【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

クルドの住民投票が劈いて見せた中東の新たな貌

荒木 重雄


 9月末、イラク北部のクルド人を主体とする自治政府・クルディスタン地域政府(KRG)が実施した、この地域の独立の是非を問う住民投票が、中東に新たな波紋を広げている。

 92%超の賛成票を背に地域政府のバルザニ大統領はイラク中央政府に交渉を迫るが、中央政府のアバディ首相は投票を違憲として交渉を拒み、さらに、クルド地域の国際空港を封鎖し、地域との境界に治安部隊を派遣して軍事的な緊張も高まっている。

 周辺諸国も独立には反対で、トルコは自治区に沿ったイラク国境付近で軍事演習を行うとともに石油パイプラインを止めることを示唆し、イランも自治区近くでイラク軍と合同軍事演習を行うのに加え、自治区に向けてミサイル配備を進めている。

 なぜ、イラクでクルド人は、これほどの周囲の反対を押し切ってまで独立を志向するのか。イスラム教シーア派が主導するイラク政府をスンニ派が多いクルド人が信頼していないのが要因といわれるが、ことはさほど単純ではない。もっと複雑な背景がある。

◆◆ イラクのクルド人が歩んだ道

 クルド人は「国を持たない世界最大の民族」といわれる。イラクのほかシリア、トルコ、イランに分かれて住むが、全体の推定人口は約3,000万人で、その規模は中東の地域大国サウジアラビアにほぼ匹敵する。独自の言語や文化を持ちながら、第一次大戦後の英仏による中東分割で居住地を国境で分断され、以来、各国で少数民族として、迫害されたり同化を強いられたりする苦難の歴史を歩んできた。

 約600万人のクルド人が住むイラクでは、フセイン政権による村の破壊など迫害を受けていたが、イラン・イラク戦争中の1988年には、敵国イランに協力したとして北部の町で5,000人に及ぶクルド人が毒ガスで虐殺された。91年の湾岸戦争以降は、フセイン政権弱体化を策す米英軍の保護下に置かれ、イラク戦争でフセイン政権が崩壊した05年制定の憲法ではじめて北部3州の自治が認められて成立したのがクルド地域政府(KRG)である。
 大幅な自治権を獲得したクルド地域は、政情不安が続く他地域を尻目に、原油生産に加え海外投資を呼び込んで経済を発展させ、イラク全体の1.5倍以上の一人当たりGDPを挙げてきた。

 そのクルド地域がここにきて独立にまで要求レベルを高めたのは、KRGの軍事組織ペシュメルガが対IS(イスラム国)戦で挙げた成果である。ISの侵攻でイラク政府軍が敗走した油田地帯のキルクーク州などではペシュメルガが最前線に立ってISを掃討し、同州をKRGの実効支配に置いた。ISの最大拠点だったモスルの奪還作戦が成功したのも、米軍主導の有志連合やイラク軍と連携したペシュメルガの活躍があってこそであった。

◆◆ クルド人自立の悲願をめぐる内外情勢

 住民投票の日、街は興奮に湧いた。大地に口づけする者がいた、赤・白・緑の三色に太陽をあしらったKRGの旗を振る者たちがいた。だが、独立への気運が順風満帆とは言い切れない。KRGとイラク政府の双方が帰属を主張する油田地帯キルクーク州は、ともに原油輸出を経済の柱とする双方が譲り難く、しかも独立を望まないトルクメン人やアラブ人も居住していて、政府軍が介入する危険性がもっとも高い。バルザニ大統領の非民主的な政治姿勢を批判する野党もある。さらに、クルド人政治家だがシーア派・スンニ派・クルド人三者の国民融和に努め、「イラク政治の安全弁」とよばれて三者からともに信望の厚かったタラバニ前イラク大統領の死去も、この時期には惜しい。

 だが最大の阻害要因は自国政府に加えて、強硬な反対姿勢を示す周辺国である。
 トルコは国境での軍事演習と併せて石油パイプラインの栓を閉めると警告する。クルド地域はトルコを経由するパイプラインによる原油輸出が経済の基盤であり、トルコがパイプを閉じれば経済は行き詰まる。

 トルコが恐れるのは、自国のクルド人への影響である。国民の約2割に及ぶ、最多の約1,500万人のクルド人を抱える同国は、徹底した同化政策を強制してきたが、78年に結成されたクルド人組織「クルディスタン労働者党(PKK)」は84年から武装闘争を開始し、これまでに市民ら4万人以上が犠牲になっている。2013~15年に一旦停戦が実現したが、軍・警察との激しい抗争が再燃している。

 イラクとの合同軍事演習に加えてミサイル配備を進めるイランでは、イラク国境付近に約600万人のクルド人が住み、トルコのPKKの支援を受けて設立された「クルディスタン自由生命党(PJAK)」が分離独立を要求して、国境警備隊と衝突している。

 内戦下のシリアには200万人前後のクルド人がいると推計される。中心的な政治組織は「民主統一党(PYD)」で、アサド政権軍が撤退したトルコ国境に近いシリア北部で支配地区を広げている。一旦はISに侵攻されたがPYDの軍事組織がこれを撃退。ISが首都とするラッカ解放作戦でもPYD軍事組織が中心的な役割を担っている。アサド政権との対立は望まず高度な自治を実現するとして、統治力の弱体化した現状を利用して、北部に「民主連邦」とよぶ自治組織を着々と建設している。

 このように、それぞれ国内にクルド人の自治要求や分離独立要求を抱える周辺諸国は、イラクの運動が自国のクルド人の運動を活性化したり、国境を越えた糾合に繋がることを警戒しているのである。
 その懸念はかならずしも杞憂ではない。事実、住民投票で高揚したイラクのクルド人地域では「グレート・クルディスタン」(大クルド人国家)という言葉が口々に登っている。イラクからの独立のその先に、現在の国境をまたぐクルド人の統一国家樹立を夢見ているのは確かである。
 じつは、イラクのKRGとイランやシリアのクルド人組織に影響力を持つトルコのPKKはライバル関係にあって、クルド人の世界もけっして一枚岩ではないことや、米欧諸国も中東秩序の新たな変更を望まないことなども含めて、グレート・クルディスタン実現の道はけっして容易ではないが、そこまでを悲願とする、クルド人が経てきた苦難の歴史とそれゆえの覚悟を、国際社会は認識しなければならないだろう。

 だが一つ気になることがある。KRG自治区で開かれた独立賛成派の集会で、イスラエル国旗が振られていたということである。KRGのイスラエルの情報機関モサドとの関係を指摘する声もある。
 目的実現のためには手段を選ばぬクルドの民の悲願の深さは理解するとしても、イスラエルとの連携は、中東にあって、悲願の実現に一層の困難を加えるのみならず、その正当性への疑念をも惹き起こすものではないだろうか。

 (元桜美林大学教授)

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