■【書評】

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
加藤陽子著 朝日出版社刊 定価1700円

                           山口 希望
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  第9回小林秀雄賞受賞作である。歴史書としては異例のベストセラーだ。出版
元の朝日出版編集部に問い合わせたところ、すでに20刷、20万部とのことである。
問い合わせ後、思いがけず編集者の鈴木久仁子さんから折り返しの電話をいた
だいた。通常、この種の歴史書は中高年層の読者が多いのだが、本書は主婦から
子ども、高校生、ビジネスマンまで幅広い読者層を獲得しているとお聞きした。

 本書は、加藤陽子東京大学教授が、神奈川県の栄光学園歴史研究部の中高生
(中学校一年生から高校二年生まで)を対象に、5日間の講義を行った記録がも
とになっている。「歴史好きのための特別講座」と名づけたのは、リンカーンの
「人民の、人民による、人民のための」という有名な演説を意識したからだという。

 しかし、「歴女(加藤教授)」による、「歴史オタク(歴史研の生徒)」のた
めのマニアックな講座ではない。版を重ね、多くの読者に親しまれているのは、
加藤教授による、十分に練り上げられた講義内容のゆえである。本書を読むこと
によって、正史としての日本史を、最新の研究成果(宇都宮太郎の日記や胡適の
「日本切腹、中国介錯論」など)とともに学ぶことができる。それと同時に、歴
史家になるために必要な思考方法も示されている。カギ括弧の付け方、時代ごと
の用語の変遷や順番なども本書を参照すれば間違いない。

 当然ながら講座のレベルは高く、聞く側のレベルもまた高い。1930年代日本の
外交と軍事研究の第一人者である東京大学教授による、東大合格率トップクラス
の進学校・栄光学園の生徒を対象にした講義である。質問に答える生徒たちの感
性の鋭さ、しなやかさ、しばしばそれにたじろぎながらも生徒をやりこめていく
先生、この両者の丁々発止が小気味よい。読者もまた、教室にいるような臨場感
を味わうことができる。

 それにしても、加藤陽子教授はツカミがうまい。日本の暗い近現代史を一気に
読ませてしまう。教授のかつての論考「私が書きたい『理想の教科書』」(『中
央公論』2002年9月号)には、そのための二つの方法論が示されている。

 第一には、「日本だけでなく、世界も含めて歴史研究の第一線で論じられたり
考えられたりしている日本史の「問い」には、いったいどのようなものがあるの
かが明確にされている」ことだという。もちろん、その「問い」とは「高校生で
ある読み手にとって切実かつ了解可能なものでなければならない」。

 しかし、「学習すべき多くの科目を課され、クラブ活動にもいそしみ、友人と
もさかんにメール交換し合う高校生は大人以上に」忙しい。そのため、「高校生
のハートをつかんで日本史のほうに向かせるには、ある歴史研究が生み出される
原初の場の「凄み」を見せるところからスタートするしかない」。

 その第二には、「現在、世界中の日本史研究者に注目されている日本近代史研
究のテーマの一つ」である、「日本の帝国(植民地)支配が正当かつ必要である
と、戦前の普通の日本人に思わせるに足る論理にはどのようなものがあったの
か」という「問い」=問題」の提示が必要だということである。

 アメリカの日本史研究者たちは、「一九九一年の湾岸戦争時アメリカ国内に起
こった戦争熱と一九三一年や四一年の、戦時日本に起きていた戦争熱が比較可能
であること」にショックを受ける。そこから、「普通の善き日本人が戦争を心か
ら支持していったことはなぜなのか」という研究に向かったのだという。

 彼らは、「西欧的な近代化・民主化をしそこねた国として位置づけられていた
戦前期の日本と、近代化・民主化の到達点であったはずのアメリカが、帝国主義
のシステムという側面では同じことをやっていたのかもしれないという」驚きを
受け入れ、新たな日本史研究の「問い」を発した。これこそが原初の場の「凄
み」であろう。それは、本書冒頭で明かされる。

 2002年の上記論考が見事に開花したものが本書だといえるだろう。「おわり
に」でも述べられていることだが、「私が書きたい『理想の教科書』」を読んだ
編集者の鈴木久仁子さんが、加藤助教授(当時)に「私が読みたい『理想の教科
書』」の執筆を依頼したのが本書誕生のきっかけだった。名著の陰に名編集者あ
り。装丁やレイアウトのよさは間違いなく本書読解の導きとなっており、発行部
数に貢献しているだろう。

 ところで、小林秀雄賞が発表された『考える人』秋号(新潮社)の受賞者インタ
ビューによると、上記論考は、当時、高校日本史の教科書執筆を体験した加藤教
授の「敗戦の辞」だったのだという。教授によると、検定教科書とは「精緻に定
義された用語と用語のあいだを最小限の因果関係で埋め、歴史的事実の意義や評
価に極力ふれずに、細部のあくなき正確さをめざすという、独特の「教科書スタ
イル」とでもいうべき歴史叙述法」によるものであった。

 日本史の教科書が読んでもつまらなく、「暗記科目」に甘んじているのは、現
在の教科書検定システムに原因があるのだ。また、その一つのアンチテーゼとし
て「新しい教科書をつくる会」の動きがあったことも指摘されている。だが、加
藤助教授(当時)が書きたい教科書はそのどちらでもなかった。小林賞の評者の
一人、堀江敏幸氏が選評において、「いらだち」が本書を支えていると評してい
るのも、こうした本書の成り立ちを的確にとらえたものだろう。

 教授はインタビューで、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の「それで
も」は、「日本には最後の最後まで合理的な選択肢は残されていたのに、という
「悔い」の思いがこめられて」いると語っている。

 すでに述べたように本書は、9.11テロと日中戦争期の日本との意外な共通点を
指摘することから始まる。両国民ともに、事件を「相手が悪いことをしたのだか
ら、武力行使をするのが当然で、しかもその武力行使をあたかも警察が悪い人を
取り締まるかのような感覚でとらえていた」(22頁)ことが明らかにされている。

 ひるがえって現在、尖閣諸島問題が日中間の大きな火種になっている。中国人
船長の逮捕問題について、大多数の国民は「警察が悪い人を取り締まるかのよう
な感覚で」とらえている。だが、国際的にみれば日中両国がともに領有権を主張
している係争地である。国内法だけで対処しても、火種が消えることにはならな
い。

 本書で指摘されているように、1935年当時、中国の胡適はアメリカの海軍力と
ソビエトの陸軍力を巻き込むために、中国は2、3年間、国内で負け続けなければ
ならないという「日本切腹、中国介錯論」を打ち出す。これに対し、汪兆銘はそ
んなことをしたら中国はソビエト化してしまうと反論した。二人の暗い見通しは
どちらも的中する。

 加藤教授は、対極にある両者の「深い決意」をみて、中国には「政治」がきち
んとあり、こうした思想が国を支えたのだと考える。歴史学習とは、「与えられ
た情報のなかで、必死に、過去の事例を広い範囲で思い出し、最も適切な事例を
探しだし、歴史を選択して用いる事ができる」ためのスキルを磨くことである。
この加藤教授の願いに対し、現在の政治家は「深い決意」を示すことができるだ
ろうか。 一年ももたずに首相が替わる日本の内閣のサイクルは、1930年代から
変わっていない。

      (法政大学大学院政策科学研究所特任研究員)

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