【コラム】
槿と桜(66)
あなたのスプーンは何色?
「あなたのスプーンは何色?」と訊かれた日本の方は、たぶんその意味がわからないだろうと思います。でも韓国の人なら、特に若者は即座に反応するはずです。
これに関連して、2019年のカンヌ国際映画祭で韓国映画初となる、最高賞のパルムドールを受賞し、さらに2020年2月9日のアカデミー賞では作品賞など4部門で受賞した『パラサイト』という映画は日本でもかなり取り上げられていましたから、ご存知の方も多いかと思います。韓国では2019年5月30日に公開され、公開53日で観客動員数が1,000万人を超えたと言われています。韓国の人口が約5,000万人ですから、いかに大きな反響を呼んだ映画であるのかがわかると思います。
この映画こそ、単純化して言えば、スプーンの違いを描いていると言えるでしょう。明るく広い豪邸に暮らす富裕層と暗く狭い半地下で暮らす貧困層の家族をブラックユーモア的に描いた作品だからです。
つまり、現在の韓国社会でますます顕在化してきている経済格差、不公正問題を、映画というメディアが衝撃的に取り上げたとも言えるのです。
今から3年ほど前の2016年頃に「ヘル朝鮮」という言葉が流行していました。「地獄のような朝鮮」という意味で、韓国社会の経済格差、就職難、社会的不公正などを揶揄していました。それに続いて「金の匙」(クㇺスジョ:금수저)という言葉が注目され始めました(2015年頃から言われ始めていたのですが)。これについて私は『オルタ』155号(2016年11月号)に書いていますので、その一部を引用します。
「もともとはイギリスの“Born with a silver spoon in one's mouth”(銀の匙を口にして生まれてきた)ということわざで、親が銀の匙を持つほどであれば、その子は幸せに暮らせるだろうという意味で使われています。
ところが韓国では、いろいろな匙(「金の匙」「銅の匙」「泥の匙」など。貧富の差によって差別化)を持ち出して、人生は金持ちの家庭に生まれたか、貧しい家庭に生まれたかによって決まってしまうという解釈にしたわけです。ですから「金の匙」とは、親が最も経済力があって、恵まれた生活が送れる子どもの階層を指すことになります」
冒頭の「あなたのスプーンは何色?」とは、〝あなたの親の経済的なレベルはどのあたりで、それがどのくらいあなたの人生に関わり、また生活レベルの維持に役立っているの?〟といった意味合いが込められているのです。
かつてこの言葉が使われ始めた韓国は朴(パㇰ)槿(グ)恵(ネ)(박근혜)前大統領の時代でした。2013年に就任以来、経済面では財閥に依存した韓国の経済構造から脱け出し、大企業に頼らないベンチャー企業や、中小企業育成などの改革を目指しましたが、思惑通りにはいきませんでした。そして、政治的スキャンダルなどで、2017年3月に大統領弾劾が成立して罷免されました。
そのあとの文在寅(ムンジェイン)(문재인)大統領は社会的な平等、経済的な公正を掲げ、機会均等、公正な競争を推し進めるはずでした。「3年間で最低賃金を1時間1,000円に引き上げ、雇用81万人増、週労働時間短縮」が文大統領の経済政策の目玉でした。
確かに最低賃金をかなり高い水準にまで、強引に引き上げました。しかし、多くの雇用者側が採用を減らしたり、合理化をはかったりと、文政権が予想しなかった自衛手段に転じました。その結果、韓国統計局によると、2018年の若者(15~29歳)の失業率は9.5%に達してしまいました。これは、韓国全体の失業率3.8%のほぼ2.5倍にあたります。
文大統領が予測した経済状況とは大きく異なり、好転しないまま、そのしわ寄せが若者に集中することになってしまいました。数字に表われないアルバイトをしている若者やフリーター、就職浪人を含めると正式な雇用関係を結ぶことができないでいる人は20%以上になるだろうと言われています。つまり若者の5人に1人が正式な職に就くことができないでいるのです。
こうして韓国社会での勝ち組と負け組がよりはっきり現われ、高所得層と低所得層の所得格差は、朴槿恵前大統領の時代よりさらに悪化してしまっています。
さらに若者に失望感を与え、怒りに向かわせたのが曺国(チョグク)(조국)前法務部長官をめぐる汚職疑惑でした。
2019年8月に法務部長官候補と文大統領から指名されたのち、娘の高麗(コリョ)大学不正入学疑惑や私募ファンドへの不正投資問題などが表面化しました。9月2日の緊急記者会見では疑惑を全否定しましたが、9月6日夜には曺国の妻で東洋(トンヤン)大学教授の鄭慶心(チョンギョシム)(정경심)が私文書偽造容疑で在宅起訴されました(10月24日に逮捕される)。
それでも文在寅大統領は9月9日に曺国を法務部長官に任命するという、あまりにも側近重視人事を強行しましたが、就任からわずか35日目の10月14日に辞任を発表しました。
朴槿恵政権崩壊の要因の一つとなった崔順実(チェスンシル)(최순실)事件では、崔順実の娘の不正入学疑惑を強く批判し、韓国の学歴社会を批判していた曺国が同じようなことをしていたわけです。彼はむいてもむいても疑惑が出てくることから「タマネギ男(양파남)」などとも揶揄されましたが、この汚職疑惑は文政権を支持してきていた若者に失望感を与えました。
たとえ大学を出てもまともに就職できず、生活に苦しむ多くの若者に、裕福な親を持つ者がその親の地位と資産の助けによって、さらに優位に立つという不公正、不公平な実態を、信頼し、支持してきた文政権内部から見せつけられる結果になってしまったのでした。
社会的・経済的公正を公約に掲げて政権の座に就いた文在寅大統領でしたが、格差は拡大し、韓国の若者にはむしろ将来への不安を増大させる結果になってしまいました。
こうして、今や低所得世帯の出身者を意味する「泥のスプーン」組と、裕福な家庭の出身者を示す「金のスプーン」組という言葉が日常的にだけでなく、政治的にも使われるようになっています。
「金のスプーン」「泥のスプーン」が一時的な流行語として、文大統領が就任した2017年頃は、やがて消えていくはずのものだったのですが、現在の韓国には「スプーン階級論」(수저계급론)という言葉までが定着してしまっています。もちろん「親の職業や経済力が子どもの人生を決定し、本人の努力だけでは社会的に上の階層に行くことができない」という捉え方です。
このように見てきますと映画『パラサイト』のアカデミー賞受賞は韓国映画界の快挙と言え、喜ばしいことですが、単純に喜んでばかりいられないようです。
特に文大統領はこの映画をみずからに与えられた貴重な教材として受け止め、国民の関心がどこに向けられ、何をしなければならないかを真摯に学び取らないといけないようです。
(大妻女子大学准教授)
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