【視座・障害者】

キーワード「障害者」、新しい働き方・生き方への視座

堀 利和


●「障害者」という概念から疑え

 障害者というと、自明のこととして障害者の人を意味する。これはトートロジーである。一般的に、だれもが、障害者を障害化された「人」とはみないからであり、社会が「人」を障害化するとは考えないからである。なぜなら、障害の原因が今なお障害者個人にあるという既成の常識観念に支配されているからである。そこからまず疑ってほしい。
 たしかに、2000年代に入って、国連総会で採択された障害者の権利条約以降は特に「障害」の概念に対して著しい変化をもたらし、後に述べるように、医学モデルから社会モデルへと大きな転換をみせた。しかし、私の見解としては、社会モデルの「社会」が社会「一般」に留まっているといわざるをえない。というのも、社会モデルの社会が「一般」化されることによって、当該社会、すなわち資本主義社会がまったく問われないこととなり、資本主義経済社会への批判には一向に向かわないからである。一見ラディカルな社会モデルも、結局、一般「社会」批判の域をでない。せいぜい社会が提供する「合理的配慮」の保障論に留まってしまう結果となる。
 医学モデルとは、障害の原因をインペアメントに求め、したがって障害の克服・軽減はもっぱら個人に起因し、そのための訓練やリハビリテーションが個人の努力に求められることである。障害の原因を社会にではなく、社会とは切り離された個人の傷害の属性として把握されることとなる。
 これに対して、社会モデルとは社会環境との関係において障害が成立するとしている。いわば社会の側に障害の原因を求めるのである。そのことを障害者基本法にみてみよう。

 (定義)第2条第2項では「社会的障壁  障害がある者にとって日常生活または社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう」とあり、(差別の禁止)第4条第2項では「社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し」として、社会的障壁を除去するためには「合理的配慮」が提供されなければならず、その提供を怠った場合を「差別」と定義付けている。ただしその提供に対しては「その実施に伴う負担が過重でないときは」と条件が課されている。
 以上が法律からみた障害の概念である。医学モデルから社会モデルへの転換は、「社会的障壁」、「合理的配慮」、「差別の禁止」といった重要な概念が示されている。だが、実は、本年4月から施行された障害者差別解消法もまた改正雇用促進法の「差別の禁止」と「合理的配慮」の指針においても、「障害」とは、「差別」とはなにか、どこまでが「社会的障壁」にあたるのか、どこまで「合理的配慮」を提供すべきなのかが必ずしも明確にはなっていない。不確実性は否めない。

 そこで、私は、障害の概念を次のように説明する。
 目が見えない、耳が聞こえない、歩けない、判断がしにくいは、自然界における動物としての行動能力や、知的、精神的判断能力の制約にすぎず、それは自然的、動物的実態に他ならない。制約にすぎないのである。これに対して、人間は社会的動物、社会的存在、「社会―内―存在」であるから、その自然的、動物的制約に対して社会的価値と関係、すなわち自然的実態に対して社会概念がそれを規定する。それが障害である。自然概念に対して一方的に社会概念が規定するのである。
 作家の吉岡忍氏の比喩を借りれば、東日本大震災も、そこに人や家があったから大震災になったのであり、もしそこに人や家がなければそれはただの大津波という自然現象にしかすぎない、というものである。

●資本主義を超え、国家社会主義を超えて

 雇用されない障害者に原因があるのではなく、労働力を商品として売ることができない障害者に原因があるのではなく、搾取すらされないことに原因があるのではなく、健常者の平均的労働能力またはマルクスはこれを社会的平均労働量としているのだが、つまりそれ以下の者を雇わない経済の側にこそ、障害の原因が存する。
 2012年に国連でもとりあげられた社会連帯経済に着目すると、その定義は必ずしも一様ではなく、またその位置づけも同様である。そこで、障害者の、あるいは社会的に排除された階層(ひきこもりやニート、依存症者、刑余者、シングルマザー、路上生活者など)の労働問題を念頭に、社会連帯経済を簡潔に論じてみたい。

 イギリスにおいてはその代表格としてロバート・オーエン、フランスでは大革命の「自由、平等、友愛」の友愛を、博愛から連帯に系統づけた社会学者のデュルケムの『社会分業論』があり、それに先立ち、プルードン、フーリエ、サンシモンらがおり、エンゲルスが「空想的社会主義者」と弾劾した思想家たちの19世紀に、社会的経済、連帯経済が始まる。階級闘争やロシア革命などでそれも一時影をひそめたが、社会連帯経済はソ連型国家社会主義をモデルとせず、互酬性、相互扶助、贈与の連帯経済を標榜する。またその対極においてソ連型の全体主義に反対したハイエク、あるいはその後のフリードマンなどの新自由主義が登場してくるといってよい。
 社会連帯経済は、国民経済における政府・公的部門、民間部門、そして社会連帯経済の三部門の一つであり、これは、ホメイニのイラン革命時に「イラン・イスラーム共和国憲法第44条」の経済財政を根拠づけたバーキルッ=サドルの『イスラーム経済論』の三部門、すなわち政府、民間、共同のそれと類似している。その特徴は、社会連帯経済が単に反資本主義ではなく、オルタナティブな経済として登場してきていることである。

 ちなみに、同じ社会連帯経済を標榜するにしても、それを、政府と民間部門に対する第3セクターとして固定した目的論に立つ立場と、私がそうであるが社会連帯経済を第3セクターとしてではなく(当面はそうであるが)、未来形としては政府及び民間部門をそれによって変革し、いずれ社会を全面的に社会連帯経済に深化させること、その立場を私流に言いかえれば「共生社会・主義」の経済社会ということになる。いずれにしても、それは資本主義も国家社会主義も超えた社会連帯経済であり、共生社会・主義社会なのである。

●アジア障害者国際交流にみる

 以上は、私個人の見解であることを書き添えておく。
 次に、私が代表を務めるNPO法人共同連の社会的事業所についてふれてみたい。
 1984年に発足した共同連は、障害ある人ない人が共に働き、共に生きる、自らの労働能力に応じて働き、純益はそれぞれの生活実態にあわせて分配するという分配金制度(賃金ではない)を原則として、さまざまなビジネス手法で経済活動を行う事業所づくりの運動を進めてきた。共同体思想に基づいた理念を大切にしている。協同組合のシステムはとっていないものの、ワーカーズ・コレクティブや労協のワーカーズコープと同様の理念を有している。
 共同連の共働・社会的事業所は、社会連帯経済の実態経済としての社会的企業、なかでもWISE(ワーク インテグレーション ソーシャル エンタープライズ)の一分野で、しかし福祉制度にある職員・支援者と訓練生・利用者という関係性を否定し、したがってそれをむしろ差別と捉え、共に労働者・同僚という関係での働き方を実現しようとしている。以前は障害ある人ない人で共に働く「共働事業所」であったが、イタリアの社会的協同組合法および韓国の社会的企業育成法に学び、障害者だけでなく社会的に排除された人を30%以上含む「社会的事業所」をめざすこととなった。その制度化を求めているところである。
 1995年から韓国の障碍友問題研究所と連帯交流を続け、6回の日韓社会的企業セミナーを開催し、あるいは、フィリピン、中国、台湾、ベトナムを加えた6ヶ国でアジア国際交流大会を4回開催した。それらを今後どのように発展させるかにつき、先月名古屋で第1回のアジア国際会議を開催した。目的はいうまでもなく、連帯と交流によって、各国の社会的企業をいかに発展させていくかにあった。こうした働き方は、今日のグローバル新自由主意に対抗し、資本主義経済の根本矛盾たる労働力商品化を止揚した働き方ともいえるのではなかろうか。
 その原理のキーワードが、「障害者」で社会を変革する、ということである。

 (元参議院議員・NPO共同連代表・立教大学兼任講師) 


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