日ロ平和条約を求めて
— なぜ70年間放置されつづけているのか —
●プロローグ
加藤宣幸氏から「戦後70年を考える」という共通課題を与えられた。ロシア経済や日ロ関係を専攻する学究として、「北方領土問題の解決と日ロ平和条約の締結」が、戦後70年間たってもなぜ解決しないのか、という問題を自分なりに考究し、諸賢の批判を仰ぐこととした。
●初めに:交流と戦争の歴史
◆交流:日露両国は引っ越しのできない隣国であり、隣人同士の交流は古くからあった。
記録に残る最も古いロシアとの交流は、日本の漂流民やロシア人の海洋冒険家がもたらしたものだ。井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」には、江戸末期(1782年)、伊勢の商人大黒屋光太夫を始めとする一行が、江戸ヘ向かう途中嵐にあって漂流、アリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着いて、苦節9年で日本に帰国した話が書かれている。この物語は映画化(緒方拳主演)され、話題を呼んだ。大黒屋光太夫たちはロシアにとって5回目の漂流民で、彼はエカテリーナ2世に嘆願し、ロシア政府によって念願の帰国を果たしている。
これよりさらに古い漂流民としてデンベイなる人物がいた。彼は大黒屋光太夫より80年も以前(1701年)同じように漂流し、ロシア人(アトロフ)にともなわれヤクーツクに行き、やがてモスクワに移された。そこで日本の地理的位置、金山、銀山の場所、政治、軍備、宗教、風俗を詳しく調べられている。その報告書が上部に提出され、これが直接日本人が話したロシアにおける最初の日本資料となった。この年、デンベイはピョートル1世に拝謁した。皇帝は国費でデンベイの生活を保障し、日本語学校を開設してデンベイをそこの教師になる勅令をだした。デンベイは1705年、サンクト・ぺテルブルグに日本語学校を開設した。彼はロシアで生涯を閉じたがその没年はわかっていない。
その後も日本人漂流民は何回もあった。1701年紀州の「サニマ」、1729年「ゴンザ」と「ソウザ」、1745年、南部藩出の竹内徳兵兵衛一行、そして1783年大黒屋光太夫一行である。漂流は悲劇であったが、帝政時代のロシアと江戸時代の日本の事情の交流をもたらした。
日本人が多くのロシア人たちを救った歴史もある。1936年12月ソ連貨物船「インティギルガ号」が宗谷岬付近で座礁沈没、北海道猿払村の人々が官民一体となって救助をつくし、約400名が救助された。この追悼行事は現在も続いている。
幕末には、日本の開国・交易を巡る日露交渉が活発に行われ、高田屋嘉兵衛やプチャーチンが活躍した。
明治に入り日本は、日清・日露の闘いに勝利。1917年のロシア10月革命では、シベリア出兵を行い、ロシアの深い恨みを買った。
◆戦争:ロシアの旧満州(中国東北地方)への進出→1855年アイグン条約(アムール左岸を領有)、1868年北京条約(ウスリー川以東沿海州領有、1891年〜1905年シベリア鉄道建設、1904年〜05年日露戦争、1917年10月社会主義革命、1918〜22年シベリア出兵、日本は1932年から1945年の間、日本の傀儡国家満州(現在の中国東北部)を建国、ソ連との国境沿いに関東軍を張り付け、満州鉄道の経営や満蒙開拓団などを通じ、この地域を植民地支配した。日本は日清戦争、日露戦争、日中戦争、日米戦争と戦争に明け暮れた。この間実に51年にわたり戦争を続けたことになる。
日米戦争では真珠湾攻撃、マレーシア進攻など初戦の大勝利も、米国の反撃でレイテ沖海戦、ガダルカナル、サイパン、沖縄と敗退を続け、本土決戦を叫びながら、主要都市への大空襲で広大な面積を焼き尽くされ、多くの人命を失った。45年3月10日の「東京大空襲」だけでも死者10万人、罹災者は100万人を超えた。広島への原発(この一発で当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万〜16万6千人が被爆から2〜4カ月以内に死亡したとされる)、長崎への原発投下(この一発で長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した)、1945年2月ヤルタ協定、45年8月9日ソ連対日進攻、8月15日ポツダム宣言受諾、45年9月2日本は連合国に対し無条件降伏文書に署名。
●㈵.北方領土問題の発生:サンフランシスコ講和条約と日ソ共同宣言
日本は、1951年9月サンフランシスコ講和条約(ソ連署名せず)を締結し、1956年10月19日日ソ共同宣言に署名した。前者では連合軍と、後者ではソ連と戦闘状態から抜け出し独立を回復したが、同時に日本はロシアとの間に、北方領土問題を抱え込むことになった。
1945年の敗戦から約6年半、日本は占領されており、占領軍(実態は米軍)は日本で好きなように行動できた。52年4月28日、前年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。この条約では、すべての連合軍は効力発効後速やかに、いかなる場合も90日以内に日本国から撤退するとなっているが、この条項を米軍には適用できなかった。というのは、サ条約と同時に発効した旧日米安保条約に次の規定が策定されていたからだ。
「旧安保条約第1条:サ条約およびこの条約の発効と同時に、米国の陸軍、空軍および海軍を日本の国内およびその付近に配備する権利を日本国は許与し、米国はこれを受諾する。以下省略」。そのため、具体的レベルで次の協定が結ばれた。
「日米行政協定第2条1項:日本国は米国に対し、安保条約第1条に掲げる目的の遂行に必要な基地の使用を許すことに同意する」。
この協定の目的は「日本の全土基地化」と「在日米軍基地の自由使用」であった(前泊博盛『日米地位協定入門』創元社、p.19)。これは、ダレスの言葉を借りれば「われわれが望む数の兵力を、日本国内の望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」ことにあった。この状態は、戦後サンフランシスコ体制の三重構造(講和条約 —安保条約— 行政協定)と呼ばれている。この体制は屈辱的な不平等条約であって、こうした体制は現在も続いている。
さて北方領土問題に話を戻そう。サ条約では、ダレス米国務長官によって巧妙な罠が仕掛けられた。関係個所は次のように書かれている。
<平和条約第2章領域の第2条(c)「日本国は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する>。<第26条・・日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理または戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない>。この条項の具体的意味は、日本が千島列島を「放棄」した以上のことをソ連に与える、つまり「残る国後島と択捉島をソ連領と認めるなら、米国も現在占領している沖縄を日本に返さない」(下斗米p.207)と「恫喝」したのである(ダレスの恫喝にはこうした法理があったのだ)。
サ条約に仕掛けられた罠には、(1)放棄した千島の範囲を明確にしなかった。(2)放棄した島の受取人を明記しなかった、(3)サ条約署名国以外の第三者(ソ連)には、署名国以上の法益を与えない。という仕組みが組み込まれていた。そのため、批准国家を含め、サ条約の日本での審議過程では、放棄した千島に国後・択捉は入るのか、ソ連が樺太・千島を領有する権利があるのかなど、を巡り審議が紛糾した。
注:当時の吉田総理は、東大総長南原繁氏に代表される全面講和を求める与論を無視した。批准国会での賛成票は2/3に達しなかった。
当時、グロムイコソ連代表は「条約草案は、ヤルタ協定で米国と英国とが、樺太のソ連邦への返還と、千島列島の移譲に関して保証した義務に矛盾するものと抗議した。
注:ヤルタ協定(1945年2月11日)では、ソ連邦の対日参戦の条件の1つとして「ソ連邦へのクリル諸島の引き渡し」を約束した。ソ連邦は、ヤルタ協定により、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を含むクリル諸島のソ連邦への引き渡しの法的確認が得られたと主張していた。日本は、ヤルタ協定の当事国でないので法的にも政治的にもヤルタ協定には拘束されないとの立場をとった。
1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日ソ共同宣言でダレスが巧妙に仕掛けた罠、つまり「沖縄での米軍駐留を確保するために、北方4島を人質(未解決)にする政策」という政策の罠から日本は未だに抜け出せないようである。
●㈼.平和条約締結を妨害する最大の障害は、日本側がいまだに4島返還を要求し続けている点にある。私見によれば、4島要求の論拠は次の4項目だが、それは(抑留問題を除き)かならずしも説得的ではない。この問題を検討しよう。
◆㈼-1.日ソ中立条約の違反→ <第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した>(Wikipedia)。
これは、日本が敗北する前に参戦することで、ヤルタの果実をできるだけ大きくするスターリンの戦略であった。終戦の「ドサクサ」に日本に襲いかかった背信行為を日本は許せないという。しかし、この条約は中身が空洞化した存在価値のないものであったという反論がある。
<この条約は相互不信の上に築かれたもので、腹の底ではソ連も日本もこの条約を守るつもりはなかった。ソ連はその証拠として関東軍特別演習を上げている。中立条約がありながらソ連侵攻を意図したではないかと。ソ連が日本にこの条約の破棄を通告したのは1945年4月5日、破棄の根拠として次の2点を挙げた。「日本はソ連が戦っているドイツと同盟関係にある」「日本はソ連が同盟している英米と戦争している」。他方、米国はソ連を露骨な言葉で誘った。「対日戦に参加しなければ、アジアでの戦利品の分配に預かれない」>(岡田和裕『ロシアから見た北方領土』光人社NF文庫、2012年、p.111)。
◆㈼-2 不法占拠論→ (1)日本が米戦艦「ミズリー」艦上で降伏文書に調印した日は1945年9月2日であり、連合国との戦争状態はこの日に正式に終息した。この日に同時に出された日本政府の一般命令第1号により、千島諸島に在る日本軍は「ソヴィエト」極東軍司令官に降伏することが命令された(金井「われらの北方領土」08年p.17)。次いでGHQ指令(SCAPIN677)により千島列島、歯舞群島、色丹島は、日本の行政範囲から省かれた。この時以降、日本の行政権は及ばないので、ソ連の支配を不当とする根拠はなくなった。しかしまだサ条約締結までは、千島占領は(ソ連の)戦時占領という性格を脱していない。
(2)サ条約により、日本は独立を回復した。サ条約2条C項で、日本は千島列島の領有を放棄した。サ条約をソ連は批准していないので、日本とソ連との戦争状態はこの時点では終了していないと言える。したがって「日ソ共同宣言」発効以前は、ソ連の千島占領は合法的な戦時下の占領と言える。
(3)1956年12月12日「日ソ共同宣言」は発効し、両国の戦争状態は法的に終了した。「共同宣言」第9条には、平和条約締結後に「歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡す」となっている。このため、平和条約締結までは、両島をソ連が支配することは日ソ間の了解事項だったと言える。
(4)国会での審議:1956年11月29日、参議院外務委員会における下田武三政府委員(条約局長)の(梶原茂嘉委委員への)答弁では、ソ連が北方領土4島を占拠し続けることは不法とは言えない、と言っている。歯舞・色丹については上記のとおりだが、国後・択捉については、これも日本が直ぐ取り戻す主張を止めて、継続審議で解決するという建前を取っている。したがって、これについても事実上、解決がつくまで(ソ連が) 抑えていることを、日本が不問に付すという意味合いを持っているから、これもあながち不法占拠だとは言えない。要するに、日本はあくまでも日本の領土だという建前を堅持しており、実際上しばらくそれによる占拠を黙認するというのが現在の状態であると思う。(以上の論考は金井茂氏に負うところ大である)。
◆㈼-3 固有領土論と特措法の改定→ 1982年(昭和57年)日本は、北方領土問題等の解決促進のための特別措置に関する法律を制定した。
その後、北方墓参(1964年)、ビザなし交流(1992年)、自由訪問(1999年)などの交流事業が定着したが、元島民の高齢化、北方領土返還運動参加者の減少傾向など経年による変化、北方領土隣接地域における活力の低下が顕著になった。こうした情勢を踏まえ、所要の改正を行うものである。そのため法律の目的に次の6点を加える。(1)北方領土が我が国固有の領土であること明記すること、(2)交流事業の積極的な推進、(3)返還運動の後継者養成、(4)北方領土隣接地域の市町村への特別助成、(5)北方領土領海での安全操業の確保、(6)振興等基金の対象事業に技術研修のほか、知識の習得事業を追加する。2010年4月1日から施行する。
この衆院特別委員会決議に基づき、6月16日衆院本会議で、北方領土等の解決促進のための特別措置に関する法律(昭和57年法律第85号)の一部の改正法が成立した。本案施行に要する経費としては、平年度約2億円の見込みである。
改正法の本文→ 1982年の「特別措置法」の第1条中「北方領土問題が」を「北方領土が我が国固有の領土であるにもかかわらず、北方領土が今なお」に改め、「啓発」の下に「交流等事業の推進」を加える。
この法律改正について(領土交渉で)ロシア側が問題視したのは、交渉事項をすでに決着済みとしてこれを法体系に組み込んだことにある。これでは今後交渉を継続する意味がないとの意見を表明した。
◆㈼-4 シベリア抑留→ シベリア抑留は、終戦後武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する日本側の呼称。
一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパ・ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。
厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡(抑留者の約1割にあたる約6万人)した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背くものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した。しかし、ロシア側が所有している抑留者の全記録が公開されていない点で、日本側は不信感を募らせている。
この問題は、日本人の対ロ嫌悪感を支える大きな要素であり、平和条約を締結して関係を正常化しようという考えに対し、水をさす役割を果たしている。
この章の詳細は次のURLをご覧ください。
公開討論、「昨今の日本を巡る領土問題について」(2010/11/12) https://drive.google.com/file/d/0BzAwTp2o6qi8Uzg5Z1hBMWRxYmc/view?usp=sharing
●㈽.変貌する4島とビザなし交流→ 論ずべき多くの点があるが、今回は省略する。
●㈿.安倍首相は、日露平和条約の締結に成功するか。
北方領土問題を解決して平和条約を結ぶことは、日露双方にとって半世紀以上に及ぶ積年の夢であり続けている。プーチン大統領もこの願望を再三再四表明している。その場合の1つの障害は日本側に長期政権を担う政権が誕生しなかったことであった。プーチン大統領にしてみれば、腰を落ち着けてじっくり交渉すべき相手かいないという悩みがあった。
2012年12月の総選挙で自民党が勝利し、第二次安倍普三内閣が誕生した。日本にとり長期の可能性をもつ政権は久しぶりである。安倍氏は、日ロ経済協力の拡大をテコとして半世紀以上にわたる懸案の北方領土問題を解決し平和条約を締結することを狙っている。
その第一歩として安部氏は13年4月28日〜30日までロシアを訪問、プーチン大統領と会談し、「日露パートナーシップに関する共同声明」を採択した。安倍首相に同行した民間の経済訪問団は、ロシア側の関心が高い医療、省エネ、農業・食品分野などの大企業を中心に約50社、120人に及ぶ民間会社の経営トップクラスから構成された。
「日露パートナーシップに関する共同声明」についてはこちら→ http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000004183.pdf
共同声明は全部で53項目8ページからなっている。日ロ首脳は定期的な相互訪問を行うほか、両国外務大臣は少なくとも年1回の交互訪問を行う。制度的には2+2(双方の外務大臣と防衛大臣の会談の定例化)が合意された。この関係は米国以外ではロシアとしかないものである。
*日露首脳会談後の署名式で署名された文書一覧は次のように番号を付け示した。
このほか作成された合意文書には(*)を付けて、両者を統一的に整理した。
(1)文化センターの設置及び活動に関する日ロ協定→ 文化交流活動の拠点として相互に文化センターを設置する。
(2)運輸分野における協力(国土交通省とロシア運輸省との間)の覚書:シベリア鉄道の競争力の強化・効率性の向上、輸送インフラ分野・施設面での取組、物流情報伝達の効率化、北極海航路の利用に向けた協力。
(3)エネルギー分野における協力(経済産業省と連邦エネルギー省との間)の覚書→情報交換、両国企業への支援、人材育成プログラムの策定等を通じて石油・天然ガスなどエネルギー分野の協力を発展させる。
*エネルギー効率及び再生可能エネルギー資源の分野における(資源エネルギー庁とロシア・エネルギー機構)との間の協力覚書。
*(双日とエネルゴテクニカ社)との間のガスプロム向け川崎重工業製小型ガスタービンの供給に関するMOU(了解覚書:Memorandum of Understanding)。
*「川崎重工業、双日、ラオ・エネルギー・システム・ヴォストーク社」との間の極東ロシアにおける分散化コージェネレーション供給プロジェクトに関するMOU)。
*「日揮とノヴァテク社」との間のヤマルLNGでの協力に係るMOU。
*「丸紅と極東バイカル地方発展基金」との間の極東・シベリア地域の開発案件推進に係るMOU。
(4)マネー・ローンダリング及びテロ資金供与に関する情報交換枠組み
(5)国際協力銀行(JBIC)とロシア開発対外経済銀行(VEB)とロシア直接投資基金(RDIF:Russian Direct Investment Fund)との間の日露投資プラットフォーム設立に関する覚書。
(署名者:奥田碩JBIC総裁、V.ドミトリエフVEB総裁、K.ドミトリエフRDIF総裁)→ 日本企業によるロシアでのビジネス展開や技術プレゼンスの拡大を目指し、日本企業が参画する事業に対し、JBIC、RDIF及びVEBが協働して出資又は融資するための枠組みである「日露投資プラットフォーム」を設立する。
(6)国際協力銀行(JBIC)とロシア開発対外経済銀行(VEB)との間の輸出バンクローン設定等の協議・業務協力に関する覚書
(7)日本貿易保険(NEXI)とロシア輸出信用・投資保険庁(EXIAR)との間の協力のための覚書→ 情報交換や知見の共有など協力関係の構築を通じて日露間のビジネス機会を拡大し、ロシアに進出する日本企業を支援することで、日露間の貿易・投資及び両国企業の第三国への共同事業の更なる促進を図る。
(8)北海道銀行とアムール州政府との間の農業分野における協力に関する覚書
(署名者:堰八義弘代表取締役頭取、O.コジェミャコ知事)→ 北海道及びアムール州地域の基幹産業である農業と農業関連作業の発展を目的とする。農業経営体同士の直接的交流とその発展を促し、最新農業技術の研究と普及、技術交流、相互の経営力向上などの協力促進を支援する(後述)。
(9)三井物産とロスネフチとの間の極東石油化学コンプレックスの共同事業化検証に関する覚書(署名者:安部慎太郎代表取締役専務執行役員、I.セーチン社長)→ ロスネフチが極東ナホトカでの石油化学コンプレックスの詳細設計を開始するに際し、開発費用を共同負担し、事業化を検証する。
上記の覚書や合意事項の特長は次の点にある。(1)金融関係のバックアップ体制(投資プラットフォーム、バンクローン、貿易保険)が設置・強化され、経済協力が実現し易くなった。(2)従来大企業中心の協力体制であったが、中小のベンチャー企業の進出にも光が当てられた。(3)金融プラットフォームに将来性ありと認定・支援を受け得るベンチャーがどれだけ進出するか、ボールは日本側に投げられた。(4)日本企業と協力関係を締結する際は、日本側の厳しい査定をパスする必要が出てくるので、ロシアの投資環境整備が加速される可能性がもたらされる。一方、ロシア側の即決方式は協議ばかりで決定が遅い日本企業体質を改善させよう。(5)貿易・投資だけでなく、テクノロジーや人材養成分野の協力促進も謳われた。(6)日ロ関係は、露中、露韓、露米その他の2国間関係との激しい競争下に置かれているとの認識が重要である。
2014年2月7日〜23日の17日間、ロシアの保養地ソチで冬季オリンピックが開催されたが、この開会式にはG7の首脳のうちただ1人、安倍首相が出席し、プーチン氏と並んで観戦、親密ぶりをアピールした(この時は、2月7日の「北方領土の日」に主賓として挨拶し、その日のうちに政府特別機でソチに飛ぶという早業を行った)。
しかし、安倍−プーチンの蜜月ぶりは、この時点をピークにして、(すでに始まっていた)ウクライナ騒乱の影響を受け、坂道を転がるように悪化していった。
具体的な転機は、ロシアのクリミア統合であった。これに対し一方的武力による編入は(ウクライナの)国家の統一性を侵犯するものとしてG7首脳は一斉に非難し、対ロ経済制裁に踏み切った。
ロシア側の言い分はこうだ。暴力・武力を投入し、平和なデモを、殺害を伴う騒乱に誘導したのは、米国のネオコンやウクライナの過激派民族主義グループだ。クリミア統合については、その歴史的経緯、民族自決の普遍的原理、現地ロシア人の人命保護、などから実施したもので、欧米の非難はあたらない。
対ロ経済制裁については逆制裁を発動した。そのためEU各国の損害も大きい。ウクライナ政権と親露派武装勢力との間には、ミンスク合意2と言われる停戦協定が現在存在ししているが、散発的戦闘が続き民間人も巻き込まれ死傷している。
最近のG7では制裁解除期限が7月であったのを一応延期して停戦合意の状況を見守ることとした。一部制裁解除を主張するむきもあったが、それを強くけん制したのはオバマ大統領だった。制裁の利害当事者(EU・日・ウクライナvs.ロシア・親露派武装勢力)でない米国が制裁継続に圧力をかけるのは何とも理不尽である。
ロシア側はG7の共同声明に、キエフ政府と武装派双方への呼びかけがないこと、ロシアだけでなく、米国への自制要求も書くべきだ、と反論している。
●まとめ:安倍内閣の対ロ外交・北方領土交渉について。
安倍首相の領土交渉の軌跡は、上述したようにソチ五輪までは順風満帆で推移した。ウクライナ騒乱過程で起こったクリミアのロシア統合に対するG7が実施した経済制裁では日本はその強度に於いて最初は最後尾であったが、4月26日〜5月3日にかけた米国公式訪問後は、制裁で先頭に立つオバマ氏の代弁者のような振る舞いに変貌。プーチン氏の年内訪問に実現は限りなくゼロになった。
政府は5月9日にロシアで開かれた対ドイツ戦勝70周年記念式典に関し、安倍首相はG7のポジションを優先し、式典への参加を見送った(ソチ五輪では、G7唯一の開催式への参加国であったのに)。
次いでドイツで6月7、8両日開かれた先進G7サミットの前にウクライナを訪問し、ポロシェンコ大統領と会談。日本の支援継続を約束するとともに、力による領域の現状変更は許されないとして「法の支配」の重要性を確認するなど、プーチン氏の感情を逆なでする行動をとった。この行動は、G7会合でオバマ氏にいたく気に入られた。
オバマ氏は6月8日、G7首脳会議閉幕後記者会見し、ロシアはウクライナの主権を侵害し続けていると述べ、EUが8月以降も制裁を継続する方向を示唆した。北方領土問題を抱える日本は、米ロの間でバランスをとる独自外交を従来展開してきたが、最近では100%米国寄りの外交を展開しており、領土交渉は再び冬眠状態になった。
●エピローグ
この論考を終えるに当たり、朝日新聞2013年7月19日に掲載された次の記事を、冬眠後の領土交渉の指針としてお伝えしたい。
<北方領土問題交渉に直接携わった経験を持つ日ロ両国の元外交官が、問題解決に向けた提言を共同論文で発表した。18日付けの「独立新聞」に掲載された。歯舞、色丹2島の日本への引き渡しの準備を進める一方で、国後、択捉2島については領有権問題を当面棚上げし、両国がともに経済活動ができる特区にするとしている。
筆者は日本外務省の条約局長、欧州局長を歴任し、2001年まで対ロ交渉に直接携わった東郷和彦京都産業大学世界問題研究所長と、ロシア外務省次官を努めた後、1996年〜03年まで駐日大使を務めたアレクサンドル・パノフ米国カナダ研究所主任研究員。>
この論文の原文と邦訳については、次のURLに掲載した。
東郷—パノフ共同提案、露文付き https://drive.google.com/file/d/0BzAwTp2o6qi8Q1B5WDZIYVBJeGM/view?usp=sharing
(筆者は北大名誉教授・ロシア経済・日ロ関係専攻)