傷つけるべきではなかった」とし、教員の辞職を求めているが、暴力の行使を呼びかるものではない。にもかかわらず、これらの動画投稿者は、事件後、実行犯容疑者の家族らとともに逮捕・拘束された。
 抗議も「表現の自由」であろう。この事態を、フランスが至上の価値とする「表現の自由」からどう理解すべきか。

 教員殺害を受けたフランスは、再び5年前と同じ「愛国」「結束」の集団的興奮に包まれた。数万の人々が「私は教師」と書いたプラカードやムハンマドの風刺画を掲げて広場に集って国歌を合唱し「表現の自由」を訴え、国民議会議員は議事堂前に勢揃いして教員の遺影を掲げて国民の団結を呼びかけ、ジャーナリズムはこぞってイスラム過激派対策の強化を政府に求めた。

 1年半後に大統領選を控えるマクロン大統領は、早速にこの熱気に乗って次々と強硬発言を繰り出し、保守層の支持獲得に余念がない。曰く、「フランスの理念から外れる者は分離主義者だ。我々の存在をかけて闘う」「イスラム過激派はこの国で安眠できるべきではない」。
 マクロン氏は、イスラム教徒が集うモスクの監督を柱とするする治安対策強化の法案を、この年末までに提出するとしている。その先触れでもあるかのように、上に述べた、ムハンマドの風刺画を見せた教員に抗議する保護者の動画をSNSで拡散させたことを理由に、10月下旬、パリ郊外のモスクが政府によって閉鎖された。

 だが、このような攻撃的な対応が、分断と憎悪とそれがもたらす悲劇の循環をいっそう拡大、加速させることは明らかであろう。たとえばすでに、10月末、南仏ニースのカトリック教会内で男女3人がチュニジア移民の男性に刃物で殺害された事件が示すように。
 「自由・平等・博愛」を国是に掲げるフランスの行方が懸念される。

 (元桜美林大学教授・『オルタ広場』編集委員)

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