【コラム】風と土のカルテ(96)

ある軍医の遺書と戦争の「正義」

色平 哲郎

 ロシア軍のウクライナ侵攻で、残虐な「戦争犯罪」が行われた可能性が高まっている。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の報道官は「ロシア軍は居住区に対して無差別的に砲撃したり、爆撃したりし、民間人を殺害したほか、病院や学校、その他の民間インフラを破壊した」[注1]と指摘した。

 ウクライナ侵攻は情報戦の色が濃く、「事実」を断定しにくいが、3月9日には南部の都市マリウポリの産科・小児病院が空爆を受けたと多くのメディアが報じている。ウクライナのゼレンスキー大統領は、「病院や産院を恐れて破壊するなんて、ロシア連邦とは一体なんて国なんだ」「もはや残虐行為を超えている。侵略者がマリウポリに対してやっていることは全て、もはや残虐行為を超えている」[注2]とビデオ画像で述べたという。

 戦争を仕掛けたロシアの指導者、プーチン大統領の罪が深いのはいうまでもない。と同時に戦火が広がれば、集団的狂気の中で善悪の境界は消え、殺りくが繰り返される。

 昨年2月、このコラムで『戦争医学の汚辱にふれて─生体解剖事件始末記─』(文藝春秋 1957年12月号 平光吾一著、青空文庫で公開)を紹介した(過去記事:「『海と毒薬』の真実」 https://bit.ly/3sl0GnD)。

 まさか1年後に本当に戦争が始まるとは思ってもいなかったが、この文章は太平洋戦争中、九州の大学附属病院における米軍捕虜の生体解剖事件に心ならずも関わった医師が書いたものだ。

 BC級戦犯を裁く横浜軍事法廷で死刑を免れた医師は、始末記にこう記す。

 「日本は戦いに敗れた。そして日本の主権は否定され、政府あるいは命令の主体が勝敗によって『罪』と定められれば、その命令に従った者も罪人になることは自明の理である。しかし私はこの罪たるべきものが、戦争に勝っていれば、明らかに勲功として賞せられることを考え合せると、戦争裁判というものに不思議な感慨を抱くのである」

 勝者の「正義」への不可解さに多くの人が同調するだろう。

●申し開きをしなかった軍医の倫理観

 ところが、同じ太平洋戦争の後、正義が勝敗に左右され得る状況の中、あえて上官や部下の罪をかぶって処刑された軍医もいた。元海軍軍医中佐の上野千里という人だ。

 1944年6月、上野がいたトラック島基地には5人の米軍捕虜が収容されていた。米軍機の空襲によって捕虜の3人が即死、2人が傷つきながらも辛うじて生き残った。上官は「あの2人をすぐ片づけよ」と上野に命じる。しかし、上野は反発する。
 「人命を取扱ふ一個の外科医として何ら恥かしくない用意と手順に依つて」[注3]患者の命を救おうと手術に取りかかる。
 手術が終わりかけたころ、司令副長の「総員集合」の命令がかかり、手術室を離れた。その間に患者は別の場所に移されて、「処刑」されたのだった。

 終戦後、グアム島の軍事法廷で、上野は一切の申し開きをせず、死刑を受け入れる。その心境を手記にこうつづる。

 「私は私が重い罰を受けたことよりも多数の部下が始めから起訴すらされなかつたことの喜びの方が心の大部を占める自分が嬉しくあります。私の男はこれで死んで生きることができました。部下の多数はトラック島にあつた時そのままの私の顔をきつと久しく思い返し、新生日本の一員として私の分まで働いてくれるでせう。文字にできぬ点もあります。お察し下さい」

 ここには、軍の序列や、医学界のタテのしがらみ、個人の欲などととかけ離れた倫理観がある。上野は「遺詠」と題した詩に、こう記す(一部抜粋)。

 醜い世の中に思はず立ちあぐんでも
 見てごらんほらあんなに青い空を
 みんなが何も持つていないと嘲つても
 みんな知つているもつと美しい本当に尊いものを。

 愛とまことと太陽に時々雨さえあれば
 あとはそんなにほしくない
 丈夫なからだとほんの少しのパンがあれば
 上機嫌でニコニコ歩きたい。

 仏教学者の紀野一義は、著書『維摩経』(大蔵出版、2004)の第7章「こころの花」で、上野の詩について、次のように言及している。

 「『愛とまことと太陽に時々雨さえあれば』というのが実によいと思う。人間大事なものは『愛』である。それから『まこと』、ひら仮名のまこと、これは小さいことである。苦しんでいたらちょっと助けてあげるとか、電車賃がなかったら貸してあげるとか、何でもない小さいこと。人間というのは、小さいことで悩み、小さいことで救われる」

 戦争の報復の連鎖が懸念される中、後を生きる者に思いを託した上野の言葉が心に迫ってくる。

[注1]AFP=時事、2022年4月22日
[注2]BBC NEWS JAPAN、2022年3月10日
[注3]巣鴨遺書編纂会『世紀の遺書』(講談社、1984)

 (長野県佐久総合病院医師、『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2022年4月28日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202204/574834.html

(2022.5.20)
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