【自由へのひろば】

ドロミテ紀行

藤井 紀代子


 昨年10月頃、初岡昌一郎さんから今年7月にドロミテを歩くプランをたてているので、一緒に行かないかとのお話があった。恥ずかしながらドロミテという地名は聞いたことがなかった。アメリカ、アジアは一人でも歩いているし、少しは知っているが、ヨーロッパは住んだこともなく、会議に行っても主要都市に行くだけで、短期間の滞在しかしていない。最近15年くらいはヨーロッパに行っていないので、正直なところ若干の不安があった。しかし、ILO時代や研究会活動などを通じて知り合った国際通の仲間が一緒ということで、思い切って参加することにした。

 ユネスコの世界自然遺産に指定されているドロミテは、イタリアの北西部に位置する3千メートル級の山々だ。海底から隆起した鋭く聳え立つ山塊は、1億何千万年という悠久のときが作り上げた地球の芸術品だ。夏はハイキング、冬はスキーで人気の場所で、7月は気候的にいってもベストなシーズン。

 私にとって山登りは遙か昔のことであるし、最近はずっと続けていたウオーキングも滞りがちで、この高山トレッキングが大丈夫かという心配はあった。しかし、あくまで自分のペースで、トレッキングが無理なときには、ホテルの周りを散策していてもいいし、このくらいの年になると自分の体調や、配偶者の体調などでいけなくなることもあるが、そのときはそのとき、中止してもいいからというお話で、踏みきる気になった。現役引退して3年、後期高齢者年齢到達をあと1年に控えて、今しかいくチャンスはない、最初で最後のチャンスであると思い、参加を決めた。

 まず準備。登山靴、登山用ポール(杖)2本、防水用雨具上下を揃えた。そして、事前訓練のため登山靴、ポールなどを装備して、ドロミテ行参加予定者と共に身延山に登ることになった。ケーブルカーのところまで行ってみたが、急な登り道なので、そこからはケーブルカーに乗ってしまった。これではダメと、登山靴に慣れるためにも、それからは家の周辺で登山靴を履いて歩き回った。

 まだまだ先だと思っていたドロミテ行きも、あっという間に出発のときが来た。成田に集まったのは、初岡夫妻、NTT労組委員長だった園木さん、ジャパンソサイティの川島さん、桜美林大学名誉教授の荒木さん、初岡さんとユーゴースラビアに一緒に行ったことのある金田さんと日暮さん、それに私の8人であった。また、ベローナで中村正夫妻、井上啓一夫妻が合流し、総勢12人のチームとなった。年齢で言えば、60代の人が一人いた他は、全員が70代以上。最高齢者は84歳、後期高齢者が過半数である。皆さんそれぞれの人生行路の中で国際経験を豊かに積まれた方々で、いろいろな場面でお世話になり、また、楽しいお話を聞かせていただいた。

 ドロミテ・ウオークは7月13日からだが、その前にベルンとベローナに立寄った。7月8日、成田からロンドン経由でチューリッヒに着き、そこから列車でベルンに向かった。世界遺産指定都市の古都ベルンでは、ヨーロッパ中世の雰囲気溢れる市街地を散策した。その後、列車に乗ってローザンヌへ。湖畔で川魚を食べ、レマン湖を遊覧船で周遊。ILOをたびたび訪ねた日々を思い出し、感無量であった。翌日は、登山列車やケーブルカーを乗り継ぎ、ユングフラウ、アイガーの北壁も見る。天候が悪くアルプスの山々には薄靄がかかっていたが、墨絵を見るようで格別の趣があった。

 ベルンでは、この地の出身であるパウル・クレーの美術館を訪れた。美術館の形容が造形的に美しい。タッチが優しい、クレーの抽象画に心温まるものがあった。

 7月12日、ベルンから急行列車をミラノで乗継ぐ5時間半の旅で、ベローナに着く。早速、同夜の9時から12時まで、古代ローマの野外劇場で、ベルディ没後100周年記念オペラ「仮面舞踏会」をみた。アリーナは、ドレスアップした人々で溢れている。この夏休みシーズンに野外オペラは数週間上演されており、人々は、観光も兼ねてベローナに集まるらしい。ホテルは一杯だし、終了後、路上一杯にはみだして、レストランで遅めの夕食を楽しむ人々をたくさん見た。

 オペラは素晴らしかった。丁度その夜が満月、それが舞台の背後から昇ってきた。舞台装置も大がかりなもので時代考証がしっかりしているので、ローマ人になった気分でオペラを堪能した。また、出演者はプロのオペラ歌手だけではなく、一般市民多数が中世衣装の群集役で出演し、そのスケールは圧巻だった。

 ベローナの街も川に囲まれ、ローマ時代からの古き街の良さが残っている。ロミオとジュリエット所縁の観光名所も訪問。裏通りには手工業のお店が立ち並ぶ。散歩の途中で立ち寄ったコーヒー店でアイスコーヒーを注文したところ、相手も少し考えた後に熱いコーヒーに氷の破片を2切れ入れて出してきたのには驚いた。アイスコーヒーというものは、どうもイタリア人には馴染みがないらしい。

 ベローナでは、有名なレストラン「IL DESCO」の昼食が忘れられない。各地でワインや料理を堪能したが、このレストランの味、ワインは、この旅行のハイライトであった。5種類の魚料理が、日本の会席料理のように大きな皿に少しずつ出てきた。その味が洗練されており、たまらなく美味しい。シャンペンから始まって、地元産銘醸の白、赤ワイン、それにデザートワインとグラッパまでどれも秀逸だった。さすが「ミシェラン」が2星を進呈するはずだ。

 いよいよ7月13日、ドロミテ・ウオークの組織者、イサベラさんとアンナさんがベローナの宿まで車で迎えに来てくれた。イサベラさんは英国出身でオックスフォード大学の歴史学科を卒業した人。ドロミテに住み英語教師や翻訳をしながら、イタリアでオーダーメードのウオーキング・プログラムを作り、山岳ガイドもしている。イタリア人のアンナさんは35歳で、地元のアウロンザ市では選挙で選ばれる名誉職、副市長もしている。ウオーキングツアーの組織では、イサベラさんの良きパートナーである。

 今回のプログラムで感じたことは、参加者の自立性を尊重していることだ。前夜に明日の日程の説明があった後、参加者の意向により柔軟に計画を調整してくれる。易しいコース、難しいコースにチームを分け、二人が分担でガイドしてくれることもあった。一旦参加を決めた後は、自己責任。なんとしても自分の足で帰ってこなければならない。

 イサベラさんもアンナさんも背の高いがっちりした体格で、山道の運転を何時間も一人でこなしているし、重い荷物の積み込みもやってのける。また、イザベラさんは歴史学者なので、このチロル地方の歴史について、古代のローマ時代から6世紀にはじまったゲルマン民族の侵入、最近の第1次、第2次大戦時のオーストリアとイタリアの戦争に至るまで、要領よく説明してくれた。また、山岳ガイドとして全員の歩行に気をつけてくれるうえに、地理や高山植物についても専門的な説明をしてくれる。本当に肉体的にも精神的にも男女は平等で、母性だけが男性とちがうだけだとつくづく思った。日本でもこのようなたくましく知性あふれる女性が、今後はきっと多く出てくるであろう。

 ベローナから車で2時間、途中で景勝地ガルダ湖畔のマイチェジネ城に寄る。素敵な中世風のレストランで昼食後、ドロミテの中心拠点でドイツ語圏チロルの街、サンカンディードに到着。優雅なホテルに3日間宿泊することになる。

 14日は、イサベラさん達が私たちの山歩き実力検分もあって、ホテルの近くの山をトレッキング。プステリア渓谷の田園風景を楽しみながらゆっくり登り降りして、セスト・ドロミテのパノラマ風景の眺望を楽しんだ。山の牧場で典型的なチロリアン特産物を主としたホームメイドの昼食。家族経営のレストランの味、ハム、チーズ、パン、ワインの味は、山歩きの後でもあり、最高だった。

 そのあと、元気な人たちは山登りを続けたが、私は午後、病院に連れて行ってもらった。どうも胸が少し痛むので、これからの山歩きをするのに大丈夫かどうか、診察してもらうため。素敵な病院であった。先ず、男の看護師さんが出てきて握手し、すぐ血圧を測ってくれる。正常とのこと。少し待っていると、女性のドクターが出てきて、また、握手。いろいろ問診・診察してくれた後、心電図、レントゲン、血液検査をしてくれた。待っこと暫し、呼ばれていくと「ノーイルネス。山登りは、続けていいが、ワインは、たくさん飲まないで下さい」。薬として、鎮痛剤をくれた。

 こんなことで、病院へ行くなんて。日本人でこんなところの病院に行く人はいないのではないか、と仲間の人にからかわれたが、イタリアの病院を知るいい機会となった。医療水準は日本と比べてみても非常に高く、医療費は、保険適用がなくても、160ユーロ(1ユーロ137円)、薬代は、6.7ユーロだった。日本で、保険診療を受けても検査代でこのくらいかかってしまうこともある。それから、日本では、医者にふかぶかとお辞儀してから診療を受けるが、こちらは握手で、対等関係にあるような印象。これで、明日からの登山、安心してできる。元気が出てきた。

 翌15日は、ケーブルカーに乗って、高度2,000メートルまで登り、それから1時間ほどトレッキング、山のヒュッテでコーヒーを飲んだ。ドロミテとオーストリア・アルプスのドラマティックな山容に息を呑む。ここで、さらに登山を続けるグループと別れて山を降る。アンナさんにお願いして、軽食のスパゲティを注文して昼食をとる。イタリアの味は、最高だが、毎食食べると、日本人としてはカロリー・オーバーとなりそう。

 翌16日、イサベラさんが、南チロルの魅力を探訪するリラックスした休日プログラムを組んでくれた。車で1時間、ブレッサノーネの街に着く。第1次世界大戦におけるオーストリアの敗北により、この町を含む南チロルはイタリア領になった。交易の町、文化の街である。ドゥオモを核とする古い街で、8世紀にビショップが住み始め、広場には13世紀に建造された古い由緒ある教会があった。

 イサベラさんの説明によると、ローマ帝国時代にはこの地方はその一部であったが、その後はオーストリア帝国領になっていた。第1次大戦後はイタリア領になったが、ムッソリーニが政権につくと、住民の大多数の母国語であるドイツ語の禁止など、極端なイタリア民族優先政策をとった。その後第2次大戦でヒットラーが占領し、またオーストリア領となった。戦後ヒットラーに協力したとの理由で、ドイツ系住民は迫害された。そのために、1990年、オーストリアが国連に問題を提訴した。国連の調停により、南チロルはイタリア領にとどまるものの、ドイツ系住民の自治が大幅に認められるようになった。

 街からかなり歩いて、11世紀に建築された大修道院に着いた。この僧院は、豊かで、大規模なぶどう園とりんご畑を所有している。そこで生産されたワインのテイスティングには、パンとチーズ、ハムも出されて、ドイツ人ソムリエが説明してくれた。それからガイド付きで、庭園と僧院の中を案内してもらった。僧院の中の古文書庫、古地図、絵画、会堂を見学した。

 そのあと、高度2,000メートルのプラトピアッツアに車で急登、山上に建つ素敵な山小屋ホテルに2泊した。目前に灰色の岩山が聳えている。自然の目線でこんな高い山々が身近に見えるところに宿泊できるとは夢のよう。

 翌17日朝は、プラトピアッツア高原を徒歩で出発、周りの山々を観察しながら2時間ほど登り、頂上の手前でピクニック・ランチ。サラダやチーズ・ハム類の調理材料とワインは、イサベラさんとアンナさんが担いできた。高山を目前に見ながらの食事は、格別。そのあと、モンテ・スペキエ山頂上で、360度パノラマ景観を楽しむ。遠景には、オーストリア・アルプスの山々が連なっている。

 このあたりの山岳地帯は、第1次大戦中にイタリアとオーストリアが激戦したところで、要塞、塹壕、トンネルの跡などが至る所にまだ残っている。こんな厳しい山岳地帯の高地でどのように戦ったのであろうかとつくづく思ってしまう。

 7月18日、いよいよこのプラトピアッツアの山小屋ホテルを去る日だ。私は、午前4時頃目が覚めたので、山のご来光、モルゲン・ロートを見るべく部屋で待機。5時40分、朝日を受けた灰色の山は真赤に燃えた。それが、6時までの20分間にだんだん色が消えていき、山は、灰色に戻った。神秘の瞬間である。これを見ただけでも今回の旅に来て良かった。こんな光景に接することが出来たとは縁起がいいので、今日の山登りは、できるだろう。やろうと思う。車で山を下ること45分、ミソリーナに到着。湖のあるきれいな町だ。この美しい町で散策しながら待つ仲間もいたが、私は山登りに挑戦した。

 ミソリーナから車で40分、ドロミテで最も人気のある TRE CIME(我々は三峰山と命名)の周辺を2,000メートルから2,440メートルまでの高度でウオーク。山頂から正面に、ドロミテの写真で常に紹介される、有名な3峰を中心とする連山を見る。周りの山々を見ながら、なだらかに続く登山道を登り降りしながら、合計で5時間。ドロミテの素晴らしい景観を見ながらの歩行だった。私にも出来た。なんだか自信が持てた。

 夕方、冬季五輪で有名なコルティナ・ダンベッツォに車で移動。エレガントなホテルに3泊、私の部屋には、天蓋つきのベッドがあった。王女様になった気分。

 翌7月19日は、車で1時間、ルネッサンス前期べネツィア派の最も重要な画家、ティチアーノの故郷、ピエーべ・ディ・カドーレに着く。古い寺院で、薄暗がりの中で、神秘的なティチアーノの絵を見る。そのあと、ティチアーノの生家と眼鏡博物館を訪ねた。アンナさんは、ティチアーノ一族に連なる地元の名家の出身なので、この地方の事情に精通している。

 昼は、アンナさんが副市長をしているアウロンゾの公園内でバーベキュー。そこに、女性市長が来てくれた。私が横浜市の副市長をしていたことがあるので、いろいろな話をした。忙しい市長が1時間も付き合ってくれたのは、アンナさんへの信頼が絶大なのであろう。それともアンナさんの仕事振りを見たかったのかもしれない。

 翌7月20日は、山歩き最後の日。ホテルから車で40分、2,000メートルのところからケーブルカーで、2,752メートルのラガツオイ山に登った。頂上からの360度パノラマ展望で、ドロミテの山々を観る。1日いても見飽きない風景。

 復路は、景色を楽しみ、ケーブルカーで下山する選択肢もあったのだが、私は最後のウオーキングに挑戦を試み、700メートルを自分の脚で降りる選択をした。岩だらけの道で、雪渓もトラバース。急坂もあり、気をつけて降りたものの、2回転び、左足を傷めてしまった。それでも何とかして自分の脚で降りるしか方法はない。ゆっくりと自分のペースで降りた。途中、仲間から湿布をもらって手当てをした。大した痛みもなく帰国したが、帰国後に念のため整形外科にみてもらったところ、左足関節外果骨折ということ。ギブスをはめられてしまった。当分は、自宅でゆっくり休養を余儀なくされる。

 今回の旅行はいろいろなことがあったものの、人生最期の思い出として、今でなくては出来ない快挙を成し遂げたと大満足している。高山植物、可憐で美しい花々が目に浮かぶ。山で出会った人々はマナーに厳しく、ごみ一つ落としていかない。日本で経験する山旅とは一味も、ふた味も異なるウオーキングであった。御世話になった仲間に感謝。

 (筆者は元横浜市副市長)


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