■【横丁茶話】

アランの『定義集』(続)―進化と進歩           西村 徹

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●EVOLUTION:「進化」についてアランはこのように定義している。
【緩慢で、知覚されず、いささかの予見も意欲もされない変化。それは逆に言え
ば、外の情況に対する意志の完全な敗北である。病気、疲労、年齢、職業、社会
的環境、暗示などの作用の結果は、そのようなものである。進化はそれ故に進歩
の反対である。】

 「進化」よりむしろ「退化」の定義に見合うような事例が列挙されている。な
るほど創世記5章を見ると、アダムとエバの3男セツはアダムが130歳のとき
に生まれている。アダム自身が死んだのは930歳、メトセラは969歳で死ん
でいる。ノアは500歳にしてセム、ハム、ヤペテの父親となり950歳で死ん
だ。今の人間寿命はせいぜい100歳前後だから、ずいぶん退化したことになる。
確かに「進化は進歩の反対である」。
 
 人間は神がアダムとイブを創って7,520年。人類史750万年、ホモサピ
エンス以後としても20万年の過程でユダヤ人アダムという新種が誕生して僅か
に7,520年では短すぎて無理もないが、以来生物としてこれといえるほどの
進化はみとめられない。それどころか退化しているとさえいえる。高齢化社会が
聞いてあきれる。
 
 ところが近ごろわが国では、当然「進歩」というべきとき、しきりに「進化」
の語が用いられる。「進歩」より「進化」のほうが高速で、それゆえ上等である
かのように差別化する感じで用いられる。事実は逆でアランの言うとおり「進化」
は生物一般についてのほとんど動きのない、あっても目に見えない緩慢な動きで
ある。それに対して「進歩」は人間がつくり出す世界にのみ固有で「進化」より
はるかに加速度的である。
 
 一例を挙げると2012年8月5日現在、放送大学の講義「コンピュータのし
くみ」の最終回冒頭で講師の岡部洋一学長は「コンピュータはどんどんどんどん
進化してきました」と述べておられる。コンピュータという人間の創った無生物
は進化するわけがなく人間の智慧によって進歩するだけである。あるいは「進化」
でなく「深化」と言ったのかもしれない。関西では両者のアクセント位置が反転
するが、関東標準では同じなので紛らわしい。「進化」と言ったとして話を進め
る。
 
 これまでの進歩とは速度が桁外れに速く、まるで機械が、とりわけコンピュー
タが、人間の手を離れて日進月歩どころか秒進分歩するかのようなので、進歩と
いう言葉では追いつかなくなって、そして直ぐには適当な言葉が見つからなくて、
錯覚して正反対の、実は超低速の「進化」という語を選んでしまったのであろう。
自慢と同義だった我慢が逆の意味になったり、敬称だった「お前」も「貴様」も
敬称ではなくなったりで、流行だから致し方ないことではある。本の広告に「進
化する火力発電」というのもあった。
 


●「進化」は「変節」か?

 冒頭に戻って EVOLUTION の森有正訳:みすず版は「進化」である。ところが
岩波版では見出し語からして「変節」となっている。「進化」が「変節」だとす
るとコンピュータや火力発電が変節するのだろうか。新聞広告に「進化するフジ
コ・ヘミング」とあったが、フジコ・ヘミングはどのように変節するのだろうか。
いったい何が起こったのか。見出し語以外の訳はみすず版と岩波版とはほとんど
変わらない。ただ最後の一節に来て、なぜ「変節」に変質したか。短いものだか
ら、岩波版全文を以下に掲げる。
 
 【緩やかな変化、知覚されない、まったく予見も意欲もされない変化である。
それは逆に、外的状況に対する意志の敗北をみとめることである。たとえば、病
気の力、疲労、年齢、メチエ、社会環境、示唆の力。したがって、変節は進歩の
反対である。】
 
 みすず版が「進化は進歩の反対である」というところで岩波版は「変節は進歩
の反対である」というのだ。「外的状況に対する意志の敗北」だから「変節」だ
というのだろう。しかし「敗北」を「変節」は飛躍しすぎであろう。そんな消極
的「変節」もあるにはあるが、もっとその名に相応しい狡猾な権謀術数「変節」
もある。政治家には多い。それなしに総理になるのは容易でない。昨今の政界は
変節万華鏡である。
 
 「緩やかな変化、知覚されない、まったく予見も意欲もされない変化」が「変
節」というほどに意識的主体的利己的なものだと言えばアランの定義からはみで
る。本来「意志」にかかわらない「進化」を、もっぱら人間の意志による「進歩」
と対比するために逆説的に「意志の敗北」とカッコよくきめたところがミソで、
まさにアランのアランたるところ。「進化」は「進化」でないと様にならない。
アランでなくなってしまう。
 
 私が反射的に「退化」を想ったように、訳者も一読者として「変節」を思いつ
く自由はある。しかし翻訳者は一読者としての主観的な反応あるいは解釈を、ひ
とり合点で翻訳文中に投げ込む自由はない。思い入れの外在化は、正誤にかかわ
らず翻訳者の不当介入として禁欲すべきことである。
 
 これは自戒に基づいてのことである。かつて私はケニヤの作家グギ・ワ・ジオ
ンゴの講演通訳をしたことがある。グギは講演中、日本国平和憲法の枠組をはみ
出るような戦闘的発言があり、思わず私はその発言と日本国憲法のあいだを取り
つくろうような注釈を入れてしまい、あらずもがなの護教的介入をアフリカの大
学で教えた経験を持つ同僚から批判された。
 


●PROGRES:「進歩」についてアランはこのように定義している。

【緩慢で永い間気付かれず、それでいて外部の力に対する意志の勝利を確立する
変化。あらゆる進歩は自由に発するものである。私は自分が[自由に]意志する
こと、例えば早起きをしたり、楽譜をよんだり、礼儀正しくしたり、怒りを抑え
たり、人を羨ましがらなくなったり、はっきりと話をしたり、読みやすいように
書いたりすることなどを、するようになる。人々は合意して、平和を実現し、不
正義や貧困を減少させ、全ての子供達を教育し、病人を看護するようになる。】

 ここでも「緩慢で永い間気付かれず」と、「進化」の場合と同じことを言って
いるが、彼が見た1951年までの60年とその後の60年を比較すればアラン
の見た「進歩」は「進化」なみに緩慢であったにちがいない。しかしその後は
「進歩」は「自由」な「意志の勝利」であるとして「進化」と正反対であること
を打ち出している。
 
 第1段落はみすず版も岩波版も、どちらもさほど変わらないが、第2段落では
ふたたび「進化」の定義を繰り返している。ここで岩波版は、先に EVOLUTION
を「変節」としてしまったのが祟って、たいそう面倒な細工が必要になっている。
そのために、ますます何がなんだか解らないことになってしまった。こんな風だ。

【反対に、変節[進化]と呼んでいるのは、われわれを知らず知らずのうちに立
派な計画から遠ざけることによって、われわれを多少とも非人間的な力に服従さ
せる変化である。「わたしは進化[変節]した」という人は、時として、叡知に
おいて前進したことを理解させようとするが、それはできないのだ。言語がその
ことを許さない。】

 《変節[進化]》となったり《進化[変節]》となったり、おなじ一つの単語
なのに、勝手に「変節」を優先させたり「進化」を優先させたり、これでは最後
の「言語がそのことを許さない」がさっぱり解らなくなる。アランは《変節[進
化]》とも《進化[変節]》とも言ってはいない。「進化」としか言っていない。
それどころか「進化」をはっきり「進歩」と対立するものとして定義した。だか
ら「言語がそのことを許さない」のである。
 
 もし「進歩」こそが戦争を誘発し、大量破壊兵器を生み、放射能を撒き散らし、
生態系を破壊し、地球環境そのものを破局的に破壊してきたという認識を訳者が
持っていたとする。そのとき《進歩[破壊]》とか《破壊[進歩]》などとして
いいことになるだろうか。それはアラン批判になってしまってアランの翻訳では
なくなる。
 
 翻訳者は価値中立的であらねばならない。それでも、なおかつ翻訳者はまった
く黒子というわけにいかない。楽曲に対する演奏家のような立場もあって自分を
消し去ることはできない。翻訳はなんらかの程度に「裏切り」であることをまぬ
がれない。知らず知らずのうちに訳者の思想が紛れ込む。そして人は誤る。それ
にしても「進化」が「変節」は理解を超える。
 
 ダーウィンが『種の起源』巻末で EVOLUTION を1度だけ用いたとき「進歩」
の意味を含ませなかった。ダーウィンは descent with modification「変異を伴
う継承」という表現を好んだ。それは「進歩」の概念が入り込むのを嫌ったから
だともいう。Descent は上から下に降りることだから「退化」を含意して不思議
はない。ニュージーランドの飛べない鳥は、蛇などの捕食動物がいなかったから
退化した。
 
 以上のように私は思うのだが、過不足ないと思われる森有正訳を否定して、
「変節」というお門違いの言葉を持ち込んで複雑怪奇な新訳をあえてした岩波版
訳者にも、それはそれなりの、よほど深い理由があるのかもしれない。しかし、
この人の思考回路はさっぱりわからない。
 
 (付記)ひょっとして大間違いをしているのはフランス語門外の私なのかも。
それとも岩波版が用いた新しい完全版 le fichier ALAIN は森有正が用いた版と
はちがうからだろうか。いずれにしても、この両項目、岩波版を読んで解る人は
いるだろうか? それとも私が見ているのは2003年8月19日第一刷。9年
を経た今日では改訂版が販売されているのだろうか? (2012/10/02)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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