【コラム】フォーカス:インド・南アジア(38)

インドのモディー政権をいかに評価するか?

~民主主義こそ判断基準のはず~
福永 正明

<1> モディー首相出身のグジャラート州議会選挙でインド人民党(BJP)勝利
 12月8日、インド西部のグジャラート州における第15回州議会(State Assembly)選挙の開票結果が発表された。モディー首相(72歳)が率いるインド人民党(Bhartiya Janta Party, BJP)は、全185議席のうち156議席を獲得、地滑り的に圧勝した。
 グジャラート州はBJPが、1995年から州政権を担う拠点州の一つであったが、2017年州議会選挙では99議席に大敗北したが挽回した。すなわち今回の選挙では、過去最大の獲得議席新記録となり、7期連続の勝利としてBJPが州政権を担当する。
 特にモディー首相が、2014年中央政府首相に就任するまで州首相を務めた「地元州」でのBJP大勝利について、インド・メディアは、「モディー人気の勝利」と表する。それは現インド政界において、モディー首相が圧倒的な優越地位を獲得していることを意味する。さらに国民の関心は、2年後(2024年)に5年任期満了となる連邦議会下院総選挙であり、「BJP勝利の後、果たしてモディーは首相3期目に就任するのか?」に集中する。
 今回のグジャラート州議会選挙は、2024年総選挙前、モディー首相、BJPの国民支持を測るバロメーターと考えられていたことから、BJP勝利の意義は大きい。

<2> ヒマーチャル・プラデーシュ州でのBJP敗北
 インド西北のヒマラヤ山岳地域にあるヒマーチャル・プラデーシュ州議会選挙も、グジャラート州議会選挙と同時期に行われた。同州では、1985年以来どの政党も再選を果たしたことがなく、2017年州議会選挙で勝利し州政権を握るBJPが再選を目指していた。
 今回の州議会選挙において、BJPは総議席68のうち25議席(前回は44議席)、国政における野党第一党のインド国民会議派(会議派)が40議席(前回21議席)を獲得し大逆転となった(その他、無所属3議席)。まさにBJPが19議席の敗北、会議派が19議席増であり、州政権を取り戻した。
 歴史的にインドの選挙では、「現政権および現職候補への批判、反発票が強まる」傾向を特徴とし、現職候補や与党への逆風が強い。まさにヒマーチャル・プラデーシュ州のBJP州政権には、この傾向が的中した選挙結果であった。
 「インド独自の政治傾向」に対してモディー首相は、頻繁にヒマーチャル・プラデーシュ州を訪れ、20回ほどの集会を行うなど、強力なテコ入れを行っていた。さらに野党・反体制派の国会議員や州議会議員の取り込みを図り、無所属議員のBJP入り勧誘も続けた。その成果のためか、投票前実施の9メディアによる事前調査では、7メディアがBJP勝利あるいは優勢と伝えた。しかしBJPは大敗北を喫した。これは、来る2024年総選挙におけるモディー首相やBJPの弱点となる可能性が大きい、「現政権批判」の示唆と言えよう。

<3> 2州議会選挙の総括
 以上の2州の州議会選挙から、3つ指摘したい。

1)モディー首相の政治力、国民的人気は、依然として強大である。しかしながら、メディアや政治コメンテーター、特に日本のインド外交問題論者が手放しで「満点の高評価」を与えるほどのこともなく、脆弱性も指摘できる。
 首相は、両州議会選挙を「自らの選挙」のごとく、積極的に関与して選挙戦を戦った。地盤グジャラート州においても1日だけで50キロを5時間かけて車で移動し、選挙遊説を展開した。これは、モディー首相が「自分への支持・人気」の強さは自覚しつつも、BJP政権への批判を危機的に認識しているとも言える。

2)会議派は、1947年以来一貫して中央政府で政治権力を誇示してきたネルー・ガンディー家は信任を失い没落、党中央役職から離れ指導力を失った。2022年に行われた党総裁選挙には、ネルー・ガンディー家からの立候補はなく、南部カルナータカ州出身の国会議員マリカルジュン・カルゲ総裁が誕生した。
 一方で下院総選挙での大敗北を理由に総裁辞任した、ラフール・ガンディー氏(インディラ・ガンディー元首相の孫、ラジーブ・ガンディー元首相の長男)は、全国を旅しながら「BJPの進めるヒンドゥー主義政策が、インドには有害である」と主張し、奇抜なスタイルでの国民との交流、突飛な発言によりメディアの注目を集めていたが「政治的信頼性」はない。
 こうしたなかモディー首相のBJP政権は、COVID-19(新型コロナ感染症)の対応失敗による感染拡大、膨大な犠牲者の発生、失業率抑制失敗、インフレ高騰、経済政策の失敗、BJPと新興財閥政商との癒着など、つまずきが続いていた。
 巨大国家を10年近く導いてきたモディー首相への支持は続くが、しかしBJPへの批判も強まっており、それがヒマーチャル・プラデーシュ州議会選挙の結果となったと考えるべきであろう。
 なお、今回のヒマーチャル・プラデーシュ州での会議派の勝利は、決して会議派の復活を意味するものではない。しかし、2014年総選挙大敗以来の会議派「じり貧」状態から抜け出せる状況でもなく、わずかな光が差し始めた程度しかない。

3)BJPと会議派による従来型政治を批判して登場した、デリー首都圏を中心とする地域政党アーム・アードミー党(Aam Aadmi Party、AAP、庶民党とも呼ばれる)は、全国政党への道を進むことができなかった。AAPは、デリー首都圏議会選挙で連勝し、マグサイ賞受賞者で党創設者のケジリワル総裁が首都圏首相の職を維持しており、汚職追放、情報公開、脱中央集権などの政策を、中央政権の足元で進める。AAPは、デリー首都圏以外では、パンジャーブ州で勢力を維持するだけあり、全国政党への道は厳しい。ところが、グジャラート州議会選挙で推定15%の得票率を獲得しており、インド政治での「第三の道」を提示していることは確かである。

 BJPは現在、インドの28州のうち18州において州政治を支配しており、依然としてインド内政において極めて強力な勢力を有しており、支配的である。すなわちBJPは、全国で直面するさまざまな課題について、明確な解決策、あるいは、国民融和策を示さないままに「強い力」だけの政治を押し進める。
 BJPへの国民の支持による選挙勝利は、投票による民主主義的勝利ではあるが、「競争的権威主義」・「選挙権威主義」・「多数派主義」政治の突進と指摘できるのではないだろうか。選挙の結果だけをもってして、BJPの政権とその政策を、「高く評価」することの危険性はないか。
 さらに、投票で支持されている政権であったとしても、内政においていかなる政策が実行されているのか、これはその「民主主義の質」を検討する重要な要点となる。独裁者や独裁政権が投票での圧倒的支持により偏狭な政策を進め、人びとの生活や平和を破壊してきたことは、歴史が示している。
 すると、投票結果だけを見て「良き内政」と判断し、その外交政策を国外から「良き政策」と判断することも危険ではないのか。人びとの暮らしにより成り立つ社会、そして国家であり、その国家の外交政策を考える際、「人びと」の視点が抜けている評論や評価は欠陥が多いとも言えよう。

 例えば、2022年7月に安倍晋三元総理が統一教会信者2世の男性容疑者に銃撃死亡した際、国外からは「安倍元総理の外交策」への評価が高く論じられた。そこには、統一協会問題、容疑者の私憤による犯行、「アベ的なる腐敗と権力悪用の政治」の実態について、国外から評価や言及は少なかった。だが、安倍内政は一体何であったか?「政治権力の私物化、お友達政治、対米追従、増税とデタラメなアベノミックスへの固執」など、内政は完全破綻していた。そうした内政、つまり、安倍元総理の足元での政治姿勢を理解してから、その外交を語るべきであることは明らかである。内政と外交を体裁良く区分し、「海外から見た安倍政治の立派さ」だけを強調することが、既に破綻したことは多くの国民が理解していた。
 インドでも、同じ指摘できる。インド外交、あるいは、モディー政権外交を語るならば、その基盤となる「BJP内政」をいかに評価するのかが、問題となる。
 その評価として、「民主主義」を取り上げるならば、国政や地方選挙では重ねて勝利しているが(安倍元総理と同じく)、民主主義が後退、衰退した現状のインドをどのように考えるかが重要であろう。

<4> インドから民主主義の脱落
 2014年の政権樹立後、BJPは着実にその支持基盤である「ヒンドゥー主義勢力」に従う政策を強権的に実行した。その結果、インドの政治社会は、民主主義から脱落したのである。
 BJPとその支持団体「民族義勇団(RSS)」が進めるヒンドゥー主義が最終的にめざすのは、「新たなるインド建国」である。それは、1947年にイギリスから分離独立したインドが憲法において定めた「セキュラリズム(政教分離主義、secularism)」がインドを弱体化させ、総人口の7割以上を占めるヒンドゥー教徒たちに「我慢」と「窮屈な社会」を強いてきたとする。
 当然のこととして、独立から新独立国家インドの社会形成のため尽力した指導者たち、独立運動指導者ガンディー、初代首相ネルーらは、「正当な評価がなされておらず、過去の偉人ではあるが、現代政治には不適当」との認識する。それは、独立後インド政治の中核を担った会議派、特にガンディー・ネルー家の堕落と実力不足がインドを衰退させた原因と説明するのである。
 BJPが政権獲得後に進める政策は、こうしたセキュラリズムの排除であり、多数派主義の政治、ヒンドゥー主義の強行である。私たちは、現代インドがポスト・セキュラリズムの時代となり、民主主義の枠外へ積極的に走り抜けていることを理解しなければならない。
 それは、「インドの社会は、ヒンドゥー教徒を中核として運営されるべきであり、強いヒンドゥー主義指導のもとでの社会建設が進められなければならない」との考えである。ヒンドゥー主義に反する、あるいは、それにあたかも対抗するような、少数宗教集団の異教徒、メディア、市民社会、野党勢力などは、規制や弾圧の対象でしかない。
 すなわち、社会の多様性とは、ヒンドゥー主義のなかでのヒンドゥー教徒優先社会で許される範囲での多様さであり、決してヒンドゥー教の存在を損ない、侮辱し、最高位宗教であることを批判するような多様性など容認されることはない。
 一般的な民主主義からインドが脱落とは、つまり「差別策」を是とし、「ヒンドゥー教徒以外をあたかも下等人間であるかのように扱い」、「暴力と弾圧により言論、メディアを封殺し、批判を認めない」ことである。
 さらに述べるならば、「宗教的アイデンティティーを国民区分の基礎とし、物事の判断基準」とすることであり、それは「異なる存在・異なる者」への不寛容性の増大である。
 インド社会は、投票により議員が決定し議会制内閣が国政を主導するが、その実態は「不寛容な差別的ヒンドゥー主義社会」である。これはもう、すでに民主主義からの脱落でしかない。
 ヒンドゥー教上位集団(特に、男性たち)によるインド社会の支配強化をめざすヒンドゥー主義は、不寛容な政策により少数者(すなわち、ヒンドゥー教以外の少数宗教集団、女性、後進社会集団、最下位社会集団、「部族」集団)などへの意図的な差別と選別を続ける。
 意図的な差別と選別とは、イスラーム教徒(ムスリム)への攻撃と抑圧、下層社会集団には「調和」とか「共存」などの表現が用いられる。だが決して同等なる立場、人間の基本的人権としての平等を基盤とせず、あくまでも「上から目線」での抑圧であり、選別である。特に下層集団に対しては、その投票を目的とした懐柔策が打ち出されており、「投票支持層」であるならばの「調和」でしかない。
 RSSは、インドにおけるヒンドゥー主義確立のために長年にわたり活動を続けてきた民間武装組織も含む巨大組織である。BJPは、RSSの指導による政治部門である。つまり、2014年以来継続するモディー政権のヒンドゥー主義政策、不寛容な差別政策、少数宗教集団への攻撃は、RSSの指導での長期計画に基づいている。
 政治的には、国外敵やイスラーム教と対抗する意識を使い、陰謀論を用いて、「危機」をあおりながら、「危機」に対抗する強力なRSS-BJP政権の継続に全力で突進を続けたのである。
 最近、BJP中央政治家たちは、「ムスリム人口爆発の危機」というヘイト発言を繰り返して、危機を煽っている。それはクルアーン(コーラン)には、「4人まで妻を持つことができる」と書かれているとし、ムスリム居住区を「インドを破壊する人口増加の場」と攻撃を続ける。最も特徴的であるのは、2019年8月15日の独立記念日のモディー首相の記念演説におぃて、「小さな家族こそが愛国心の一つである」として、ムスリム誹謗を示すヘイト発言である。
 既に指摘した通り、ヒンドゥー主義による「新たなる建国」とは、ガンディーやネルーが融和的(軟弱に)作り上げたインドではなく、ヒンドゥー教による社会文化を中核とするインド国家の建設であり、そのためには国民の「アイデンティティーに関わる意識改革」、「社会変革」、「文化基盤の改造」、が必須とされる。
 そのために、メディア戦略、SNS活用、新興財閥との協力での資金調達、華々しい選挙運動などを駆使して、投票獲得を図り、「多数派主義としてのヒンドゥー主義」の確立が進められている。
 モディー首相個人崇拝にも近いプロパガンダの「最高の政治指導者としてのイメージ」作り、あらゆる場面でのヒンドゥー教儀礼や色彩(サフラン色)の重要視などが全国で展開された。
 選挙では勝利している、しかし、その裏にはこれらヘイトとプロパガンダによる「偽の信頼と支持」があることを忘れてはならない。それでも「選挙での勝利」については、さらに説明が必要であろう。新興財閥による官民一体の巨大利益獲得は経済格差と不平等を拡大させ、初等教育段階で人生の勝敗が決まり、農村部が空っぽになりつつ農業工場からの農作物供給が行われ、都市居住者たちは「自らのある程度の生活について、下を見ながら満足感を味わう」。そして、さらなる成功、成長のためには、「社会改革」と「文化基盤の改造」が国家安定のため必要と考えるようになる。それをメディアを通じてBJPがあおり、人びとの危機感を利用して、「BJPの勝利による強いインド」社会の実現を信じている。

 いくつか具体的な例を示しておこう。
1)過去数年来、ヒンドゥー主義者たちが主導したムスリム居住区への攻撃、襲撃が続く。例えば、首都デリーのムスリム居住区での住民によるイスラーム教に不利益を与える「市民法」への抗議集会に対して、不良若者たちが主導した集団焼き打ち襲撃事件では、警察部隊の容認に近い放任も認められた。この襲撃事件では、50人以上が死亡し多数が負傷した。こうした物理的な直接攻撃、襲撃事件も頻発しており、対象はムスリムだけでなく、女性への攻撃も続く。

2)2020年8月、ラーム神の生誕地とされる場所にかつて存在していたとされるヒンドゥー寺院(ムスリムが破壊したとされる)の再建起工式が、ウッタル・プラデーシュ州アヨッディヤーで行われた。この寺院再建に関しては、1980年代にRSSが「古代に存在したとされるラーマ神生誕寺院」を破壊、その場所に建立したとするモスクの破壊事件で一挙に有名となった。RSSにとってアヨッディヤーでの寺院再建運動は、ヒンドゥー主義の全国展開の礎となった。数多くの司法判断、また考古学や歴史学的な批判検討がありながら、ヒンドゥー教主義による寺院起工式が行われた。モディー首相の寺院起工式出席は、多数派主義としてのヒンドゥー主義が全面展開した到達点を示している。モスク跡地にヒンドゥー教新寺院の建設は、「新しい建国」運動が新段階に入ったことを示している。

 以上、インド社会における人間の基本的人権、さらにその生活や静かな暮らしは、危機的な状況にある。宗教の別により、基本的人権は踏みにじられ、少数者たちの生命や存在は軽んじられている。
 「選挙で勝利したから強い政権」であり、「良い政権」というごくごく表面しか見ないことが、極めて危険であることは明らかであろう。
 私たちは、インド社会、インドの民主主義がいま危機的状況にあることを認識しなければならない。

<5> まとめ
 モディー首相の支持と人気が「高い」ことは事実である。しかし、安倍元総理の選挙結果と内政の実態、さらに外交政策で論じたように、客観的に鋭く批判的に見ることこそが「海外からインドを観察し、論じる」意味ではないか。
 11月中旬、あるシンポジウムにて若手のインド外交専門家の発表を聞く機会があった。それは、おぞましい程にモディー政権を讃美し、その外交政策だけを高評価する内容であった。
 外交政策の現実は外交官が進め、あるいは、政治家たちが首脳会談や国際会議で、意見を表明して明らかとなる。しかし、国政は内政と外交と共に考えるべきであり、その中核は「民」である。
 内政で何をしていても、外交策が良ければ、あるいは、日本に適合する外交政策であれば、手放しで評価して良いのか。外交を語るとは、その国の実態を語ることであり、その国を語るならば、その国の人びとの生活、幸せ、苦難、将来にも考えを向ける必要があるだろう。
 対中けん制策となる米日印豪(クアッド)を語る際、あるいは、インド太平洋戦略を論じる時、「日本とインドは共通の価値観を有する」が決まり文句である。その「共通の価値観」とは、何か。一定年齢以上の誰もが投票権を有し、投票により決する議会での国政運営という点だけで、「民主主義の国」などと言えるのか。
 投票する民たち、その民たちを動かすさまざまな「力」や「社会状況」を見通すことが必要であろう。
 民主主義を語るならば、基本的人権が基礎となり、「言いにくいことでも、相手に正確にその間違えを指摘し、人類の生存の発展に寄与」することが重要であろう。
 インド内政の民主主義からの脱落を完全に見逃し、モディー政権の外交や外交官を称賛だけに走ることは、あるべき学問からの失墜でもある。インドの人びとの基本的人権を守ることが、私たちの基本的人権を守ることにつながるという意識が、地域研究、国際関係や外交研究に従事する基本姿勢ではないのか。
 最も人気あるモディー首相に対して、私たち日本からどのような発信を続けるのかは、日印友好促進の重要なカギとなる。相手国を手放しで褒めることは、決して両国関係の人間を大切とした関係とはならない。

福永正明(ふくなが まさあき、大学教員)

(2022.12.20)
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