【コラム】
ザ・障害者(26)
これが私のイデオロギーだ!
障害者基本法第一条(目的)には、「全ての国民が、障害の有無に関わらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念に則り、全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重しあいながら共生する社会を実現する・・・・」とある。
理念法としてのこの崇高な理念も、残念ながら現実を映し出す実定法ではそれが十分生かされていない。理念の現実化には程遠い。むしろ、こうした理念が現実としての実態の矛盾を隠蔽する役割を担ってしまっているとさえいえる。
分離と隔離、格差と分断、能力主義と競争主義、そして自己責任の受忍論、こうして、結果としてはせっかくの崇高な理念もこれらの不条理な実態を日々再生産することにつながってはいないだろうか。
では、これらを打破するためには一体何をなすべきなのか? それはイデオロギーの復権である。日々日常の変革を求める主体的なイデオロギーである。
イデオロギーとは、本来、いまだ実現していない未来社会の最高観念のことであって、たとえば、それは身分制封建社会の王政に対するフランス革命の思想、すなわちそれがイデオロギーである。市民革命のイデオロギーなのである。
自由、平等、友愛、それは近代資本主義以前までの封建制身分社会に対するイデオロギーであった。根本から根底を変える実践を伴う社会変革の思想、すなわちそれがイデオロギーである。
しかし、だからこそ、近代資本主義以降の現代資本主義にあっては、今日までの資本主義イデオロギーはもはや資本主義経済社会の発展と完成をもって、その役割を終える。その時、イデオロギーはイデオロギーとしての使命を終えて、私たち万人の常識となる。だから、現代社会を何の疑いもなく当たり前に生きている大衆にとっては、資本主義イデオロギーをもって生きているとは感じられない、感じる必要性はないのである。自然体である。それはイデオロギーがすでに内面化、常識化、つまり日常の観念になっているからに他ならない。
要するにそこで言えることは、疎外とは、自己疎外とは疎外されていることの意識を持てない状態に置かれていることである。それに引き換え、もし仮に資本主義を否定するならば、それは資本主義を超えたオルタナティブなイデオロギーをもった人間として不条理な現実社会を生きていかなければならず、息苦しく、また自然体ではいられない。しかし、それを許すほど現実は甘くない。
第一条の理念もそうだ。「等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念に則り、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に個性を尊重しあいながら共生する」という理念を真に受けて理念通りに受け入れたなら、それはとても息苦しい現実が待っているということになる。
一方、経済さえ発展すれば、経済成長さえ達成すれば、私たちは、人類はしあわせになれると信じ込まされてきた。だからひたすら経済成長のみを追い求め、それになんら疑問をはさまなかった。今でもそうかもしれない。経済発展の果実は、富はいずれ全ての人に平等にいきわたると信じてきた。トリクルダウンである。
ところが、今やその現実は私たちを見事に裏切ることとなった。いくら頑張っても経済成長の果実、富は下に落ちてこない。世界的規模でも、国内的関係でも、それは落ちてこない。それどころか格差がますます広がり、分断と排外主義がはびこるばかりとなっている。そんな状況下、国連でもそれまでの「経済開発」のあり方を見直し、その「開発」の意味を問うようになった。
国連では2015年に、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を採択し、そのSDGsの中心的文言に「誰も置き去りにしない社会の実現をめざして」とある。2030年に向けて、国際社会は17の目標と169のターゲットを定めた。従来のこれまでの「開発」を見直し、「誰も置き去りにしない社会」としたのである。
私たちがめざすべきものは新自由主義的なグローバリズムではなく、連帯と共生のインターナショナリズムの世界、そのような経済社会である。そして、「障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重しあいながら」の共生主義(CONVIVIALISM)、すなわち共生社会・主義。それは市民社会に代わって「共民社会」、市民に代わって「共民」。これが私のイデオロギーだ。
(元参議院議員・共同連代表)
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