【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

タイ、民主化運動がタブーの王室改革要求へ

荒木 重雄

 2014年のクーデター以来途絶えていたタイの反政府デモが、8月、首都バンコクの民主記念塔広場に2万人が結集する規模で盛り上がり、各地で、紆余曲折をへながら続いている。要求は、クーデターを主導して軍事政権を率い、昨年の総選挙後も親軍政党を基盤に政権を維持する元陸軍司令官プラユット首相一派の退陣と、議会の解散・総選挙や、軍政時代に制定され軍の影響力保持を目論む憲法の改正である。

 発端は、軍政批判の先鋒として若者の支持を集めていた新興政党・新未来党(FFP)が、選挙法に違反したとして、2月、解党を命じられたことにはじまる。抗議行動が散発しかけたところに、新型コロナウイルスの感染拡大でロックダウン(都市封鎖)。抗議活動はオンラインに移る。街頭行動が再開されたのは7月に入ってから。

 活動が再開されるや、運動は急激な盛り上がりを見せた。コロナ禍で経済が悪化し、政府の危機対応は不手際。政権周囲の腐敗が顕在化し、加えて、近年、タイを逃れた民主活動家の数名が行方不明になっていて、当局の関与が囁かれているが、6月にも、著名な民主活動家ワンチャレアム氏がカンボジアで何者かに拉致される事件が起こり、こうした事態全体に対する国民の不信・不満が、学生や若者ばかりでなく年長の市民も反政府デモに向かわせることになった。

 そうした中、8月3日の集会で、民主記念塔脇の演壇に立った人権派弁護士のアノン氏は、「民主主義国家でこれほど大きな権力を国王に認めている国はない」と参加者に語りかけ、王室の権限縮小を求めた。
 「私たちは夢を見続ける。タイ社会に寄り添う王室を見るという夢を」という穏やかな口調の訴えではあるが、タイで絶対的権威を誇る王室に批判的な声を、公に、しかも街頭デモの場で上げるなど、この国では数十年に亙ってあり得ないことであった。

◆ 王と軍と仏教の密接な関係

 ここで、タイの伝統的な統治システムに目を向ける必要があろう。タイの古典的な王権思想は、「王は仏教の擁護者」という観念であった。すなわち、王は民衆の生きる拠りどころであり、社会正義の規範である仏教を護持・興隆するがゆえに王である。

 西欧型民主主義の道を歩みつつあったタイで1957年、クーデターで政権を奪取したサリット陸軍司令官は、その古典的王権思想を復活し、それに、「仏教の擁護者として民族を代表する国王を守ることこそが、軍をはじめ政治指導者・僧侶・国民の最大の責務」との趣旨を加え、若きプミポン国王(当時)とタッグを組んで現実政治を動かした。
 以来、軍と王室の利害や思惑に矛盾する政権が出現すればその都度クーデターで倒し、僧侶や教団(サンガ)は、少数民族の国民統合や、国家事業への国民動員、王室崇敬や反共思想の普及に力を注いだ。

 その最も悲惨な典型例が「血の水曜日事件」である。
 1970年代の初め、サリット将軍の後を継いだタノム=プラパート軍事政権の、目に余る独裁と腐敗に抗した学生・市民の運動が、民主政権を樹立した一時期があった。その間、仏教界の保守層は運動と政権を共産主義と誹謗・攻撃し、76年、国外亡命していたタノム、プラパート両氏が仏教僧に姿を変えて帰国するや、軍と右翼が反撃を開始した。
 10月4日、学生たちの集会で演じられた寸劇が王室を侮辱しているとの口実で、軍・警察・右翼組織がタマサート大学を包囲して、突入し、学生ら100名以上が惨殺される、タイ現代史上最も野蛮で残虐といわれるしかたで、民主化運動が壊滅させられたのであった。

◆ タブーに踏み込んだ新事態

 このたびの反政府・民主化運動でも、権力や伝統への服従を要請する支配層に不満を持つ若者は多かったが、上の事件などを知る彼らは、王室への言及には慎重だった。
 国王を指すにも、直接名指しするリスクを避けて、『ハリー・ポッター』に出てくる「名前を言ってはいけないあの人」と表現したり、デモのプラカードにも、バンコクよりもバイエルンで長い時間を過ごす国王をあてこすって「ドイツのお天気はいかが?」と書いたりしていた。
 なにせ、不敬罪に問われれば最高15年の禁固刑である。

 ところが、前述の弁護士アノン氏の発言が状況を変えた。学生たちは王室の改革についても、10項目の要求を掲げた。その中には、「崇敬すべき存在」とされる国王の憲法上の地位や、王室の資産や軍事力を巡る権限の抑制などが含まれている。が、併せて、王室廃止は求めていないことも強調されている。

 これらの項目は、2016年、前国王の逝去により即位した現ワチラロンコン国王が、王室の膨大な資産を国王個人の名義に移したり、国王は形式的に全軍の最高指揮官であるのに加え、陸軍の二つの精鋭部隊を国王直属としたことなどに対応している。

 運動参加者の間では、不敬罪を定めた刑法112条の廃止を呼びかける「エンド112」と書かれたマスクを着用することがはやり、また、オンラインでも数百万ものユーザーが「#なぜ我々に国王が必要なのか」などのハッシュタグをフォローし、王制を揶揄するフェイスブックも人気が高い。

◆ 王室批判へ報復はあるのか

 さて、タイではタブーである王室への批判や改革の主張に、報復はないのか。懸念されるところである。
 アノン氏の発言後、官憲は、アノン氏や学生活動家数名を煽動容疑で逮捕・勾留したり保釈したりを繰り返しているが、小論執筆の9月初めの時点では、幸いにして、不敬罪適用は聞こえてこないし、大規模な暴力的弾圧の報もない。しかし、プラユット首相は「抗議する権利は認めるが、一線を超えている」と警告し、陸軍幹部は「新型コロナ感染症は治せても、祖国を憎む病は治しようがない」と恫喝している。王室擁護派団体はカウンターデモを仕掛け、運動への嫌がらせを繰り返している。そして、王室や軍に親和的な仏教界の動きも気になるところである。
 予断は許されない。

 (元桜美林大学教授・『オルタ広場』編集委員)

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