【コラム】
フォーカス:インド・南アジア(29)

インドBJP政権のアヨーディヤー寺院起工式

福永 正明

 ナレンドラ・モディー首相は、2020年8月5日(水曜日)に北インドのウッタル・プラデーシュ州東部にある、ヒンドゥー教の最重要聖地の一つであるアヨーディヤー(Ayodhyā)を訪問した。そして、同地で生誕した神とされるラーマを祭る「ラーマ生誕地大寺院(ラーマ・ジャナムブーミー、Ram Janmabhoomi)」建設の定礎式に出席した。これは、1947年8月15日に独立したインドが、「新ヒンドゥー国家」への変身を遂げたことを意味する。

 <一>

 ラーマは、サンスクリット語で書かれ紀元前3世紀頃に成立したとされるインドの大叙事詩『ラーマヤナ』の主人公であり、アヨーディヤーが生誕地(janmasthan) と信じられている。またヒンドゥー教の有力宗派であるヴィシュヌ派では、ヴィシュヌ神の7つのアヴァターラ(化身)の一つがラーマであるとする。
 インド神話においてラーマは、最大の英雄かつ理想的君主像として描かれており、現代インドにおいても民衆に圧倒的な人気がある。

 もちろん、アヨーディヤーは神話と人びとの信仰上の「仮想空間における生誕地」であり、「歴史上の事実」ではなく「伝生誕地」に過ぎない。だが、インド人民党(BJP)のモディー政権を支える支持団体の「民族義勇団(RSS)」は、ヒンドゥー国家主義(ヒンドゥー・ナショナリズム)を主張する立場からアヨーディヤー域内の特定地点でラーマが誕生したことを「歴史上の確定事実」とする。

 <二>

 ガンジス河の支流のガーグラー川はチベット高原を源流とし、その肥沃な流域には紀元前6世紀から紀元前4世紀にコーサラ国が栄え、その初期の首都がアヨーディヤーであった。そしてアヨーディヤー地域は、「アワド(Awadh)」との歴史的名称で呼ばれ、後代まで数多くの王朝が栄えた。

 現代のアヨーディヤーは、コーサラ国の首都として栄えたサケット(Saket)という都市と同じ場所であると考えられている。このサケットは、仏教では「釈尊がしばらく逗留していた地」と知られ、極めて重要である。同地は北インドにおける仏教拠点として繁栄し、5世紀には中国から仏教僧が訪れ、「100以上の修行院が存する」との記録も残されている。
 さらには仏教を保護した紀元前3世紀のマウリヤ朝の第3代の王アショカの命により建立されたストゥーパ(仏塔)も含め、数多くの仏教遺跡が発見されており、アヨーディヤーは仏教も栄えた地であった。

 7世紀前半にハルシャ・ヴァルダナが建国した古代北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ王朝は北インドの広大な支配地を領有、アヨーディヤーに近いカナウジを首都としていた。このヴァルダナ王朝については、中国の玄奘が『大唐西域記』においてインドの人びとを賞賛して詳述している。
 9世紀半ばから10世紀後半にかけて、ガンジス河の上・中流域から北西インド一帯を支配したラージプート族のプラティーハーラ朝は、カナウジを都とした。この王朝の歴代王は、ヒンドゥー教、仏教ともに保護し、文化が栄えることとなった。

 その後は、イスラーマ教徒の諸王朝が侵入して占領し、さらに16世紀になるとデリーを拠点とするムガール帝国の一部となった。大きな変化は、18世紀のイギリスによる東インド会社の支配であった。1857年のインド大反乱では騒乱の地となり、イギリス直接統治に進展した。
 こうして、アヨーディヤー地域は仏教やヒンドゥー教が栄え、さらにイスラーム教が到来して、英領植民地へと変化した。ところが、幾多の宗教的変遷を経たアヨーディヤーは、現代の重大な問題に結び付いている。

 それは、ヒンドゥー教国家主義のRSSなどにより主導された、「このラーマ生誕地には、ヒンドゥー教寺院があった」とする、ヒンドゥー教徒たちによる熱狂的主張である。すなわち言い伝えによれば、アヨーディヤーのラーマ(伝)生誕地には「ヒンドゥー教寺院」が建立されたことがあり、多くの人びとが参拝していた。だがこの古寺院について書かれた文献はほとんどない。歴史、考古学の分野からの研究では、ヒンドゥー教寺院とされる遺構の地下での発見が論じられている。
 現実に存在したかどうか、あるいは、そこが生誕地であるかないかは問わず、とにかく寺院があったのだというのがRSSなどの論である。そして現在では、多くの一般ヒンドゥー教徒もそれこそが「史実」であると考えている。

 歴史的に明確であるのは、1528年にムガル帝国初代皇帝バーブルがラーマ生誕地とされる場所に「バーブリー・マスジット(バーブルのモスク)」を建立したことである。このため同マスジッドは、「生誕地マスジット」としても知られた。
 多くのヒンドゥー教徒たちは、「ラーマ神生誕地に建立されていたヒンドゥー教寺院をバーブルが破壊した」と信じる。つまり、ヒンドゥー教寺院を破壊し、その場に新しいモスクが建立されたというのである。

 以後、この生誕地でのマスジッドをめぐり、あるいは、ヒンドゥー教寺院再建をめぐり、4世紀にも及ぶヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立点として大きな社会政治問題となり、インド司法界の「司法判断」が、生誕地寺院建立と土地帰属をめぐる宗教対立に関して、重要な役割を果たした。

 <三>

 英領支配のインド帝国を、いかなる新国家として独立させるかは、民族独立運動の大きな論点であった。ヒンドゥー教徒を主導したガンディー、ジャワハルラール・ネルーらは「世俗的国家としてのインド」独立を主張した。かれらは、人口の過半を占めるムスリムも含めて、宗教融和の国家としてのインドを構想したのであった。
 これに対してムスリムの独立指導者ジンナーらは、宗教による「分離独立」を強く求めた。そして結果的には、国教をイスラームとするムスリム主体のパキスタンが建国され、ムスリムも含む多くの宗教人口を抱えた「世俗国家インド」が独立した。

 こうした論争のなか、ヒンドゥー教を中心とする国家建設を唱えるさまざまな団体が生まれた。その一つが、M.M.マーラヴィーヤが1913年に設立した政治団体「ヒンドゥー・マハーサバー」であった。このマーラヴィーヤは、北インドにあるヒンドゥー教最大聖地バナーラスにある、バナーラス・ヒンドゥー大学の創始者であった(筆者は、同大学大学院にて博士課程を修了したが、在学中はマーラヴィーヤ師像を仰ぎながら学んでいた)。

 政治団体において、より活発な運動を展開した指導者は、V.D.サーヴァルカルである。サーヴァルカルは、インドをヒンドゥー教により統一するという「ヒンドゥトヴァ(ヒンドゥー性)」との概念を提起した。つまり、インドはヒンドゥー教徒の国家であるべきであり、「ヒンドゥー教国家インド」の建設を強く主張した。
 「ヒンドゥトヴァ」という新たな政治的な用語を用いたが、それは旧英領インドはヒンドゥー教国家として独立するべきであり、パキスタンの分離独立には激しく反対した。

 1925 年、「民族義勇団(ラーシュトリーヤ・スヴァヤムセーワク・サング、RSS)が、K.B.ヘードゲーワールらを中心として設立され、きわめて排他的なヒンドゥー主義を掲げ、「ヒンドゥー教国家主義」によるヒンドゥー教のインドを建設することが大目標となった。

 インドとパキスタンの分離独立に反対する動きは、インド独立直後の1948年に、ヒンドゥー・マハーサバーのメンバーであったとされる青年が、ガンディーを暗殺したことからも明らかである。つまり、ガンディーはムスリムたちに甘く優遇したのであり、言いなりであるとして、批判から暗殺対象となった。
 だがインド独立運動の指導者、その批判者たちが共通して描いていた「新国家像」とは、ラーマ神による統治を理想とする、「ラーマ・ラージヤ」(ラーマ神の王国・統治)であった。ヒンドゥー教をインドの国教と定めることはないが、「ラーマ・ラージヤ」を政治理想としたのである。
 こうしたヒンドゥー教と政治の明確ではない区分は、憲法では「世俗国家」と規定されながら、少数人口のムスリムが優遇されているとの批判を招き、さらに独立直後からのインドとパキスタンとの戦争は、宗教間対立を深めた。

 「中途半端な宗教の社会」であるインドのなか、「ヒンドゥー教国家を建設しよう」との運動が、後代の団体により継続した。すなわち1964年には、RSSと同系でBJPの支持母体となる「世界ヒンドゥー協会」(ヴィシュヴァ・ヒンドゥー・パリシャッド)が設立された。
 RSS系の諸団体は「サング・パリワール」(家族集団)と総称され政治社会面で大きな発言力を有し、日常的にも武闘訓練を行うなど独自の展開を進めた。そして、「サング・パリワール」の政党組織として、1980 年代以降にはBJPが急速に勢力を拡大した。

 ヒンドゥトヴァ(インド性)を基本として、ヒンドゥー民主主義を唱えるのがBJPであり、次第に勢力を拡大した。そして1992年12月、「サング・パリワール」に連なる青年たちがアヨーディヤーの「バーブリー・マスジット」を襲撃、完全に破壊した。それは、「バーブリー・マスジット」がラーマ生誕地のヒンドゥー教寺院の地に建つことは許されないことであり、「ヒンドゥー教徒であるならば、レンガを持ち、アヨーディヤーに集まり寺院を建立しよう!」との呼びかけであった。
 ヒンドゥー教徒たちによるモスク破壊は、世界中のムスリムたちから反発を受け、インド政府も主導的に「新寺院建設」を進めることはできなかった。というよりも、国民に最も支持される政治スローガンは「アヨーディヤーに寺院を建てよう!」であったが、司法、議会などの多くの議論のため事業は進展しなかった。

 2014 年総選挙での圧倒的勝利によるBJPのモディー政権の発足は、寺院建設期待票も多く含んでいた。そしてBJP与党政治家や「サング・パリワール」系活動家たちは、「寺院を建てよう!」を国民統合、いや「インドはヒンドゥー教国だ!」と民衆を鼓舞するスローガンとしてきた。
 8月5日の起工式は、「サング・パリワール」の関係者たちには、感慨深いであろう。一方で、BJPモディー政権がきわめて強圧的に少数派を押さえ込み、パキスタンに代表されるムスリム敵対政策を続けるなかでは注目であった。

 2018年後半から経済が低迷し、新型コロナ感染拡大による社会経済沈滞のなか、モディー首相の「寺院起工」実行は、多くの国民に歓迎された。テレビ生中継は、数億人が視聴したとされ、モディー首相支持率は急上昇した。
 インドの2億人近いイスラーム教徒に不確実な社会をもたらすことは明らかであろう。それは周辺のイスラーム国との関係悪化にも結び付いている。

 次は、インドには存在していない宗教を問わない「統一民法」の制定問題が重要である。すなわち、これまで独立から75年以上も、ムスリムたちはイスラーム法による民法を保障されてきた。多数派ヒンドゥー教徒たちは、ヒンドゥー教国家であるならば、一つの民法による社会が形成されるべきであると主張している。一つの民法が、ヒンドゥー教的要素を強くすることは明らかであろう。

 インドのCOVID-19感染者数は世界第2位に跳ね上がり、「政府無策」との批判も高まっている。その一方で、中国との国境紛争が激化しており、インド国内には嫌中から反中の雰囲気が強い。
 安倍政権が無様に終結し、安倍外交は「金配り」であったことが明らかになっている。安倍首相が押し進めた、インド新幹線も風前の灯火である。インド進出した日系企業も、中国、韓国の追撃、さらにインド経済低迷に苦戦が続く。
 インドを丁寧に観察しながら、情緒ではない冷静な分析を続ける必要があるだろう。

 (大学教員)

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