【コラム】槿と桜(5)

たかが正月、されど正月—韓国での正月の変遷—

延 恩株


 2015年という新しい年を迎えました。
 ただ韓国人の私からすると、これは中国などアジアの一部の方も同じでしょうけれど、まだ「正月」を迎えたという気分がピタッとしません。どこか他人ごとのようで私からは少し遠いように感じられます。

 それというのも韓国人にとっての「正月」は旧暦で行うからです。
 私を含めて韓国での正月は旧暦だと多くの人が認識しています。ただ驚くべきことに旧暦の正月「ソルナル」が政府公認となったのは盧泰愚(ノテウ)大統領時代の1989年のことで、わずか25年ほど前のことでしかないのです。

 なぜなのでしょうか。
 不幸にして朝鮮半島は1910年から1945年までの35年間は日本に支配され、正月も「新暦」で祝うことが強制されました。たとえば旧正(クジョン。旧暦の正月)に餅を作ったり、先祖への法要である「茶礼」(チャレ)を行ったり、その他正月の行事をすると処罰されたのでした。こうして「新正」(シンジョン。新暦の正月)が正月ということにされてしまいました。

 ただし日本の統治が始まる1910年以前、民間では「正月」は当然のように旧暦で行われていましたが、実は1895年の「乙未改革」(日本語読みでは いつびかいかく)では「太陰暦」(旧暦)を廃止して「太陽暦」(新暦)の採用を決定しています。そのため政府の公式行事はすべて新暦で行われ、「シンジョン」の1月1日が新年の初日と定められたのです。

 この点は韓国人でも忘れたり、知らなかったりするのですが、日本に強制される以前に朝鮮民族はみずからの手で太陽暦を採用し、「シンジョン」を正月として扱い始めた時期があったのです。

 ちなみにこの「乙未改革」とは、日清戦争(1894年7月〜95年3月)で日本が清国に勝って「下関条約」を結んだ直後の1895年4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に勧告をおこなったことに大きく関係しています。日本では「三国干渉」と呼ばれている出来事です。

 この勧告とは「下関条約」で日本の領土の一部にしてしまった遼東半島を清国に返還するよう迫った内容で、日本はこの3つの大国への対応に追われることになりました。その結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、これを好機として朝鮮時代の第26代王高宗の妃・閔妃(ミンビ)を中心にした親露派が台頭しました。結果として日本の強い影響下で進められていた近代化が頓挫することになりました。
 ところが1895年10月8日、日本公使三浦梧楼が中心となって日本軍守備隊、領事館警察官、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊ほかが景福宮に乱入し、その閔妃を暗殺してしまったのです。まさに“邪魔者は消せ”とばかりに。

 そのあとを引き継いだのが金弘集(キム・ホンジップ)で、彼はまたもや急進的な近代化政策を推進し始めました。これが「乙未改革」と呼ばれるものです。旧暦から新暦への移行を始め、断髪令、新しい年号の制定、軍制改革、学校教育制度や郵便制度の改革、科挙制度の廃止、銀本位貨幣制度の導入、度量衡の統一などが実行されました。

 しかし、これらの改革があまりにも急激だったため、保守派からの激しい反発が起きてしまい、1896年2月11日に金弘集は殺害され、乙未改革はあっけなくつぶれてしまいました。このように「乙未改革」が大変、短期間で終わってしまったため、日本の植民地化以前に「太陽暦」が導入され、新年初日は「新正」と定められたことを知らない韓国人が多いというわけです。

 こうして一般の人びとにはこれまで通り、正月は「ソルナル」、つまり旧暦の1月1日で、伝統行事として祝われてきました。つまり「乙未改革」という歴史的事実は別として、多くの韓国人には「シンジョン」という言葉はなく、「クジョン」(旧暦の正月)のみが存在し続けていたと言っていいでしょう。

 繰り返しになりますが、日本に統治されていた35年間は強制されて「新正」が続きました。ところが独立後の1945年以降も李承晩、朴正煕政権は「旧正」(旧暦の正月)への回帰を認めませんでした。その理由は、太陽暦と太陰暦の二つの正月を祝うのは「二重で新年を祝う」ことになるから無駄であるというものでした。それではその後はいったいどうなったのでしょうか。

 結局、太陽暦が推進され、「新正」が正月とされたままでした。つまり今度は韓国政府の指導で太陰暦の「旧正」は祝日にならなかったのです。

 しかし、 韓国の歴史書『三国遺事』には、西暦500年より少し前頃(新羅時代の前半頃)に「ソルラル」を祝ったという記録が残されています。一つの民族が長い歴史を刻んで守り続けてきた風習はそう簡単には消えない証明ですが、政府が「新正」を推進しても多くの家庭では、「旧正」でのお祝いを続けてきていたのです。

 そのため1985年、当時の全斗煥大統領は、「新正」はそのまま維持しながら、一方で「民俗の日」という名称で「旧正」の1月1日だけを祝日に指定しました。いわば“笛吹けど踊らず”状態の国民を見て、一種の妥協案を提示したというところでしょうか。
 でも妥協案は所詮は妥協案でしかありませんでした。

 「民族の日」では国民は納得せず、きちんと伝統文化や風習を尊重すべきだという声が高まってきました。こうして1989年に先述のように「旧正」が正式に復活し、「民族の日」は消えていったのです。

 「ソルナル」が戻り、現在は3日間が祝日となっています。その一方で「新正」は元旦のみ休みとなり、正月行事は通常は行われなくなっています。これが韓国での「正月」を巡る変遷です。

 ごく当たり前のことなのですが、ある伝統を守り、維持するにはその民族の歴史と民族の意識が塗り込められているのだということをあらためて再認識した次第です。

 (筆者は大妻女子大学准教授)


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