【コラム】大原雄の『流儀』

コロナ変異「株交代」?!政権「交代ならず」

大原 雄

★ 冒頭、二代目吉右衛門逝去の報に接し、即興にて詠める1句2首。
  二代目に捧げたい。
  中村吉右衛門は、11月28日に逝去したが、公表されず、
  マスメディアでは、12月1日に初めて報じられた。
  それ故、この先、私は師走と吉右衛門の死を重ねて、
  思い起こすことになるだろう。
  『オルタ広場』の画面を借りて、改めて、二代目に哀悼の意を表し、
  二代目の重厚な科白回しの舞台を偲び、さよならを告げたい。

  「ああ、夢だ。夢だあ~」。
  これが、2021年、最後の逆夢であったなら、いや、夢でも逢って欲しい。

・木枯らしの/師走はしりや/播磨連れ

・黒谷へ/僧形やつし/播磨逝く/夢ひとむかし/「あ、十六年」

・こがらしや/師を走らせて/峠越え/落ちゆくさきは/「きゅうしゅう相良」                 
                         —— ゆふ(雄)

★ 「オミクロン株」の登場

マスコミ各社が伝えるところでは、世界保健機関(WHO)は、11月26日、南アフリカで見つかった新型コロナウイルスの変異株を世界的な警戒度が高いVOC(「懸念される変異株」)に指定し、「オミクロン株」(ギリシャ文字のアルファベット24文字の小文字で「ο」と表記される15番目の文字「オミクロン」に由来する)と命名した。北半球が冬季を迎えるこの時期にオミクロン株が登場したのは、やはり、コロナ禍第6波来襲の兆候なのか?

オミクロン株は、いわゆるコロナ禍の第5波の時期に猛威を振るった新型コロナウイルス変異株のデルタ株よりも強力で、さらに厄介なことには、世界的にも進んだワクチン摂取の効果を削ぐ、という特(異)性があると言われていることだ。もちろん、詳細な研究はまだ進んでおらず、その特(異)性も十分には明らかではない。今後の分析を待つ必要がある。

日本政府は、南アフリカや周辺国ジンバブエなど合わせて6カ国に対する水際対策を強化すると発表した。日本のほか、イギリスやイスラエル、シンガポールなどでも相次いで、規制強化を打ち出している。その後、オミクロン株は、「空気感染」の疑いが強まるなど、またたくまに世界制覇の感がある。まさに、パンデミック。「オミクロン株、人類世界を襲う」という危機状況が、とうとうやってきたのか。継続摂取してきたワクチンが無効にならぬよう、人類はオミクロン株を前面に捕(とら)まえて来年こそ抑圧しなければならない、と思わざるを得ない。

この長編コラム「大原雄の『流儀』」を連載している、メールマガジン『オルタ』(現在は、『オルタ広場』と改称)の執筆陣は、私同様、朝日、毎日、共同通信などの組織ジャーナリズムで働いてきた(働いている)記者のOBや現役の記者という顔ぶれだ。つまり、マスメデイア関係者が多いのだが、私としては、ほかの執筆者が個別のテーマとして取り扱うものは先輩方に譲り、野球に例えれば、私は、グラウンドのはるか後方にポジションを求め、先輩方の捕球漏れで飛んできた球や野手のいない「横道」にでも飛んできた球を処理し、敵方のホームスチールを刺す「妙味」に痺れてフリーのジャーナリストをボランティアで続けている、とでも自己分析をしておこうか。

コロナ禍以来、ここしばらくは、ほぼ毎月、新型コロナウイルスの記録として、いわば「ほぼ 毎月 コロナ日記」の様相を呈している「大原雄の『流儀』」であるが、およそ100年ぶりのパンデミックなので、同時代人としておゆるしいただきたい。
以前のように、大原雄独特のさまざまな『流儀』を披露するのは、いったい、いつになることか。

えへん、えへん(ここで、舞台中央に座り込んでいる口上人形は、咳をする)。「えへん、えへん。東西。東~西(とざい、と~ざい)」!

さて、これにて、連載コラムの「席亭」としてのご挨拶と相成りましたが、「ほぼ 毎月 コロナ日記」、今回は、どんな趣向を皆さまにお見せできるのか?
大谷翔平ばりに、全力投球をするのか。大谷ばりの二刀流は、席亭には無理な注文だろうなあ。「東西。東~西、東~~西」。

★ 「ハナのマスク」異聞

「異聞」といっても、もう旧聞に属する古い話。そう、あれは、いまから1ヶ月ほど前。大分県臼杵(うすき)市議会でマスク着用をめぐってひと騒動あったのだが、読者の皆さんも、もうすでに忘れていらっしゃることだろうから、各紙の報道を元に概略の説明をしておこう。
ポイントは、見出し(ヘッドライン)的に言えば、マスクから鼻を出すと、どういうことになるか、という話である。空気感染も噂される「オミクロン株」だから、コロナ感染の視点から言えば、マスクから鼻を出さないほうが良いことは、議論の外で当然のことだろうが、鼻を出すか、出さないかで、議員を辞めろ、辞めない、と地方議会がもめているという話の顛末は、さて……。

以下、引用だが、各社の複数の記事を基にした引用でまとめた記事なので、引用元は、すべてをいちいち明記していないが、お許しいただきたい。

話題の主は、大分県臼杵市議会のW議員(62)。同議員は議会で「マスク着用を強要され、さらに発言を禁じられたのは違法だ」として、11月22日、臼杵市と市議会を相手取って大分地方裁判所に提訴した、というわけだ。市議会議場での「マスク強要」「発言させない」「議場から退場せよ」などという表現が出てきた、ということでは、私としても、放っておけない。同議員の説明は、各紙が取材をして報じるとともに、同議員自身がテレビ(フジテレビ系「バイキングMORE」)に出演して発言もしている。テレビの発言を「スポニチ」が書いているので、それを主に引用したい。

W議員:「議会についてはマスクをしてくださいと言われるので、私は我慢できる範囲でマスクをしてきたつもり。それはあくまでエチケットの範囲で苦しい時は鼻を出しますよと。それが9月の議会冒頭に強制的に鼻までしてくださいと。しない場合は退場させますと。委員会では発言させませんとなってきたので、それはおかしいんじゃないのって」と提訴に至った経緯を説明。

要するに、マスクから鼻を出すか、出させないか、という論争らしいが、確かに、マスクをしても鼻を出していては、空気感染もありうる厄介なウイルスの感染防止に役立たなくなる可能性があるのは、確かだろう。また、本人の説明通りで、ことが事実だとすると、もっと大きな問題、つまり、同議員の発言権(言論表現の自由という憲法で保障された権利)にも影響しかねないように思える。

私は、日本ペンクラブの理事・委員を長年勤めてきているので、こういう問題なら言論表現の自由という近代民主主義の原理的な理念の一つがすぐに浮かんできてしまい、チェック&バランスの思考に捕らえられてしまう、という癖があるようだから、皆さまも懲りずにお付き合いをお願いしておきたい。

ただし、同議員の方は、言論表現の自由という視点では正面から主張はしていないようで、以下のようにテレビでは話している、という。「マスクについて議論したいが、まったく取り合ってもらえない状況なだけに、それを打破するための提訴だった」と、言っているという。マスク論争のほうが主眼らしいのだ。

読売新聞によると、議員側は、表現の自由も論点としている、という。そうだろうな、と思う。弁護士がついていれば、そういう助言は当然するだろう。そうならなければおかしいからだ。以下、読売新聞から引用。私のコラムでは、議員の名前のみ、イニシャルに変えた。

「訴状によると、W市議はマスクから鼻を出した状態で9月の定例市議会に臨んだことで、本会議や委員会での発言を禁じたのは表現の自由に反すると主張している」、という。

臼杵市議会:一方、臼杵市議会側の言い分は、こうだ。市議会は、マスク着用を申し合わせているが、あくまで「お願いベース」の申し合わせに発言を禁じるほどの強制力があるのかは疑問だと主張している。肩透かしを狙っているようだ。

「マスクは強制的に着用させられるものではないと思いますが、強制的に鼻まで着用する委員長のお考えは何ですかと。理由があるなら理由を言ってくれればいいんです。マスクが本当に有効で必要な場面ってどういう場面なんですか」と適正な着用を強制する理由を説明する必要があるとした。
これは、W市議の主張らしい。

しかし、市議会は9つの理由を挙げて辞職勧告を決議している、というが、同議員は、「辞めるつもりはない。最悪の場合、そういうところまで行くかなと思っていました。抵抗を続ければ折り合いがつかなくなる。意地と意地のぶつかり合いですねと言われてますけれど」と述べた、という。どうも、下世話な理由もありそうな書き方だね。

「デイリー新潮」によると、辞職勧告決議の内容は、以下のようであったらしい。以下、「Yahoo!ニュース」より引用。

可決された辞職勧告決議案によると、「決議文は、中学校周辺や駅で、マスクを着けずに新型コロナワクチンの子どもへの接種停止を求めるチラシを配布したことで、臼杵市議会に市民から抗議が寄せられた。さらにマスクの適正着用を求める議長や委員長に従わないとして、議員としての規範意識が欠如していると指摘している」という。こうして、細部の情報を集め、合わせ直してみると、この提訴の背景は、全国的に広がっている、いわゆるワクチン接種派とワクチン否定派の対立という大きな流れの中にあるのではないか、と思われる。

★ 日本政治に見る「党首」の選び方

贅言;ここでいう「党首」とは、「総裁」「代表」「委員長」などの各政党のポストも含む表記として使いたい。

1)自民党の「総裁」選挙の場合(再録)

マスク論争の後は、党首論争か。自民党の総裁選挙については、このコラムを連載している『オルタ広場』」(前号)で書いているので、改めて一部を再録(抄録とした上で、一部加筆)しておきたい。
世界各国の政治状況の中で、多党化傾向が強まっていて、それを反映することも含めて、日本の政党も多党化している。多党化する意義、意味などが、必ずしも明解ではないため、選挙で政党選びをする有権者も戸惑いを見せ、場合によっては、棄権(投票権の放棄)などにつながる傾向に拍車を掛ける、というような現象も見受けられるようになる。今回は、公平ではないかもしれないが、既存政党のうち、主に自民党と立憲民主党について観察をし、私なりの検討を深めてみたい。まずは、自民党から。

自民党の「総裁選挙」の場合、特に、党員・党友の投票(いわば、「仲間うち」の選挙)をあたかも公共的な「国民投票」に見立てるのは、マスメディア、あるいは、マスメディアと自民党が作り出す幻想(イリュージョン)、あるいは、吉本隆明が、唱えていた「共同幻想」、あるいは、アメリカのトランプ前大統領が頻発に罵りに使った「フェイクニュース!」ではないか。

自民党の「総裁選挙」、まず、党員・党友(公称110万人)が投票する。いわゆる「地方票」として、1回目の投票では、実数に関係なく全部で382票に「換算」される。382票とは、今回の自民党の国会議員の総数である。自民党では、会費をきちんと納めている党員は、投票権(葉書一枚)を持つ。しかし、投票結果は、110万票でも、最大で国会議員の数と同じ、382票で抑え込ませる、というしくみになっている。単純計算だが、110万を382で割る。そうすると、国会議員票の重さは、地方票の2,879倍になる、という計算だ。この票の軽さ。

自民党は、政権政党であるから、マスメディアでは、自民党の総裁選挙を「党営選挙」ながら、一応「公職選挙に準ずる」扱いにしている。しかし、国会議員選挙のような「公職選挙」ではないから、法律的に公職選挙法の制約を受けることはない。番組の中では、各候補の「票読み」をすることもできる。公職選挙のように、公平性、中立性などのバランス維持に頭を悩ませることも、原則的には不要である。
かつて弊害が騒がれた時期に派閥は解消されたはずの自民党の政策集団の各グループ(実は、これが「派閥」)が支持する候補を「どうした、こうした」といった生々しい裏話や詳しい票読み(予想)など、公職選挙では公にしない内部情報も、番組の中で伝えることができる。情報番組として「おもしろさ」を味付けできる。

自民党としては、こうした報道の結果、マスメディアで、派閥の動きが肯定的に描かれようと否定的に描かれようと、要は、自党の存在感を強める宣伝効果が期待できるだけに、よほどのことがない限り批判したり、抗議したりはしない。つまりテレビ報道にとって、自民党総裁選挙は、視聴者にとって国政選挙なみの関心事でありながら、公職選挙ではないから、報道の制約が少ない、という美味しい題材なのである。

政治が、芸能ニュース並みにエンターテインメント化される。特に、自民党の総裁選挙は、国会議員よる選挙という側面と党員・党友による選挙という二重性を持った選挙であることから、限定された「会員選挙」と誰でも参加できる「国民投票(選挙)」に似た両用の様相を呈してくる。1年前の総裁選挙のように、自分たちの都合に合わせて、限定的に国会議員票だけの選挙にしたとしても「良し」とし、地方票は、そもそも投票させないシステムにしてみたり、1年後には、余裕があるからと、地方票を復活してみたり、誠に得手勝手、融通無碍に変化させたりすることもできるのである。

選挙でさまざまな形でのアピールをする候補者の動きを、視聴者であり国民である人々は、選挙権のある党員・党友だけでなく、選挙権がなくても、見たいならば、毎日、テレビで見ることができるだろう。自民党とすれば、誰が勝つにしても政党として「テレビの露出」は増えるという、願ったりかなったりの状況になる。
総裁選挙報道では、候補者が掲げる「政策を伝えてほしい」というまともに思える指摘以上に、「街頭演説バトル」や「水面下で蠢く派閥領袖」のほうに多くの視聴者の関心が集まるのも事実である。裏話、生々しい話は、フェイクニュースであろうが、ほんとうの話であろうが、聞き手にとっては確かにおもしろいのであるから。

★ 「党営選挙」なのに、マスコミは国政選挙と勘違いしている?

自民党の総裁選挙は、自由民主党規約で規制しているが、公職選挙法は無関係である。自民党の総裁選挙は、閉じられた「党営選挙」であるから「非」公職選挙法。公職にあらざる選挙という。別の言い方をすれば、法律に寄らざる選挙と言うことになり、あるいは、「擬似」公職選挙法では、ないのか。政権政党であるから自民党は、国会議員の集団であり、議院内閣制の国会で首班指名(内閣の首相)をすれば、議員数の多い自民党は、「首班」に我らの総裁を選ぶ。総裁が、首班指名されれば、内閣を構成することができる。

【2021年自民党総裁選挙:9・29投開票】
      1回目  2回目 (決選投票)白票:1票、無効:1票
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 岸田文雄 256票  257票 (国会:249票、地方: 8票)
 河野太郎 255票  170票 (国会:131票、地方:39票)
 高市早苗 188票
 野田聖子  63票

︎マスメディアは、1回目の選挙では、河野トップ説。新聞は、選挙当日の朝刊に予測記事を書き、夕刊、ないし、翌日の朝刊では、事実上の訂正記事を書く。

自民党の総裁選規程。自由民主党総裁は、「自由民主党党則第6条」及び「総裁公選規程」により、「党所属の国会議員(衆議院議員、参議院議員)、党員、自由国民会議会員、国民政治協会会員による公選」が原則であり、実施年の12月31日までに満年齢20歳となる日本国民で、前年や前々年の党費や会費を2年連続納入していなければ、投票参加不可能である。まさに、自民党の総裁選挙は、典型的な「会員選挙」であり、「党営選挙」ではないのか。

法律の公職選挙法と「党営選挙」、組織の規定のルール(つまり、「党則」)に依拠する選挙というのは、大違いだから、その点を含めて、今回の立憲民主党の代表選挙でも、論じておきたい。

2)立憲民主党の「代表」選挙の場合

日本政治の目下の政治状況では、立憲民主党は、野党第一党である。野党第一党と言えば、国会論争で政権政党の与党に対抗して政策論争をリードする重要な政党である。政治状況が、政権交代を争うようになった場合には、「ネクスト・キャビネット」として、政権交代の受け皿になるような見識を、国民や有権者に示さなければならないだろう。重要な政党である。

今回は、自民党の総裁選挙に続いて、衆議院議員への信を問う、いわゆる「総選挙」があり、その敗北の責任を取って立憲民主党の枝野代表が辞任した結果、立憲民主党の代表選挙も行われた。自民党の総裁選挙と立憲民主党の代表選挙の相違点、あるいは相似点を比較する、良いタイミングに遭遇したと思うので、今回は、これについて論じたい。立憲民主党の代表選挙も、もちろん、公職選挙法とは無関係の「党営選挙」である。それ以上に、自民党と立憲民主党の党首選挙のシステムは、よく似ていることに改めて驚く読者も多いのではないか。

まず、立憲民主党の代表選挙制度について報じられたマスメディアの情報では、朝日新聞の以下の記事が参考になるので、引用し参照したい。
「立憲民主党の代表選 どんな仕組み?」(朝日新聞、11月19日朝刊)を参照すると、立憲民主党の代表選挙は、概要以下のようなものである。

代表選挙に参加できるのは、140人の衆参両議員。6人の次期国政選挙の公認候補予定者。およそ1,270人の党籍がある自治体議員(市町村議会議員)。およそ10万人の党員。自民党の党員・党友が110万人というのから比べると10万人超えという立憲民主党は、党員規模から見れば、ざっと、10対1というイメージか。

それでいて、党首選びの選挙システムは、あちこちで類似しているように私には見える。代表選挙に立候補するためには、国会議員の推薦が必要である。党に所属する国会議員20人以上が推薦する必要がある。推薦する国会議員がいない人では、立候補すらできない。選挙では、自民党が国会議員の選挙権に党員・党友よりも「一票の重さ」を意図的に偏重させている点を指摘したが、立憲民主党では、「ポイント制」を採用していて、国会議員の選挙権の重さを2ポイントにしている。次期国政選挙立候補予定者も、同様に優遇されるが、こちらは1ポイントである。

これに対して、10万人いると言われる一般党員や協力党員は、全員合わせて国会議員や次期国政選挙立候補予定者の半数に当たる143ポイントが、自民党の総裁選挙同様に、「ドント式」で配分される、というシステムになっている。

立憲民主党の代表選挙を数字で表現すると、次のようになる。
140人いる国会議員は、1人あたり、2ポイントなので、280ポイント。国政選挙の公認候補予定者は、6人なので、6ポイント。合計で、286ポイント。

党籍がある市町村議会議員は、およそ1,270人いるが、実際の人数に関係なく、全員合わせて143ポイントが、ドント式で配分される。一般党員・協力党員の10万人分も合計143ポイントが、ドント式で配分される。

国会議員・国政選挙公認予定者の286ポイントに対して党籍がある地方議員の143ポイント、一般党員・協力党員の143ポイントの合計286ポイント(国政対地方が同数の286ポイントになる仕組み、判りにくい)の572ポイントの過半数287票以上を取った候補が、代表選挙の勝者となる。

【2021年立憲民主党代表選挙:10・30投開票】
*1回目投票の結果→ 過半数(287票以上は、無し)
   国会議員など 地方票   全体
 ------------------------------------
 逢坂誠二 62   86    148
 小川淳也 72   61    133
 泉健太 96   93    189
 西村ちなみ 56   46    102

*決選投票の結果
   国会国会議員など 都道府県連の代議員  計
 ---------------------------------------------
 逢坂誠二   116    12       128
 泉健太 当選 170    35       205

3)総裁選挙(自民)、代表選挙(立民)、似ていませんか?

立憲民主党代表選挙のしくみ、このあたりの説明を読んで行くと、数字こそ違え、自民党と立憲民主党の国会議員や地方党員に対する認識が、共通しているのが、感じられる。つまり、国会議員には、インセンティブとして偏重した選挙権が与えられているのではないか、ということである。

国会議員は、それぞれの選挙で、有権者の支持を受けて当選しているので、他の党員とは違うとか、国政の場で活躍してきているので、政治に対して実績を持っているからとか、理由づけはいろいろあるのだろうが、与党、野党、あるいは、保守系議員、革新系議員などの要素に関係なく、国会議員に特別の選挙権を与えても良い、という意識が、党派を問わず、蔓延しているのだろう。

そういう意識があるゆえに、党員の平等な選挙権ではなく、偏重した選挙権で染め抜かれた「濃淡模様」の衣服をまとって政治活動をしていても、有権者の意識を反映しているという「誤解」にまみれたままで、有権者は、保革を問わず、自分が支持したり、支持を休んだり(棄権したり)、支持をやめたり(無党派として、多党化の波に身をまかせたり)しながら、緩やかな衝撃(不支持という不安定さの反映)のみを国会議員に伝えるだけで当該選挙を終えてしまうのではないか。

★ 有権者は、政権交代を選択しなかった

今回の総選挙では、有権者は、自公政権を維持し、立憲民主党を軸とする革新側のいう「統一候補戦術」には、必ずしも乗り切らなかった。その結果、革新側の有権者は、政権交代という政策判断をしなかったことになる。

大阪の日本維新の会(以下、「維新」と略記する)の選挙結果をもとに考えてみたい。維新は、立憲民主の13議席をも剥ぎ取る。大阪では、立憲民主の有能な「国会質問の女王」、女性議員である辻元清美も落選した。維新旋風で水面が上がった当選ラインに負けてしまったのだろうか。NHKが準備した大阪の速報板からは、自民とともに立憲民主の表示も消えてしまった。画面に残っているのは、維新の15議席と公明の4議席を表示するもの2色だけであった。全国のどこの小選挙区でも見られなかった奇妙な現象だった。

大阪では、維新が自民と入れ替わったことになる。これの意味するところは何か。その結果、維新は、引退を表明していた党首である大阪市の松井市長を残留させるために、代表選挙を取りやめる、と発表した。選挙を取りやめることで、維新は、松井市長の維新代表引退問題をうやむやにし、「躍進」に応える布陣を敷いたことになるのだろうか。
このような、姑息とも言える判断を平気でする政党を、有権者は、次の選挙では、どのように見るのだろうか。大阪での立憲民主の次期選挙戦は、どうなるのか。革新陣営の政権交代は、今後、どういう展開を見せるのか。大阪の国政選挙は、今後とも目を離せない。

維新の「躍進」の背景には、自公の与党と立憲民主を軸とする野党の、保革二大政党時代に反発する声が高まっていることを物語っている、という一面もあるだろう。自民党も嫌だが、立憲民主や共産も肌に合わない、という若い世代が声を上げ始めているのだろう。そこへ、第三極の維新が受け皿を差し出した、という説である。しかし、本当にそうであろうか。

今回の総選挙では、東京で見ていると、維新というより、大阪府の吉村知事のコロナ対応の「奮戦ぶり」が評価されただけではないのか。それならば、今回の総選挙の結果は、「維新ブーム」というよりは、「吉村ブーム」である。したがって、吉村ブームは、やがてくるコロナ抑制成功の暁には、消え去るのではないだろうか。大阪で大勝ちした維新だが、東京では、そういう現象は起きなかった秘密も、ここにあるような気がする。東京の有権者は、維新に関しては、今回の大阪の有権者が描いた「大阪答案」を嫌い、大阪答案の「次の答案」として準備している「東京答案」を次の参議院選挙で、見せようとしているのではないか、などと私なら考える。

★ 立憲民主党は、再生の道を見つけられるか

政権交代を再度実現するために、立憲民主党は、いや、泉代表を選んだ新生立憲民主党は、「新党として」どのようなイメージチェンジを果たそうとするのか。とりあえず、来年夏の参議院議員選挙に向けて「泉戦略」がいろいろ仕掛けられるだろうから、それを読み解くことが楽しみになると、思う。
ここで私が興味を持つのは、「りつみん(立憲民主の略)」だとか、そのロゴだとか、大手広告代理店に依頼したりして作られるであろうPR番組的なイメージチェンジには、私は全く関心がない。むしろ、新たな有権者、支持者の鉱脈を探り当てて、各種国政選挙のたびに織り出される現在のような政治模様ではなく、全く新しい政治模様を期待したいし、その期待に応えるような、つまり私がいまイメージしているような「政治」や「政治家」、「政治意識」などを打破して出現する「あるもの」を待っているのである。いくつかの点にまとめて、私の素案をスケッチしておきたい。

1)「政治家」最優先の意識は、変えられるか。

先に見た「党首選挙」のシステムで、自民党と立憲民主党の国会議員や地方党員に対する評価の認識が、共通しているのが、感じられる、と述べたが、つまり、国会議員には、インセンティブとして「偏重した選挙権」(非民主主義的選挙権)が与えられているのではないか、ということである。
国会議員は、それぞれの選挙で、有権者の支持を受けて当選しているので、ほかの党員とは違うとか、国政の場で活躍してきているので、政治に対して実績を持っているからほかの党員とは違うとか、理由づけはいろいろあるのだろうが、与党・野党、あるいは、保守系議員・革新系議員、国会議員・地方議員などの要素に関係なく、国会議員に特別の選挙権を与えても良い、という意識が、党派を問わず、政治家の間には蔓延しているのだろう。

そういう意識があるゆえに、党員の平等な選挙権ではなく、偏重した選挙権で染め抜かれた「濃淡模様」の衣服をまとって、政治活動をしていても、有権者の意識を反映しているという「誤解」にまみれたままで、有権者は、保革を問わず、自分が支持したり、支持を休んだり(棄権したり)、支持をやめたり(無党派として、多党化の波に身をまかせたり)しながら、緩やかな衝撃(不支持という不安定さの反映)のみを国会議員に伝えるだけで当該選挙を終えてしまうのではないか。

自民党で言えば、世襲議員が多いことが、その一つの証左となるだろう。与野党を問わず、多いのが世襲議員である。有力な政治家の経歴や家系を見ると一目瞭然だが、本人が現役の有力な国会議員であり、党の役員であり、閣僚(あるいは、経験者)であったりするのを始め、実父・岳父を問わず父親も似たような経歴、祖父母らも、似たような家系であったりする。そして、若さゆえ、国政に参加する前には、地方議会の議員を経験したというような似たような家系を陰に陽に誇らしげにしているのである。

昔は、「井戸塀」と言われたような清貧な政治家がいて、政治理念、政治家魂を燃やして、国家権力にも抵抗したようだが、いまはすっかり(いや、稀少価値のある人もいるかもしれないので、失礼にならぬよう「断言」は避けるが)姿を消してしまったようですね。清貧な生活環境にも耐え、それを維持し、国民のための人権意識を磨き、同時代人の手本となるような人が、与野党を問わず、政治家を志して欲しいし、有権者も、そういう人を見抜き、選び出し、塩ならぬ、票を送り、まず、日本政治を下部構造から改造しましょう。
国民の立ち位置より、一歩前に出るのではなく、半歩後ろに下がって、国民の足元を見定める。政治家一代、国民末代。高村光太郎流に言えば、「僕の前には、国民の足裏、僕の後には、国民と僕の踏み固められて重なった足跡」というような文言になるかもしれない。

2)「野党統一候補」再構築は、可能か。

この問題は、現況からすれば、はっきり言って、共産党との共闘を政権交代に結びつけながら実現するアイディアを誰がまとめきれるか、にかかっているように思う。今回、立憲民主党は、総選挙の敗北の責任を取って辞任した枝野代表の後継者として、泉健太氏を選んで、再生立憲民主党という旗を大きく掲げて、来年夏の参議院議員選挙という港を目指して、船出した。
その原点は、なぜか、衆議院議員選挙では、立憲民主党を軸に与野党の政権交代を実現させた場合を想定して、共産党との政権をめぐる関係を、(共産党とは、)「限定的な閣外からの協力」という踏み込んだイメージを前面に出して総選挙に臨んだから、結果的に共産とともに議席を減らした、と党内からも指摘があった、という。

共産を含む野党候補の一本化は、連合を含む「総革新陣営(オール革新)」でも、一定の効果を認めているが、「共産」という表記には、アレルギー反応が残っているようである。なぜ、そのような奇妙な理屈が革新陣営に、いまもこびりついているのだろうか。革新統一候補で、保守系と競り合い、競り勝ちするケースは、いくつもあるだろう。だけれども、勝った暁には、共産党と一緒に政治をやりたくない、とでもいうのであろうか。

今回の選挙戦術では、枝野氏の説明がわかりにくかった、という一面を指摘する声もあるのは、確かだろう。だが、それが多くの革新的な、あるいは、自民党などの既成の権力の在り様に批判的な有権者の不信感を煽ったという指摘がある。ならば、枝野氏の説明の足らざる部分を立憲民主党の若い政治家たちが軸になって、斬新な説明を考え出して欲しい。立憲民主党とその周辺に同感する有権者が、革新統一候補論に花を咲かせて、議席という果実を取ることだけを狙わずに、政権交代の受け皿とは、どうすれば再構築できるのか、とりあえず、夏の参議院議員選挙という答案用紙に書けるように勉強を進めて欲しい。

「連帯を求めて孤立を恐れず。力及ばざることは、恥じないが、力尽くさざることを恥じる」。60年代末から70年代初めに、社会改革に情熱を燃やし、これらの文言をかみしめたはずの全共闘の世代も歳をとり、文言を忘れて一生涯を生き抜き、はや、死域に入り始めた、ではないか。せめて、死に花でも咲かせようではないか。

3)「政権」の受け皿とは、何か。

「政権」とは、いまの日本の政治状況では、自公政権の後継となるのは、何者か、ということだろう。安倍政権、菅政権、岸田政権と続いてきた与党の政権。そこでは、自民党の場合ならば、既成政権をどの「派閥」が受け継ぐか。派閥の再編成を含めて、どの派閥が政権というグロテスクな利潤の塊をほう張り続けられるか。ここでは、自公政権を構成する公明党も、自民党のほかの派閥同様に一つの派閥として扱われる。公明側も、それに甘んじる構造が既成のものとして作られ、その様なものでも良いと認識されている。

したがって、「政権の受け皿」という問いへの答えは、「派閥」と書くのが、正解であろう。「政権の受け皿」つくりでは、受け皿は政権に同化される懸念が残る。

4)「政権交代」の受け皿とは、何か。

だから、与党、あるいは、特に自民党内で政権の組み換えが派閥のエネルギーを燃焼させて起こったとしても、それを「政権交代」とは、言わないだろう。
「政権交代」は、やはり、異なった政党をまたいで与野党が新たに再編成され、実質的に政権が与党から野党に奪い取られる様な状況が出現することが要求される、ということだろう。日本の政界でも、戦前の二大政党時代を含めて、戦後の自民党から民主党への政権交代があったことなどを私たちは知っている。しかし、先の政権交代は、歪みがあちこちで見られた。あの「政権交代」は、まだまだ、成熟していなかったのではないか。

民主党を源流とする政権交代志向の諸政党は、やはり、現状では未成熟のままなのだろう。それを阻害しているのは、共産党という厚い壁。壁の前に立ち、成熟度を測るリトマス試験紙は、「共産党」という赤い試験紙。赤い色から何色が滲みだせば、有権者は、立憲民主党の成熟度合格という、お墨付きを差し出すのだろうか。
国民民主党に参加せずに立憲民主党に残り、故あって、立憲民主党の代表になった泉氏。世の中の右傾化の大波に乗って、自公政権から我が陣営へ、と保守系の政権交代を呼び込めるのか。自民、立憲民主を問わず、既成政権への批判意識が強い「浪花っ子」たちは、維新を第三極としては選んだが、第二極たる政権交代政党とまでは、まだまだ、評価しないだろうし、まして、「江戸っ子」たちの町では、維新が大きく伸びるとは、思えない。やはり、革新統一の王道を行く政党は、共産問題に正面から向き合い、この問題を解決しない限り、政治の王道を行く資格はない、ということなのだろう。政権交代。その実現は可能か。

革新統一候補戦術は、多党化した時代に巨大政党・自民党(いわば、照ノ富士のイメージか)と奇襲作戦を磨き、真っ向対峙を装いながら、土俵際で、体を入れ替えるような、あるいは、足元を抱きかかえるような珍しい技を見せて、僅少差で勝ち抜く(いわば、宇良、翔猿というところをイメージしたい)という芸当をあちらでもこちらでも実現させるような奇襲戦法の相撲を取らない限り、夏の参議院議員選挙で政権交代への「布石」を実現させるのは、難しいだろうと思う。

★ 新型コロナウイルスの現況

新型コロナウイルスの変異株に対して、現在の日本列島は、守られているのだろうか。

世界保健機関(WHO)は、11月26日、南アフリカで見つかった新型コロナウイルスの変異株を世界的な警戒度が高いVOC(「懸念される変異株」)に指定し、「オミクロン株」(ギリシャ文字のアルファベット24文字の小文字で「ο」と表記される15番目の文字「オミクロン」に由来する)と命名した。

という文章は、今号の「大原雄の『流儀』」の冒頭部分のものである。この連載原稿の締め切りは、12月10日。つまり、現在は、冒頭から半月が経過した時点に当たる。マスメディアが報じる世界の1日の感染者数は、66万6,980人。この感染者数には、オミクロン株感染が、だいぶ混じっている、あるいは急増しているのかも知れないが、日本列島の1日の感染者数は、165人。オミクロン株感染は、まだ、空港などに設置された検疫網による、いわゆる水際作戦で抑制されているようである。したがって、オミクロン株の感染者は少ない。しかし、いつまで、この拮抗状態が続くのか。第6波が来襲するのか。この変異株の感染力はデルタ株より強い。ワクチンがあまり効かない? 空気感染する? いろいろ厄介な特異性があるらしい。命を守るために、気が抜けない日々が続きそうである。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、『オルタ広場』編集委員)

(2021.12.20)
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