【日本の歴史・風土・思想から】

なぜ聖徳太子はいなかったか!

室伏 志畔


 八世紀の古事記や日本書紀、つまり記紀成立以来、私たちの日本古代史はここ1300年、記紀史観の呪縛にあり、微動だにしないかに見えます。しかし、その核としての聖徳太子や大化改新が現在、揺らいでおり、記紀史観は崩壊の前夜に実はあるのです。

 その揺らぎは一つは文献実証史学において、七〇年代の古田武彦の九州王朝説の提唱により、太宰府を首都とする倭国が、近畿王朝・大和朝廷に先在した王朝であることが動かしがたくなったことにあります。今一つは、考古学における1984年に神庭荒神谷遺跡からの358本の八千矛の発掘、1996年の加茂岩倉遺跡からの39個の銅鐸の発掘は、前者が出雲神話の大国主命の国譲りによる大国主命の王権のレガリアの埋葬なら、後者はそれに先立つスサノオの八岐大蛇退治が、蛇をトーテムとする神魂カモス命(神御産巣日神カミムスビ)の銅鐸王国の粛清に伴う埋葬で、記紀の出雲神話が架空でなく出雲王朝史の変遷をなぞるものであったことが明瞭になり、列島王権史は出雲王朝→九州王朝→近畿王朝の三王朝交替史としてあったことが明らかになったことにあります。

 その上で私の立場を申しますと、記紀史観が大和中心の皇統一元史観をそそり立たせたのに対し、列島王朝史を東アジア民族移動史の一齣に解体してきました。その基本矛盾を構成したのは、揚子江河口の江南から呉越同舟し渡来した南船系稲作民である倭人が、列島に集団稲策技術を伝え、前三世紀にかけて爆発的な彌生稲作の繁栄に伴う稲作国家の形成に入ります。この空前の列島の稲作社会の繁栄を羨望した朝鮮半島の北馬系騎馬民族が侵攻したため、南船北馬の興亡が起こり、ついには北馬系王権が南船系稲作社会を覆い、南船系王権を差別し、日本の二重構造を発生させます。この侵攻を記紀はスサノオの八岐大蛇退治やニギハヤヒの天神降臨、ニニギの天孫降臨神話として伝えました。

 しかし、戦後史学は「神話から歴史へ」を提唱し、前天皇史にあたる神代を歴史から追放し、人代の天皇史をもって歴史を始めました。しかし、皇統は侵攻した北馬系王権の最後の勝者にすぎなかったが、その南船北馬の興亡が展開した神代を戦後史学が歴史から切り捨てたため、日本人は列島の基本矛盾を見る目をまったく見失います。天皇史である皇統史が九州の原大和である倭(やまと)で発祥し、斉明まで九州で展開を見ましたが、記紀が畿内大和で一切展開したと造作したため、出雲や北九州で展開し、たかだか七世紀後半の壬申の乱後に畿内で天武が立ち上げた大和朝廷にグラフトしたのが記紀詐術に欺かれ、大和枠の金縛りに陥ってしまったのです。

◆ 聖徳太子のお札はなぜ消えた!
 その畿内大和で華々しく活躍するのが皇室の刻印を打って登場する聖徳太子ですが、その「聖徳太子はいなかった」説が90年代から保守派を含めて称えられるようになりました。それを象徴するのが、昭和五年(1930年の百円札に始まり、千円、五千円、一万円と半世紀以上にわたり席捲した聖徳太子のお札でしたが、1984年に福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石に取って代わられ、聖徳太子のお札は昭和時代と共に消え失せます。政府日銀はそれを近代の偉人モデルに変え、紙幣を親しみやすいものにした風に装って来ました。

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 しかし、政府を打ちのめす深刻な問題があったのです。聖徳太子のお札の回収を急いだのは、我々が親しんできた聖徳太子像が、あろうことか朝鮮半島にあった百済の正体不明の阿佐太子の筆になり、それも聖徳太子の時代ではなく八世紀以後の特徴を持ち、『日本書紀』の造作に連動することがもはや疑えなくなってきたのです。

 近代日本政府は一貫して朝鮮蔑視、嫌韓論から自由でなく、今上天皇の、日韓ワールド・サッカーの開催について桓武天皇の母・高野新笠は武寧王の流れとする「韓国とのゆかり」発言に露骨に不快感を露わにしたように、韓国や北朝鮮からこの肖像について突っ込まれるのを恐れ、急ぎ回収し、新札の発行を急いだわけです。しかし、政府はそのことを国民に明らかにしないのです。なぜならそれを認めると、聖徳太子や大化の改新を核とした大和中心の皇統一元の記紀史観が崩れるのは、森友学園や加計学園問題で安倍首相が忖度したことを認めることと同じで、それを認めると安倍政権が崩れるのと同じです。誰が見ても状況証拠が真実を露わにしているに関わらず、公的に認めないことで辛うじて成り立っているのが記紀史観の現状であり、安倍政権なので、外堀を埋める努力を怠ってはならないのです。

◆ 聖徳太子はいなかった説の背景
 真実がもはや動かしがたいに関わらず、それを公的に認めないところに日本の歴史や政治の問題があるわけです。つまり聖徳太子像は虚像であったことがもはや明らかであるに関わらず、その新事実を認めない権力の存在が、今もかつてのままに聖徳太子であるという錯誤の歴史を国民に振りまいているわけです。しかし、聖徳太子問題が深刻なのは、その肖像が借り物であっただけでなく、聖徳太子さえもいなかったとするところまで論が保守系論客を巻き込み進んだことにあります。それは昭和や社会主義国が終焉した90年代に時を同じくして起こったわけです。それに止まらず、天智や鎌足の大化の改新さえも疑われ、教科書の多くが乙巳の変と教える時代になっているのです。

 その聖徳太子は720年成立の『日本書紀』で突如、華々しく出現したわけですが、実は聖徳太子の名は『日本書紀』にも第一次史料にも一切見ないのです。あるのは別名としての厩戸皇子や、多利思北孤、上宮聖徳、聖徳法王、上宮法王等々としてあるので、その総称として聖徳太子の名が使われてきただけなのです。聖徳太子の対等外交として名高い「日出る処の天子、日没する処の天子に致す、恙なきや」と隋王に国書を呈した人は、俀王とあって決して摂政ではないばかりか、姓は阿毎、名は多利思北孤とあり、「近くに阿蘇山あり」とあって、決して畿内大和ではなく九州の王様なのです。また上宮法王や上宮聖徳は同一人で、壮年期までは彼は九州にありましたが、後期は吉備で仏教立国に励んだ人なのです。

 つまり九州や吉備で仏教功労者として尽力した先の二人や蘇我馬子や元興寺にあった善徳等の仏教功労者を、畿内大和でミックスしたのが聖徳太子で、彼が万能であった理由です。そのため、現在、教科書ではどのように教えられているかというと、昔ながらの古い聖徳太子説をそのまま載せるのが「新しい歴史教育を作る会」なら、時代の知見を取り入れた教科書は厩戸皇子の次に( )付きで聖徳太子と表記しています。このことは大化改新も乙巳の変とされ、蘇我氏殺しはあっても、「改新の詔」に疑問がもたれるのは、評制の時代に半世紀後の郡制の表記でそれは書かれていることにあります。

◆ 飛鳥仏教創出のカラクリ
 それでは587年の蘇我・物部戦争の戦勝記念として蘇我馬子や聖徳太子が建立した法興寺や法隆寺はどうなるのでしょう。実は法興寺や法隆寺の法号は、実は天武がつけた法号で、馬子と聖徳太子が創建したとされる寺は元興寺と斑鳩寺なのです。その元興寺と斑鳩寺が法興寺や法隆寺の別名をもったところに聖徳太子誕生の秘密があるわけです。

 日本書紀は飛鳥寺である法興寺(写真・左)に本尊を入れようとしたら、入らないので戸を壊し入れようとしたが、さすが鞍作鳥は賢く壊さずに入れたという記事を創建縁起に書いています。しかし、本尊の入らない金堂を決して宮大工が作るはずはないので、これは元興寺の本尊を飛鳥寺(法興寺)に入れようとしたところ、本堂が小さくて入らないために起こったてんやわんやで、本尊の移坐時の事件を元興寺の創建縁起に付加したことは明らかです。その元興寺を私は豊前の椿市廃寺址にあったと見ています。それは四天王寺式伽藍で、その建物は難波の四天王寺に移築され、本尊は飛鳥の法興寺に移坐されたのです。というのは、椿市廃寺址に元興寺と音を同じくする一堂からなる願光寺(写真・右)が侘びしく建ち、その地から出土する瓦は飛鳥寺の瓦に重なるからです。

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 加えてその山号は叡野山で地番は福丸です。その頭音を結ぶと聖徳太子の墓のある河内の叡福寺が出現するのです。通説は飛鳥寺や斑鳩寺は法興寺や法隆寺の地名に基づくとしますが、聖徳太子と播磨が深い関係にある記事をいくつも拾うことができますが、そこになんと聖徳太子の創建とされる斑鳩寺(写真)が今もあるのを日本人の多くは知らないのです。そこに古代の遺物は全くなく、古代の聖徳太子に関係するとされるのは、ここにあった古代の斑鳩寺の一切が畿内に移築・移坐されたことを意味し、現在の播磨の斑鳩寺はその後、再建を見たものなのです。

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 畿内の名刹の創建縁起にあるあやふやさは、お寺の移築・移坐を隠して畿内での創建としたことに関わります。それを裏付けるように、仏教興隆の先進地、九州(下図参照)や吉備に古代廃寺址が恐ろしくあることを我々は見失っているのです。それらを畿内へ移築・移坐させ、箱庭配置し飛鳥仏教が語られ、大和中心の皇統一元の記紀史観がそそり立っているのです。

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  北部九州の古代寺院跡「九州古瓦図録・1981」

◆ 飛鳥仏教のグラフト(接ぎ木)構造
 そのことを明らかにするために、710年に藤原不比等の願いを聞き入れ、大和の藤原京から不比等の別宅のあった奈良の平城京への遷都を問題にしたいと思います。その平城京の大極殿が藤原京からの移築であったことは、すでに実証されています。そのように、飛鳥四大寺と言われた法興寺・大官大寺(高市大寺)・川原寺(弘福寺)、藥師寺も、飛鳥から奈良に次の如く移築・移坐されているのです。

 飛鳥(藤原京)      奈良(平城京)
  法興寺     →    元興寺
  大官大寺    →    大安寺
  川原寺(弘福寺)→    興福寺
  薬師寺     →    薬師寺

 このとき、法興寺の僧が本尊の飛鳥大仏を捨て奈良を去ったのは、奈良仏教が蘇我仏教からの脱却をテーマとしていたからです。移築・移坐で成った奈良の四大寺は、そこで古名の復活した元興寺や、名を変えた大安寺や、弘福寺の音を表記替えした興福寺もあれば、名を引き継いだ藥師寺と様々です。それは日本文化が、過去の様々な遺物をグラフト(接ぎ木)する、引き継ぎ構造としてあったことを語っているわけで、このグラフト構造が天皇制の秘密で、天皇制が万世一系に見える所以です。

 ここに「倭国は日本国のかつての亦の名」として王朝交替が隠され、近畿王朝・大和朝廷に先在した九州王朝・倭国が隠され、そこからの移築・移坐として飛鳥仏教が大和飛鳥に成立した秘密は闇に葬られたのです。

 問題は飛鳥から奈良への四大寺の移築・移坐があったなら、飛鳥への移築・移坐は何処から成されたかという新たな問題が立ち上がります。しかし、我々は遠い昔から大和が列島の中心であったとする記紀史観の詐術にあって、そんなことを思いもしなかったところに盲点があったわけです。何処からと問われて戸惑うのはそのためです。しかし、天武が大和に飛鳥浄御原宮を営む前は、天智は大津に近江朝を営んでいましたが、それは五年足らずのことです。その近江朝を『日本書紀』は飛鳥からの遷都とすましこんでいますが、それは大和一元史観からするので、先ほど水害報道された九州の朝倉宮から天智が逃亡してきたことを隠しているのです。

◆ 天智・鎌足のクーデター戦略
 それをはっきりさせるために、蘇我・物部戦争から天武の壬申の乱までを編年し、一瞥しておきましょう。

 587年 蘇我・物部戦争→物部氏の九州からの逃亡
 593年 推古即位        馬子時代
 621・622年 聖徳太子の死
 626年 蘇我馬子の死       ↓
 628年 推古崩御        天智時代
 645年 乙巳の変(大化の改新)  ↓
 663年 白村江の敗戦      占領時代
 668年 近江遷都         ↓
 672年 壬申の乱―天武即位   天武時代

 蘇我・物部戦争における蘇我氏の勝利を背景に、推古即位から崩御までの期間は蘇我馬子の時代で、それを聖徳太子の時代と言い習わして来たわけです。その聖徳太子の命日が年度も月日もちがう、621年説と622年説が語られるのは、聖徳太子のモデルが複数からなることを語っているわけです。この命日は筑紫の九州王朝・倭国の多利思北孤と吉備の上宮法王の相次ぐ崩御を語るもので、それに次ぐ628年の推古の崩御は皇統の生息地・豊前の皇位も空位となり、九州王朝・倭国は筑紫本朝に止まらず、その豊前と吉備の倭国分国の三国が空位となる非常事態になったわけです。これら三国の領域は九州の長崎から兵庫に至り、それを律令制による税制を背景に蘇我馬子が束ねていたのですが、その馬子も推古崩御の2年前に死んだため、倭国のタガはすっかり緩んだわけです。

 この混乱につけ入り、天智や中臣鎌足が馬子死後にクーデターで頭角を現したわけです。643年の山背大兄皇子の変とは、吉備国の上宮法王の継子・山背大兄皇子への引き継ぎを阻止するため、吉備国の隣の播磨国の斑鳩宮にあった皇子一族が襲われた事件で、山背大兄皇子と呼ばれる所以は、上宮法王崩御の後、その継嗣が山背の秦河勝の庇護を受けたことによります。『日本書紀』はその粛清事件の黒幕を蘇我入鹿とし、その無念を晴らしたのが天智・鎌足による645年の乙巳の変(大化の改新)とし、その仇をとった如く記述しました。

 しかし、斑鳩宮を襲ったのは巨勢徳陀で、二年後の乙巳の変で蝦夷の宅を包囲したのも彼であることは、どちらも天智・鎌足の仕業で、山背大兄皇子を排することで天智の父・舒明が吉備国をものし、その財源を背景に天智・鎌足はその二年後に豊前の皇位に狙いをつけたわけです。豊前が彼らにとって本貫であることは、天智は中大兄皇子と表記され、それを我々はナカノ大兄皇子と教えられてきましたが、正しくはナカツ大兄皇子であることは、豊前の大宝二年(702年)の戸籍が残っており、豊前の仲津(中津)に仲臣村があったことが確認でき、皇統の出自隠しをしているわけです。蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼし、吉備に加え豊前をものし、それに手を貸した蘇我倉山田石川麻呂を649年に謀殺し、蘇我財産を山分けし、その領地・近江も簒奪した天智は、その吉備・豊前・近江を領し、皇位を狙ったわけですが、即位できなかったのは、倭国本朝の太宰府の合意が得られなかったことにあります。

◆ 造作史としての記紀史観
 この天智の無念が、それから15年後の660年の百済滅亡に続く663年の白村江の倭国敗戦での、皇軍の不可解な行動を生むことになります。それは、倭国は百済の再興のためとはいえ、唐と新羅に対する無謀な戦いに入り、白村江で唐の海軍と命運を決することになったのです。それに敗北した筑紫の倭国王朝は、その首都・太宰府が唐に占領されます。しかし、『日本書紀』はそんなことはおくびにも出しません。
 つまり、660年に滅亡した百済の再興に倭国が手を貸したため、663年に白村江で敗戦し、列島は激動の半世紀を迎えることになったのです。この激動の時代の真実を、皇統のご都合史に書き変えたのが日本国の正史である日本書紀というわけです。その造作された謎は1300年解明されることなくきたところに、大和中心の皇統一元史観がそそり立ったのです。

 倭国から列島の国号が日本国となるのはたかだか701年ですから、聖徳太子の時代は九州王朝・倭国の時代で、その中心は九州の太宰府で俀王・多利思北孤がおり、お隣りの豊前に豊王・推古女帝があって、瀬戸内海を仕切る吉備国に、仏教立国を志した九州の上宮法王を蘇我馬子は配し、それら諸王を庇護しつつ倭国を牛耳る、蘇我氏支配は倭国分国への半島からの渡来人の移住をはかり、律令制の導入による多大のあがりにより強大な蘇我王国を作りあげたわけです。その分国での律令制支配の導入で手腕をあげたのが蘇我倉山田石川麻呂で、彼は近江に多大な領地をもったのです。

 この律令制による財源を背景に物部氏を滅ぼした馬子は、筑紫に多利思北孤を、上宮法王を豊前に配し、豊前の椿市廃寺址にあった元興寺に長子・善徳を配し、仏教立国をはかったわけです。そのそれぞれの土地でのこれら仏教功労者に馬子をミックスし、それら古刹を畿内大和に箱庭配置し、『日本書紀』が畿内大和に聖徳太子を創造したのは、移築・移坐し成立した畿内大和の飛鳥仏教の仏教功労者が必要だったからです。その結果、九州や吉備(下図参照)での仏教の繁栄が隠され、多くの古代廃寺址が無数に残されることになったのです。

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  吉備の古代寺院遺跡分布図

 大和表記を遡行すると大和→大倭→倭となり、倭をヤマトと読んだことに大和がヤマトと読む謂われを見ることができます。倭は倭国の倭であることは、倭国の内に倭(ヤマト)があったことを示唆します。それは豊前の遠賀川上流の三諸山である香春岳(写真)を中心に、飯塚から香月(葛城)に至る一帯を指すものとしてあったと私は見てきました。その豊前の倭(ヤマト)への神武東征に瀬戸内海行路を付け足し、神武畿内東征を記紀は造作したのです。それは豊前の地形が現在の大阪府の左右を逆にした形であることに気づき、国東半島に紀伊半島を当てた天才的卓見にあったのです。
 それに気づかない古田武彦も畿内東征説に乗っかり、九州王朝説の半分を敵に売り渡し、「磐井の乱はなかった」とするまで退行していったのです。天皇が豊王であったことは、羽柴秀吉が天皇から豊王の臣下として豊臣の姓をもらったことに明らかです。その豊王である天皇は筑紫の倭王の臣下であったことが露見しては、皇統一元史は成り立ちませんから、その出自隠しとして神武畿内東征に始まる大和中心の皇統一元の記紀史観をそそり立たせたのです。そのことは日本国が列島の盟主となった701年の大宝を建元したことに明らかなのは、それが三種の神器が皇室に入ったと晴れやかに建元しているからです。

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◆ 白村江戦での皇軍の裏切り
 天智・鎌足が643年に山背大兄皇子を、645年に蝦夷・入鹿を、さらにその乙巳の変に協力した蘇我倉山田石川麻呂を649年に誅殺したのは、それぞれにおいて吉備・豊前・近江の領土簒奪を目指したことにあります。しかし、それは筑紫を中心に豊前・吉備・近江を全国支配した蘇我王国の首を取っても、天智が皇位に即けなかったのは、筑紫の太宰府の倭国中央政府が、武力による天智・鎌足の分国簒奪に不快を示したことを語ります。これは磐井の乱で倭王である磐井=武をクーデターで倒し、継体が長門より東を、物部麁鹿火が筑紫より西を簒奪し、強権支配をするも、韓半島の任那である伽耶を失うのは、磐井である武の韓半島での支配バランスを壊すような、継体の百済寄りの政策に半島の倭人勢力が反発したため、任那が新羅の掌中に入ったのと同じで、天智の武力支配への反発は強かったのです。この天智・鎌足の無念が百済滅亡に始まる次のドラマを用意するのです。

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  白村江の戦い

 倭国は660年に滅んだ百済を再興するために、余豊彰と五千の兵を百済再興に立ち上がった鬼室福信に与え、さらに二万七千人の倭兵をもって朝鮮半島の新羅に対し、さらに廬原君に率いられた一万の援軍を出し、唐の水軍と白村江で対します。陸戦で新羅に敗れた倭軍が、663年に白村江で唐の水軍と帰趨を決することになったのは、この廬原君臣に率いられた一万の倭軍です。それを図にあるように、日本軍と通説はして来たのです。問題はそれを率いた廬原君<イオリハラノキミ>とは、倭王である蘆原中君<アシハラノナカツノキミ>のもぢりなのです。『旧唐書』はこの戦いを 「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ」と倭軍の壊滅を簡潔に記します。

 しかし、正史・『日本書紀』は、この古代の倭国敗戦を大和朝廷の外交政策における失態程度に扱い、敗戦の危機感などかけらも見られません。『日本書紀』はこの海戦で、最初、倭国の前軍が蘇定砲の率いる唐軍に軽くあしらわれ、翌日、倭軍主力の中軍が唐の水軍に対すも、挟撃され壊滅するのを、後軍の倭軍は助けることなく傍観したことを記します。この後軍を構成したのが豊前の皇軍なのです。つまり、皇軍は倭軍に協力する形で半島に出兵するも、雌雄を決する土壇場で唐軍に通じ、筑紫の倭軍を見殺しにし、その正体を現したのです。つまり天智の皇軍は、天智即位に首を縦に振らない、目の上のたんこぶである筑紫の倭軍に加勢すると見せかけ、見殺しにすることを唐軍と密約し、倭軍の壊滅を唐軍に託し、倭国の後釜を狙ったのです。

◆ 斉明・天智紀の重複記事の秘密
 この皇統の白村江戦での裏切りを隠すために、『日本書紀』は朝倉宮の変を戦い前の661年に造作し、崩御した斉明の喪に服すために飛鳥に天智が戻ったとし、唐に決して敵対しなかったとする正史を編んだのです。このため倭軍は皇軍の裏切りであえなく全滅し、皇軍は無傷で帰国します。その差は筑紫と豊前の勢力の逆転を意味します。

 『日本書紀』にあって斉明紀と天智紀の重複記事が多いのは、天智紀が四年で書かれていたのを十一年に造作し直したためで、それは朝倉宮の変での667年の斉明崩御を661年に造作したことによります。その朝倉宮の変を667年に戻すとに近江遷都の記事があることは、朝倉宮の変にそれに連動したことを語ります。それは戦後、辛うじて帰国した倭国残党の証言から、白村江での皇軍の裏切りが発覚し、倭国残党はその無念を戦後四年して朝倉宮を襲い晴らしたため、斉明は殺され、天智はかろうじて近江に逃亡したことを語るのです。しかし、『日本書紀』はそれを畿内飛鳥からの近江遷都とし、皇統の不始末を隠したのです。そればかりか斉明崩御をもって天智称制とし、天智は660年の百済滅亡の翌年に、はや列島で百済復興の先頭に立たれたとする記事の造作で、事実でこけても、『日本書紀』ではただでは立たないというわけです。ここに斉明・天智紀に重複記事が頻発したのです。

◆ 倭国敗戦後論の欠落
 その5年後の672年に壬申の乱が勃発し、近江朝は壊滅します。その間を編年すると、

 660年 百済滅亡
 661年 朝倉宮の変(斉明崩御→天智称制)の造作
 663年    ↓   白村江の倭国敗戦
 667年 朝倉宮の変―――→ 近江朝遷都
      (斉明崩御→天智称制)
 672年 壬申の乱→天武の大和入り

 となるわけですが、その朝倉宮の変から近江朝壊滅までに、次のような天智皇統関係者の連続死を見る事ができます。

 667年 斉明崩御 
 669年 中臣鎌足の死(霹靂)
 671年 天智崩御
 672年 大友皇子の縊死

 これらすべてに鬼が関係します。それは朝倉宮の変を山から笠を被った鬼が窺い、鎌足宅への霹靂とは落雷を意味し、雷神は二つの角をもった鬼として俵屋宗達が描いており、天台坐主を何度と務めた藤原系の皇円が著した『扶桑略記』で、天智崩御は「沓一つを残し山林に消ゆ」とあることは、鬼による神隠しに遭ったことを意味します。壬申の乱で天武に負けた天智の子・大友皇子が山前で縊死し、その首を物部麻呂が天武に届けたと言われますが、物部氏が鬼の異名であることはよく知られています。正史・『日本書紀』はこの鬼によって殺された天智皇統関係者への鎮魂書なのです。

 しかし、正史を真に受けた日本人は、白村江の敗戦後論をできずに、今日まで千三百年きたのです。太宰府の都府楼址を訪れますと、その広場に都督府古址の碑(写真)を見ることができます。都督府とは一体、何でしょう。唐は660年に百済を滅ぼすと、熊津都督府ほか馬韓、東明、金漣、徳安に五都督府を置きます。また668年に高句麗を打ち破ると、唐は安東都督府を置き、占領支配しました。つまり都督府とは唐制の占領機関なのです。その660年の百済の敗北と668年の高句麗の敗北の間に、663年の白村江での倭国の敗戦があった以上、唐が倭国を占領しないわけはないので、1300年、日本人はそれに言及することなくきたことに、古代史がおかしくなった理由があり、そこに聖徳太子が急に『日本書紀』に出現し、大化の改新の嘘も生まれたのです。

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 90年代に加藤典洋の『敗戦後論』が書かれ、近くは白井聡の『永続敗戦後論』が説かれ、アメリカの日本国占領で生じた日本人の間のねじれについて語っても、倭国敗戦について彼らは無知を晒しているのです。アメリカの日本国占領は、皇居前の第一ビル(写真)に連合軍総司令部(GHQ)を置いても、皇居に踏み込むことはなかったものの、筑紫都督府は、倭国の天子と中央政府のあった太宰府に置かれたのです。それはGHQが天皇制を温存したのに対し、唐は倭王の廃止はもとより倭国権力機構の完全解体をはかったことを意味します。

画像の説明

 これに反し、斉明・天智皇統があった朝倉宮址(写真)は、今、豪雨にあって甚大な被害を出した朝倉市にあるのですが、その宮址に隣接し朝闇<アサクラ>神社があり、その朝闇はチョウアンと読め、また長安寺址があり、長安が唐の首都であることは、皇統の唐崇拝を語り、それは戦後、唐と親密関係にあったことを語ります。この戦後の朝倉宮の唐崇拝は、白村江戦で皇軍が唐に通じ、倭軍の救援をしなかったことを唐が評価したことから生まれたことは言うまでもありません。
 しかし、そのことが倭国の敗残兵の帰国で戦後露見し、667年に朝倉宮が倭軍残党によって襲われたのです。しかし、この皇統の危機を唐が助けることなく、672年に唐使・郭務悰の帰唐へと進むのは、チベットで吐蕃の反乱に唐軍主力が敗れ、半島や列島の軍の引き上げ命令が下ったことにあります。その郭務悰の帰唐から一ヶ月を待たずに天武が壬申の乱を旗挙げしたことは、唐軍の近江朝への援助がないことを見届けての旗挙げで、勝利後、天武が新羅使・金王実に船一艘を送ったことは、天武に新羅の援助があったことを語ります。

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 問題は、天智崩御の671年に近江朝が日本国を名乗ったことは、近江朝は唐の手を借り倭国に代わる傀儡国家・日本国の樹立をはかろうとしたことを語るのです。壬申の乱は天智・天武系の皇位争いといったチンケなものではなく、その倭国に代わる日本国の樹立をはかろうとした天智の近江朝勢力を、天武の倭国勢力が東国の物部勢力の手を借り、打ち破るものとしてあったのです。

 しかし、天武は九州に戻らず、東国の物部氏を組織し勝利をもたらした畿内飛鳥の朴井(物部)連雄君の招きに応じ、畿内大和で倭国を再興し、大和朝廷を開朝します。これは唐の九州への再侵攻を恐れてのことですが、これによって権力の中心は九州から畿内に完全に移ったのです。ここにいわゆる大和朝廷が開朝したので、神武から斉明までの朝廷は豊前の倭(やまと)朝廷であったのです。記紀はそれを神武東征に瀬戸内海行路を継ぎ足し、神武の豊前東征を畿内東征譚に書き変え、大和中心の皇統一元の大和朝廷論を造作したので、このトリック史観に1300年、日本人は出し抜かれたのです。

◆ 藤原京造営計画と九州勢力
 正史の編纂を命じたのは天武でしたが、成立した正史・『日本書紀』は、天武が破った近江朝を開いた天智を新皇祖として戴く、ねじれをもちます。それは壬申の乱で勝利した天武を賊扱いしているところに明らかです。そのため天皇位牌を祀る京都の泉涌寺は天武系七代の位牌は排除されています。それが当然なのは、天武系皇統は倭王系譜で、万世一系の天皇制は、倭王系譜さえ取り込んで一系に見せたものにすぎません。

 大和飛鳥の浄御原宮に始まった天武体制とは、天武・物部体制で、一方の朴井(物部)連雄君は物部系図では「物部守屋の子」とあります。彼は587年の蘇我・物部戦争で敗れた物部守屋の直系の子孫で、現在、桜井と名を変えた朴井に、大和を拓いた出雲系大氏を頼り、九州から逃げ延びた物部守屋の流れにあったわけです。また畿内大和は神武東征に始まったのではなく、出雲を追われた銅鐸族や大国主命の末裔が唐子・鍵遺跡を拓き、豊前を神武に追われた先在皇統のニギハヤヒ旧皇統末裔が合流し、纏向遺跡の開拓したことが、記紀皇統史の影に隠されているのです。彼らはいずれも大洲<オオクニ>と呼ばれた出雲国の大氏の流れにありました。その大氏の娘と雄君は結ばれ、大田皇女を成しますが、『日本書紀』は彼女を天智の娘に造作し、雄君隠しをしています。その大田が天武の第一皇后となり、その死後、持統が第二皇后におさまったことを『日本書紀』は隠しているのです。

 天武は飛鳥浄御原宮(写真・左)が手狭になったため、大都・藤原京の造営計画を雄君と進めます。問題はその飛鳥仏教の創出を九州仏教や吉備仏教の移築・移坐をもって始めようとしました。これには、物部氏が蘇我氏によって九州を追われた怨念が介在します。しかし、この移築・移坐計画は、都を九州から畿内に持って行かれ、打ちのめされた九州住民にとっては、長年親しんだお寺の畿内への強奪に等しく、憤激をもって迎えられたのは当然です。壬申の乱から数年して天武朝での朝参禁止、官位剥奪、流刑記事を日本書紀はこう記します。

675年 朝参禁止―当麻公広麻呂
    官位剥奪―久努臣麻呂
    流刑―麻続王一族
676年 流刑―筑紫太宰の屋垣王
677年 流刑―杙田史名倉
    勅勘―東漢直

 これは九州豪族の反抗でしょう。続いて飛鳥寺の変があり、それは679年7月に「飛鳥寺の西の槻の枝、自づから折れて落ちたり」として飛鳥寺の僧・弘聡の死を伝え、684年閏4月に「乙巳、飛鳥寺の僧福楊、坐して獄に入る。庚戌、僧・福楊、自ら頚を刺して死せぬ」とあり、この騒動の決着に天武は5年も費やしたのです。しかし天武の宮から飛鳥寺までは150mほどで、近江朝を征した天下の天武が宮そばの飛鳥寺の反抗に5年も難儀したのは腑に落ちない話です。
 この飛鳥寺の変は豊前の蘇我馬子が創建した元興寺の変のことで、豪族の抵抗に次いで九州の僧侶が、我が国最初のお寺である元興寺を中心に結束して抵抗したため、天武は手を焼いたわけです。二人の僧を殺戮し、元興寺は畿内に移築され、四天王寺となり、本尊は移坐され飛鳥寺(法興寺)の飛鳥大仏(写真・右)となったわけです。この元興寺の抵抗線を打ち破ったことを転機に、九州や吉備の寺の畿内への移築・移坐に道がつけられ、無数の古代廃寺址が旧地に残されたわけです。

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◆ 藥師寺と『吉山旧記』
 その中で、ほとんど完全な移築・移坐を見たものに藥師寺があります。それは680年に大田皇后が倒れたため、天武が藥師寺建立を発願したのに始まりますが、通説は持統として来ました。しかし、その発願によって九州は久留米の大善寺玉垂宮の前身としてあった藥師寺の移築・移坐を巡って、僧・安泰が急死します。しかし、皇后の死もあって移築・移坐は中断しますが、686年の天武崩御の後、688年に持統が飛鳥に藥師寺を移築・移坐させ、その天武の追悼式を計画するや、九州の藥師寺の檀家・吉山家の父子が殺され、次男升丸が吉山姓を藥師寺姓に改めたことを、残された『吉山旧記』(藥師寺旧記)は記します。
 それは藥師寺の移築・移坐に反対したための死で、この無念を残された升丸は、九州の吉山家に藥師寺が由来することを藥師寺姓として刻むことで歴史に残そうとしたのです。その九州の藥師寺は天武に関係ある寺であったことが、天武をして大田皇后が倒れるとそれを移築・移坐し、病気平癒を願い、発願したのですが、その創建に関わった僧・安泰や吉山家にとっては、思いもせぬものであったのです。
 大田が急死したため、その移築・移坐は沙汰止みになっていたのですが、第二皇后に納まった持統は、飛鳥に藥師寺の移築・移坐させ、天武の追悼式を営み、藥師寺が大田「皇后のため」に天武が発願したのを、持統のために発願したとする縁起の書き変えに乗り出したのです。その藥師寺東塔の基部から見つかった改版された檫銘には、「中宮のため」とあり、そのとき持統が中宮であったことを語り、その追悼式を営んだ意図を今に残しています。

 藥師寺が吉山家に関わることを『吉山旧記』で知った私は、大善寺玉垂宮を訪れ、住職や檀家総代に、「吉山家に関わる九州の藥師寺は畿内飛鳥に移築・移坐され、さらに奈良の西の京に再移転されてあるのです。それを証明するために訪れたわけですが、何か藥師寺の遺品は残っていませんか」と尋ね、唯一、残された礎石断片が境内にあるというその現場に案内されました。その境内に無造作に残された藥師寺の礎石断面(写真・左)には柱跡があるのを見た私は、それを新聞紙で型取り、「これに合う、柱石址をもつ礎石が飛鳥の藥師寺の礎石に必ずあるでしょう」と、とんぼ返りで帰阪し、翌日、豊前王朝説で知られる大芝英雄氏と飛鳥の藥師寺址を訪れ、それが96㎝の直径をもつ東塔の心礎にぴたりと重なることを実証(写真・右)しました。その飛鳥の藥師寺は長い年月をかけ、現在の西の京に移築・移坐を見たのは、東塔の九輪の台座にあった檫銘を、皇后から中宮に、つまり大田皇后から持統に書き変えることにあったのです。

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◆ 結語
 このように、大和の飛鳥仏教から白鳳仏教は九州や吉備からの移築・移坐をもって成ったのですが、記紀は大和飛鳥を中心に我が国最初の仏教文化が生まれたとしたため、その飛鳥仏教の創造主として、九州や吉備の仏教功労者をミックスして聖徳太子を皇室の刻印を打って創造したわけです。そのため倭王・多利思北孤や吉備王・上宮法王や蘇我馬子や善徳その他の仏教功績は歴史の陰に隠されたのです。

 ところで、壬申の乱で畿内飛鳥で倭国は再生を見、大和朝廷が開朝を見たのは672年のことでした。しかし、それから30年した701年に大和朝廷は大宝を建元し、日本国がそそり立ちます。大宝(三種の神器)はこのとき初めて皇統に入ったわけで、その10年後の710年に藤原京から平城京への遷都が行われます。それは百済滅亡の660年から丁度、半世紀してのことです。それはその百済王統を列島で、その翌年の660年に天智称制をもって引き継いだとする造作で、天智皇統の百済王統の忍びやかな宣言なのです。それに気づくなら、それから半世紀しての平城京遷都は列島の百済王統は奈良に都をもったことを意味します。この陰で天武が雄君と共に再興した九州王朝・倭国は抹殺を見たわけですが、その倭国から日本国へのねじれについては、次の機会があれば、お話ししたく思います。ご静聴ありがとうございました。 (2017.7.8)

 (幻想史学の会代表)

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