【コラム】
フォーカス:インド・南アジア(24)

インド外交「ジャイアン」から脱皮できるか

福永 正明


<一>

 インド連邦議会下院総選挙で大勝したインド人民党(BJP)は、5月末に第二次モディー政権が樹立、今後5年間のインド政治を担う。
 BJP総裁として過去5年間、ヒンドゥー主義を強硬に進めたアミット・シャー総裁が治安内務担当の内相に就任した。イスラーム教徒やキリスト教徒への迫害、長年の懸案であるイスラーム教徒が破壊したとされる旧ヒンドゥー教聖地・寺院の復興再建設、政府批判のメディア・ジャーナリストへの厳しい対応、さらに政府施策に同調しない民間団体(NGO)への締め付けなどが予想される。いよいよインドの民主主義は、正念場を迎えることとなる。

<二>

 前号で注目点として指摘したのは、駐中国、駐米大使、外務次官を歴任したジャイシャンカル氏(S. Jaishankar)の外務大臣就任であった。大臣は、核戦略外交を専門として学んだが、その父スブラマニヤム博士(K. Subrahmanyam)はインド核戦略外交立案の中心人物として著名である。大臣もインド外交の金字塔となる、2005年頃からのアメリカとの原子力協力協定の交渉を担当した。連邦議会に議席なき「文民・非議員」として閣僚に就任したが、7月に上院(Rajya Sabha)議員に選出された。

 第一期モディー政権は、外務大臣よりもモディー首相自身の外交が注目されてきた。それは、2014年首相就任式に南アジア周辺諸国首脳を招き「近隣外交重視」として出発、ヨーロッパ外遊からの帰国途中でパキスタンを突然訪問、シャリフ首相(当時)と首脳会談を開催したりした。だが、パキスタンとの関係はカシミール問題から相手国領内への攻撃など悪化、毎年開催となっていた南アジア地域協力連合(SAARC)の首脳会談は、開催不能状態が続いていた。中国との国境紛争はさらに激化し、中国が進める「一帯一路」政策やアジアインフラ投資銀行(AIIB)への対応も不明確な状態であった。なにより対米関係は、貿易対立、インドからの技術者・労働者の移入をめぐり低迷していた。
 そうしたなか、職業外交官出身の実力ある外務大臣の就任は、「新インド外交」の展開となるか注目される。

<三>

 第二次モディー政権による外交活動の最初の舞台は、大阪でのG20サミットとなった。モディー首相、ジャイシャンカル外務大臣が出席、全体会議だけでなくサイドラインでの首脳会談や首脳会議に臨んだ。

 インド外交の歴史的流れを確認しておこう。1947年に英連邦からパキスタンと分離独立したインドは、独立直後にパキスタンとカシミール問題から戦争が勃発した。以後、印パは第3次戦争(あるいは、1999年のカルギル紛争も含めて第4次)が続いた。
 独立直後からジャワハルラル・ネルー初代首相は、国営企業、農産物や生活必需品の補助金支援など社会主義路線を採用し親ソ連路線を歩んだ。まさにインドは、社会主義国として歩みはじめたのである。これに対してパキスタンは、冷戦下のなか親米路線となり、南アジアにおける最もアメリカから信頼される国としてイスラーム国家の建設をはじめた。
 1953年2月、ネルー首相が議会演説において「戦争に反対し、平和維持に努力する諸国によって第三地域」の結成を提唱した。このネルー演説は「非同盟」という概念を提起したのであり、インド外交の基本方針となった。

 「非同盟主義」とは、いかなる種類の軍事同盟や軍事ブロックにも参加することなく、外国軍隊駐留や外国の軍事基地駐留を否定し、紛争拡大の防止、平和と安全の維持と強化に努力する外交上の思想と要約できよう。インド発の「非同盟主義」路線は、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領、インドネシアのスカルノ大統領、ユーゴスラビアのチトー大統領らの共鳴を受け、それが55年、インドネシアでの非同盟中立国会議(バンドン会議)の開催へと発展した。
 しかしインドは、反米親ソの立場にあり、国境紛争を抱える中国と共同路線を進んでおらず、現実とは大きく異なる「理想論」での外交方針であった。

 1956年にチベットへの中国軍による侵入と占拠(いわゆる、「チベット動乱」が発生、ダライ・ラマ14世猊下がインドに亡命すると、印中間では国境紛争問題が重大化し、1962年10月には大規模な軍事衝突となり、中国軍が圧勝した。インド政府・軍内部での、「対中コンプレックス」はここが基点となる。インド亜大陸の北側に大きく広がる中国は、まさに「上からのしかかる」ような存在として理解されてきた。

 中国の強大化に備え、かつ、ソ連からの自立を図り、隣国パキスタンとの圧倒的軍事・外交関係を樹立するため、1974年にインドは第1回の核実験を実施した。これは、「どの国にも核武装の権利はあり、核拡散防止条約(NPT)は不平等条約だ」として、NPT未加盟のインドによる実験強行の暴挙であった。
 この核実験によりインドは国際社会からの厳しい制裁を受けることとなり、貿易額も減少し、経済成長も低迷した。原油生産がないインドは、エネルギー源を中東やロシアに頼り、そのため極めて不安定な状態が継続した。

 一方でインドは、近隣諸国に対しては非常に尊大、かつ、独善的な外交政策を進め、各国には「大きなワガママ国」となっていた。
 インドは地域の超大国あるいは「盟主」としての地位を確保し、さらに「六番目の核保有国として世界大国」へ進むことをめざしてきた。しかし、独立以来近隣諸国との関係は、緊張と対立の連続であった。例えば、パキスタンからの独立をインドが助力したバングラデシュは、独立後の政治や外交へのインドによる影響力行使に懸念を表明していた。このバングラデシュ独立の対パキスタン戦争の際、アメリカ海軍の空母がベンガル湾に入りインドを威圧したことは、インド政府と海軍の大きな脅威であった。
 また、インド南部のタミール・ナドゥー州から移出した労働者たちが多く住むスリランカでは、同国多数派のシンハラ族(仏教徒)との対立が、インド・スリランカ関係にも悪影響を及ぼしていた。

 そして1985年には、バングラデシュ首相の提唱により「インドへの抑制と対抗」を隠れた目的とする、南アジア地域協力連合(SARRC)が樹立され、常設事務局はインドではなくネパール首都のカトマンズに設置された。インドは地域大国でありながら、「周囲に包囲されている意識」を有していたと言えよう。
 既に1972年のニクソン米大統領の訪中は、その準備に協力したのがパキスタンであった。例えば、大統領に先だち訪中したキッシンジャー国務長官(当時)の訪中期間は「パキスタン訪問中に体調不良」と発表され、極秘とされた。
 ソ連の弱体化と印ソ貿易額の縮小もあり、アメリカと中国の接近は、インドの孤立化を一層進めた。例えば、日本の首相・外務大臣のインド訪問はほとんど行われず、親米路線を進めるパキスタン、さらに国交回復した中国との関係が重視された。

 インドに衝撃となったのは、ソ連崩壊、冷戦の終結であった。1990年代のインドは、頼るべき超大国がなくなり、アメリカ、中国との二面対峙もできないまま、国際社会のなかで埋没していた。
 独立以来政権を担当していたネルー・ガンディー家による政権は、汚職事件、世襲批判、地域政党の成長などのため、全国政党の勢いを低下させていた。そうしたなか、1990年代には連邦議会過半数を握る政党がなく、少数連立政権の時代が続いた。

 こうしたなか、強いヒンドゥー教徒国家の建設を唱える団体に支持されたBJPが、1998年に連合政権を樹立した。そして、第2回の核実験を強行した。当時のバジパイ首相は、「核実験は中国を対象としたものである」と明言した。
 そして第2回核実験は、BJPが「地域大国であるインドが、対中けん制政策には有力な役割を果たすことができる」ことを、アメリカに伝えるためであったとされる。そしてアメリカは、「対中政策に活用し、インド洋安全保障に重要な役割を果たすことができるインド」を「発見」した。

 ブッシュ政権は極秘での外交交渉を続け関係改善を行い、2001年9月のイスラーム武装集団による対米多発攻撃、それに続くイラク、アフガニスタン内での米軍を中心とする「有志連合軍」に、インドは全面協力した。第2回核実験のため国際社会からの制裁は、パキスタン支援策としてパキスタンへの制裁解除と同じく、特に議論もなく解除された。、これによりインドは国際社会注目されないまま「西側」入りを果たしたと言えよう。

 だが、アメリカ保守派が唱えるような、インドを対中けん制策として活用する案には、インド国内からの批判も多く、インド政治・外交の立場も中途半端な状態が続き、さらにパキスタンだけでなく近隣諸国とも友好な関係を維持できない状態が続いた。印パ両国政府は、首脳会談での合意が行われながら、国内の「弱腰批判」を避けるため、対外強硬策を採用し対立拡大へと進んでいた。

 2000年代中期以降、インドは巨大市場、IT産業、家電製品、自動車、不動産、サービス業などを中心として高い経済成長率を遂げた。これは国営企業の民営化、外資導入、市場開放などの成果であり、同時に世界からインドが注目されるこことなった。
 特に、この時期より日本との毎年の定期首脳会談が開始され、日印関係は「良好」な状態となった。だが、それは何度も続くブームのような経済中心の状況であり、日本からの投資増大・企業進出、インド人技術者の日本就業が増加し、「インド」がさらに身近な国となっていった。
 この期間、最も進展したのは日印間での安全保障面での協力であった。つまりインド軍と自衛隊との協力、第三国(アメリカ、オーストラリアなど)を含めた共同演習、さらに大型な共同演習などが次々実施された。

 日本国内では「対中けん制策としてのインド重視」が論じられ、第一次安倍内閣では「自由と繁栄の弧」が唱えられ、第二次安倍内閣では「自由で開かれたインド太平洋」政策が提起された。トランプ政権誕生後、アメリカも「「自由で開かれたインド太平洋」構想」を唱え、あたかも安倍内閣の外交方針が採用されたかの報道もある。
 日本国内では、地域大国から世界大国への発展をめざすインドについて、過大とも言える高い評価、さらに「インド重視」が声高に論じられたのが2010年代である。自衛隊はインド各軍との協力関係を強化し、現在では陸上自衛隊がインド国内の陸軍基地での共同演習に参加している。そして、これらの「対中けん制策としてのインド重視論」は、日本では受け入れられてきたと言える。

 だがインドの外交政策関係者や有識者のなかでは、日本が直接的に論じる「中国封じ込めにインドを活用」、「日印共同での対中政策」などには、反発も強い。近年のインドと中国は、強い経済交流関係があり、インドの最大輸入相手国は中国である。実際、ホテルに置かれた石けん、お祭りの花火、祭礼用品、さらには町の小売店での雑貨類などが、「メイド・イン・チャイナ」であることが多い。それだけでなく、インドで最も販売されるスマートフォンは、中国製の iPhone であり、インドの人びとの生活と中国製品は密着しており中国なしでは語ることができない。
 そうしたなか、G20でのモディー首相、ジャイシャンカル外相の動向が注目された。

<四>

 モディー首相は、日、米、中、露首脳との二国間会談をはじめてとして、多くの首脳と会談した。さらに注目されたのは、「米印日首脳会談」と「露中印首脳会談」であった。
 6月29日の朝日新聞は、このような状況についてアメリカ、ロシア・中国の「双方がインドと会談を持ち友好関係をアピール」、「インドを取り込もうとしている」と論じた。そして記事のタイトルは、「インド、したたか外交 安保上の脅威、中国に対抗 保護主義批判、米国を牽制」であった。つまりインド外交について、「高評価」での「したたか外交」となったのであろう。
 果たして的確な表現としては、インド外交の高い評価となるのであろうか。むしろ、「独自の外交策を打ち出せないインドは、両陣営に顔だし」し、「そつなく、主敵を作らない」ように行動しただけであろう。もちろん、隣接核武装国パキスタンはG20にも招かれておらず、かつての「南アジアは印パ関係」として両国を平等に扱う外交史から発展し、南アジアの中核はインドとなったことは明らかである。

 しかしインドが、自ら地域大国として近隣諸国、あるいは、他の発展途上国の意見を代弁したり、環境問題や核軍縮についてリードする発言などは皆無である。何とも無様に「大国には関係強化で近寄る」という姿勢が透けて見えてくる。
 例えば、アメリカとは貿易問題が再燃しそうであり、武器や原発輸入への対印圧力は強い。中国は巨大市場としてお互いに無視することもできず、ロシアは歴史的友好国であり二国間での特別の課題は少ない。
 すると、朝日新聞がインドについて、「国益を最大化するために分野によって連携する相手を使い分ける必要があると認識している」というのは誤解が多い。インドは、使い分ける必要というよりも、むしろ「相手にされない心配」を抱えている。近隣には大きな声で騒ぎ、より大きな国には静かにおびえる。そんな姿は、まさにドラえもんの「ジャイアン」であろう。

 ジャイシャンカル外相が、BJP支持基盤となるヒンドゥー教中心主義団体に受け入れられるような対パキスタン政策を立案し、軟弱外交批判を避け、緊張関係に変化を生むことができるか注目である。さらに近隣諸国との融合策、そして米、中、露という核保有超大国といかなる関係を樹立できるかがカギとなる。
 国連安全保障理事会の来期のアジア選出の非常任理事国に立候補し、近隣諸国からの支持を集めている。安保理を舞台として、まずは地域大国として振る舞い、世界大国の仲間入りをめざす活動ができるかは、新外相の手腕による。

 なお朝日新聞記事は、「トランプ政権の政策が変わらないかぎり、米印関係は危うい状況が続くだろう。インドにとって中ロの重要性が高まることになる」との識者コメントで結ばれ、何とも意味不明な内容である。トランプ大統領は世界のどの国にも自国中心政策を貫いており、この論からするとインドだけでなく世界のすべての国が「対米危うい状況」となろう。
 新外相がインド外交の独自性を打ち出すことができるのか、それとも「大国すり寄り」で終わるのか、それは日本外交の将来像とも結び付いており重要である。

 (大学教員)

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