【コラム】

アフガンで凶弾に斃れた中村哲医師の開発哲学

荒木 重雄

 昨年12月初め、30年以上に亙ってアフガニスタンで人道支援に携わってきた中村哲医師が突然の銃弾に斃れて、1月半が経つ。
 その間、襲撃犯や犯行動機について政府や州当局から幾つかの情報がもたらされているが、同国最大の武装勢力タリバーン、「イスラム国(IS)」の支部組織、アフガン政府軍が三つ巴で戦う不安定地という状況からすれば、それらを真相と断じるには疑念が残る。
 ただ、タリバーンやISは、外国の支援に頼る政府に打撃を与える狙いから、国際NGOや外国企業を標的にしてきた。その一環であるのは確かだろう。しかも、皮肉なことに、また不謹慎な言い方になるが、中村医師の意思ではほんらい政治とは無縁な活動が、政府側から一方的に持ち上げられ、ガニ大統領から勲章や名誉市民の称号が授与されたことが、外国支援の象徴と目され、標的とされる不幸を招いたのではないだろうか。

 アフガニスタンにこのような混迷をもたらした背景に眼を向けてみよう。

◆◆ 「文明の十字路」ゆえの苦境

 19世紀以来、「グレート・ゲーム」とよばれたロシアと英国の勢力圏争いや、東西冷戦で揺れたこの地は、1973年、共和制に移行すると、親ソ的な社会主義路線を採った。これには隣国パキスタン(背後に米国)への対抗の側面があったが、79年、西隣のイランでイスラム革命が起こると、その波及を恐れたソ連が軍を進めた。
 ソ連軍が侵攻すると、各地の豪族がムジャヒディン(イスラム聖戦士)として抵抗を開始し、米国、サウジアラビア、パキスタンなどが資金・武器援助や軍事指導でこれを支え、中東や北アフリカからの義勇兵も加わって、89年、ついにソ連軍を撤退に追い込んだ。     

 ところが、その後のアフガニスタンでは、軍閥と化したムジャヒディン各派が覇権を争って戦闘を繰り広げ、混乱を極めた。このような中で、隣国パキスタンに避難してイスラム神学校で学んでいたアフガニスタンの若者の一部が、内戦の終結と秩序の回復をめざして立ち上がった。それが、アラビア語で「神学生」を意味するタリバーンである。
 94年にはじまるタリバーン運動は、住民の支持とアフガニスタンに自国寄りの政権樹立を目論むパキスタンの援助を得て、2年後には首都カブールを制圧して政権を樹立し、原理主義的なイスラム化政策を敷くが、2001年、米国同時多発テロを実行した国際テロ組織「アルカイダ」をかくまっているとして米英両国による軍事攻撃を受け、あっけなく崩壊した。

 ところが、タリバーンは態勢を立て直し、05年頃からゲリラ活動を再開。劣勢に回った政府軍を駐留米軍が後方支援してきたが、いっこうに改善せぬ民衆の生活や、汚職の蔓延、米軍の作戦に巻き込まれて犠牲となる民間人が急増したことなどから反米感情が拡大。さらに、ここに、15年頃から活動を開始したISの分派を名乗る地元組織や、17年頃からシリアやイラクの「領土」を失って移動してきたIS勢力も加わって、これまでで最悪といわれる治安状況が現出したのである。
 因みに、1日に起きる戦闘やテロは70件前後もあり、昨年1年間の民間人の死者数は3,000人を超える。

◆◆ 宗教施設あってこそ人の暮らし

 中村医師の人道支援活動は、このような背景と絡まりながらすすめられた。若い同志の伊藤和也氏がタリバーンを名乗る武装集団に殺害されたことも、灌漑工事の現場を米軍の攻撃ヘリに機銃掃射されたこともあった。

 もともとは珍しい高山蝶に魅せられてということだが、中村医師は、かつて山岳遠征隊と同行したパキスタンで1984年から医療活動を開始し、ハンセン病の治療に当たる。やがてアフガン難民の診療にも携わるようになり、91年にはアフガニスタンに拠点を移した。
 ところが、2000年に大旱魃に襲われ、戦火も重なって、清潔な水と食糧さえあれば治る病気で亡くなる人が急増する事態を目の当たりにすると、「100の診療所より1本の井戸を」と、白衣を脱ぎ、土木を独学して、自ら図面を引き、自ら重機を運転して、地元住民に働きかけ、井戸と用水路の掘削に力を注ぐことになった。

 これまで掘った井戸は約1,600本、開削した水路は約27キロ。この井戸と用水路は、砂漠と化していた約1万6,500ヘクタール(東京の山手線の内側の約2.6倍の面積)の農地を甦らせ、15万人の難民を帰還させ、65万人の生活に潤いを与えた。「水と食糧さえ得られれば、人はタリバーンの傭兵にも、政府軍の傭兵にもならない」と中村医師は言う。

 農地を得た住民たちはやがて酪農も始め、市も立つようになった。しかし、その人たちが最も求めたのがモスク(イスラム礼拝所)と子供たちが通うマドラサ(イスラム学校)の建設であった。これらが揃ってはじめて「人の暮らし」になるのだという。
 「イスラム」というだけで軽蔑や警戒の対象となる風潮に耐えて誇りと自信を取り戻そうとする住民の心情に共感した中村医師は、その要求に全力で応えた。彼自身はクリスチャンなのだが。しかも、彼が座右の銘とする「一隅を照らす」は、最澄に由来する仏教の言葉である。

 高価な資機材がなくても現地の人が維持・管理できるようにと、中村医師は、建設に伝統的な手法を採り入れてきた。水路の取水堰は江戸時代からの堰造りの技術に倣い、護岸もコンクリートを使わず、鉄線を編んだ「蛇籠」に石を詰めて積み、根を張る柳を植えて補強した。
 「私たちが貫いてきたのは、なるべく地元の素材を利用し、地元のやりかたで、地元の人々の手を借りて、ローカルの力を活用すること」「まずは、地元の習慣や文化に偏見なく接すること。我々自身の物差しを一時捨てること」と説いた中村医師の言葉は、まさに人道支援や途上国開発の王道を示している。

◆◆ 自衛隊派遣は有害無益

 西日本新聞の記事で知ったことだが、中村医師は、火野葦平が小説『花と龍』で描いた、洞海湾を望む北九州で気性の荒い川筋者を束ねて石炭荷役業を営んだ玉井金五郎・マンの孫であり、「率先して弱い者をかばえ」との薫陶を受けて育った。そのせいもあってか、菅原文太がニホンオオカミに譬えて惚れ込んだ侠気の人であったという。

 その中村医師が吼えたのが、「自衛隊派遣は有害無益」。
 米同時テロが起きた2001年。首謀者をかくまっているとして米国がアフガン攻撃に動く中、自衛隊による後方支援を目的とする特別措置法案が国会で審議された衆院テロ対策特別委員会。参考人として出席した中村医師はこう断じた。
 アフガニスタンの人々が日本について連想するのは日露戦争とヒロシマ、ナガサキ。平和国家として復興を果たした日本は、他国が絡む戦乱に苦しんできたアフガン人から圧倒的な親密感を抱かれてきた。自衛隊派遣は、それを礎とした信頼関係を崩しかねない。

 「自衛隊派遣は有害無益でございます」。「失礼ですけれども、国会議員の先生方以上に現地の庶民の方が冷静に事態を判断しております」。「空爆はテロリズムと同じレベルの報復行為ではないかと」。
 委員会室は騒然となり野次が飛んだ。自民党議員からは発言を取り消すよう求められた。それでも中村医師は、現場で培った信念を曲げようとはしなかった。

 現在進行中のイラン周辺海域への自衛隊派遣をはじめ、今後に予想される不穏な状況の中でつねに反芻しなければならない中村哲医師が遺した言葉である。

 (元桜美林大学教授・『オルタ』編集委員)

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