【コラム】
ザ・障害者(25)

お釈迦様を悲しませるな!

堀 利和


 障害者の存在は歴史的にみても疎外と隔離、抹殺の歴史であったといっても過言ではないが、しかしその一方では例外的にかつ一時的に「神」的存在として畏怖の念をもって崇められた歴史もあった。また、アフリカの部族で男たちが遠く狩りにでかけた際、大切な火を守っていたのが体の不自由な者であったともいわれている。
 近代資本主義社会以降はその差別構造が一方的かつ一面的となる中、現代的意味での社会福祉とその政策、たとえばイギリスの救貧法が制定されるなどした。『人口論』の著者で有名なマルサスは、優生思想の下に自国の救貧法に反対したのだが…。そして時代を経て、ドイツではワイマール憲法において初めて「生存権保障」が規定される。その後はさらにイギリスにおいて「ゆりかごから墓場まで」のビバリッジ報告が出されて、北欧を中心に西洋では高福祉国家への道を歩むこととなった。

 障害者問題にひきつけていえば、近代日本では大正時代に初めて工場法に「障害者」という概念が規定された。しかし戦後福祉国家をめざした日本では、公的扶助や国民年金、医療保険制度等は一応整理されてきているのだが、本格的に福祉国家を目指そうとした70年代から80年代にかけての経済成長にも陰りが見え、財政危機に陥ったことにより高福祉国家への道は断念せざるを得なくなった。そのことは、国連関係の幸福度ランキング直近の調査でも、日本はなんと58番目になっているという。それもまたその証左であろう。
 障害者にも確かに年金、医療、福祉サービス、雇用政策などはある程度用意されて、一定の政策水準にまで達していることも事実だが、障害者世帯の所得水準を見ると一般的に低く、ある意味「劣等処遇」の状態に置かれれているといっても言える。このことは現代的な格差社会、あるいは労働者が置かれている今日的雇用環境、生活環境、とどのつまり社会的環境に目を転じてみれば、よくわかる。まさに現代は格差社会そのものである。

 古典的階級史観では資本家と労働者階級(地主もあるが)の二大階級の闘争と位置付けられてきた。しかし、資本主義の発展的変質とグローバル経済の下では、現代はそう単純ではない。労働者階級の中にすでに三つの階層分化が始まっており、一つは高度プロフェッショナル制度や裁量労働制を対象にした労働者、二つめは従来型の正社員・サラリーマン、そして3つめは今や労働者の4割を占める非正規労働者である。二代階級を本質としながらも、もはや労働者階級は三階層に分裂分断、格差社会の渦の中に投げ込まれているといってよい。労働者よ 団結せよと言っても、今や労働者も自立した市民として消費者でもある。

 非正規労働者が4割であるのに対して、障害者の実雇用率は上がっているものの、そのうち非正規障害労働者はなんと6割以上をはるかに超えている実態がある。また、障害の属性という行政上の「障害」とは異なって、ひきこもり(ある意味精神疾患状態)のうち39才までが54万人、40才から64才までが61万人、合わせて引きこもり全体が115万人となる。いわば彼らを「社会的環境の障害者」ということもできる。ちなみに視覚障害者は31万人、聴覚障害者は33万人である。
 今日的格差社会はすなわち労働者階級の三階層文化の結果であるとともに、その証左でもある。社会的に排除された人々を大量に生み出すこととなった。

 だが、なぜそれに反抗しないのか?それは「自己責任」論、それがあまりにも社会の、つまり私たちの日常の意識にまで深く浸み込んでしまっているからであろう。今ではさすがに障害者の「障害」を自己責任とは言わないまでも、しかしこの自己責任論や能力主義が無前提に障害者に対して向けられているのも確かである。そうであるがゆえに、多くの人々がそれに苦しんでいるのも現状であろう。その自己責任論や能力主義に苦しんでいる人々、格差と排除に喘いでいる人々に、私たち障害者も深く共感共鳴連帯し、格差社会を撃て!
 当事者主義に陥りがちな私たち障害者も、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のカンダタに陥らないよう、そしてお釈迦様が蓮のほとりで悲しまないように・・・・すべきであろう。

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