■臆子妄論           

ふたたびの観心寺 ― 学童疎開と幼年学校        西村 徹


■観心寺に学童疎開


  私の知人は小学校四年生の九月から五年生の十月まで、つまり戦争末期を終戦
まで、たっぷり一年、観心寺に学童疎開していた。観心寺そのものの中にいたわ
けではないが、その真向かいの青年団かなにかの会館のようなところにいた。こ
の一年間の体験が観心寺の印象を決定してしまっているらしい。戦争に負ける間
際の年だから秘仏の開帳どころではなかったろうし、寺や仏像に子どもが興味を
持つはずもなく、第一に飢餓、それを土台にした肉体的以上に精神的にこうむっ
た苦痛のすべてが観心寺の印象として収斂してしまうらしい。ほとんど坊主憎け
りゃ的にそれはそうなるらしい。
  この寺は梅の名所でもある。落ちた梅の実を子どもは拾って食べたい。ところ
が坊主が追い払う。箒で追い払う。生の青梅には青酸かなにか毒があって、じか
に口にいれると危険だともいう。それを恐れて子どもに禁じたのかもしれない。
そうであろうと思いたい。じつは落ちた梅は黄色くて少し甘くて青酸毒の心配は
ないが、最大限坊主の名誉のためにそう思うことにする。しかし子どもの目には
、落ちたものまで惜しむ坊主はケチで意地悪ということになってしまった。
  言ってきかせて納得させるという手続きを省くのは、上意下達の封建遺制であ
るにとどまらず問答無用絶対服従の軍国日本に特徴的悪習であった。これがいま
だに残っていて政治、行政、司法、経営、教育、宗教を腐らせている。かならず
しもこの寺の坊主固有の不仁というわけでなかった。しかし有徳の坊主もまるき
りいなかったわけでないから、この寺の坊主は格別不仁ではないまでも格別有徳
ではなかったのであろう。
  あの、残忍の化け物みたいな日本海軍にも「して見せて 言ってきかせて さ
せてみて 褒めてやらねば人は動かぬ」と言った山本五十六がいた。言ってきか
せなかったので、子どもの心は傷ついた。あるいは言って聞かせる気などなくて
、坊主はひたすら貪瞋癡の三毒に冒されていただけかもしれぬ。
  飢えてひもじいうえに、都会の暮らしとは食い物ががらりと変わる。名産の高
野豆腐に大根と、ときには身欠き鰊が加わった煮物は、老人食にはよいとしても
子どもの口には合わない。薯の蔓や菜っ葉と卯の花の煮物も合わない。もともと
林業地帯でタンボがない土地だから無理もないが、大方が茹でた大豆に、スプー
ン一杯分の米のメシが乗った主食では絶対量が足りなくて空腹にもかかわらず下
痢ばかりする。それでも空き腹かかえて体操をする。境内で毎日する。寺の裏山
の後村上天皇陵の石段は何段あるのか、それを走って登ったり降りたりする。


■幼年学校も逃げてきた


  隣村の千代田にある陸軍幼年学校の生徒が隊列を組んで頻繁に行軍してくる。
そのうち幼年学校そのものが、当然ながら機銃掃射の標的になって、あげくのは
ては終戦前日の八月十四日に逃げ出して観心寺に疎開してきた。来たかと思うと
、翌日には終戦で、たった一晩ですぐさま千代田に引返したりしている。田畑、
山林、池、沼等を強制買収した敷地約五万四千坪のうち相等部分を占める運動場
(練兵場)を耕して南瓜や薯を植えていたというから、幼年学校生徒は、すくな
くとも量目だけはたらふく食っていただろう。
  そのときはたがいに何をどれほど食っているかは知らなかったろうし、子ども
たちと子どもに毛の生えたような幼年学校生徒たちとの間には、むしろなにがし
かの親近感さえあったろうが、知っても知らなくても事実として食い物のありて
いには間違いなく不公平があったから後に反省的に、そのこともまた観心寺の印
象を決定する要因に加わったであろう。
  夜になると、ろくなものが食えずに空き腹をかかえているのに、襖ひとつ隔て
て先生の部屋からすき焼きの匂いが漂ってきたりする。先生も児童の食糧確保に
並大抵の苦労ではなかったから、たまに少量の猪肉でも手に入ったとして自分ら
だけで食うのがやっとだったろう。先生がひどく不徳でないとしても、子どもは
そこまで忖度しないから、やはり十分傷つく。こういうことはあのころどこでも
至極ありふれて、じつは当たり前のことだったが、それよりもその話の中でひと
きわ心に残ることがひとつある。
  ときに面会日がきめられて、待ちに待ったその日には大阪から親たちがやって
くる。観心寺を少し西に下ったところで道は二股に分かれている。右は長野の駅
からであり、左は三日市の駅からになる。どちらからも三四キロ。もはや駅から
の乗り物はもちろんなく電車そのものがまともに動いているわけではない。親た
ちは歩いて坂道を登ってくる。乏しい食べ物や衣料を親の入用を割いてでも工面
して持ってくる。それを二股道で首を長くして待つ。どっちから来るかと待つ。
見つかると歓声をあげる。そして午後になって親たちが帰るときはやはり二股道
に立ち尽くしていつまでも手を振る。姿のまったく見えなくなるまで手を振る。
親たちの歩みも鈍ったことであろう。

 この話をじかに聞いてさほどに思わなかったのに、あらためてここに書くと、
最後のくだり、親の姿が消えるまで手を振るくだりにくると、私はたわいもなく
おろおろしてしまう。読み返しても思い返しても、それだけで涙堰きあえずとい
う気分になる。十か十一の子どもが親と引き離されてごく稀にしか会えないとい
うのはむごすぎる。
  さらには親夫婦のあいだに不都合があるかなにかで親に来てもらえない子もい
た。持参の弁当を親子が一緒に食べている間その子はぽつねんといつもの席でい
つもの食事を食べた。たぶん先生だけですき焼きを食べたのとおなじ理屈で、ど
の親もわが子の分以上に余分を持ってくる余裕がなかったのだろう。それがまた
自分にはなすすべもない理不尽として子供心にも胸を痛めることであったらしい

  そんなしだいでその人はいまも観心寺に足が向かないらしい。市役所の兵事係
に引率されて降り立った連隊所在地の駅を、戦後になって列車で通るたびに愉快
でなかった私の場合とおなじらしい。駅が悪いのでも寺が悪いのでもないが、そ
れはそういうことになるほかない。そのときの記憶がよみがえって消えないのだ
からしょうがない。日の丸が悪いわけでも君が代が悪いわけでもないが、日の丸
にも君が代にも纏わりついている忌まわしい記憶のために、ましてや強制などさ
れるとなおさら心穏やかでなくなるのとかわらない。実体性のない関係性の生み
出す不幸であって、その場に置かれた人間にとってのみならず、日の丸、君が代
にとってと同様、観心寺および如意輪観音にとっても不幸というほかない。
  秕政の罪は思わざる爪あとを人の心に残すものである。傷を癒すに一生を費や
しても癒しきれぬことさえある。
                      (筆者は堺市在住)

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