【沖縄の地鳴り】
「不沈空母沖縄」—— 山之口 貘
守礼の門のない沖縄
崇元寺のない沖縄
がじまるの木のない沖縄
梯梧の花の咲かない沖縄
那覇の港に山原船のない沖縄
在京30年のぼくの中の沖縄とは
まるで違った沖縄だという
それでも沖縄からの人だと聞けば
守礼の門はどうなったのかとたずね
崇元寺はどうなのかとたずね
がじまるや梯梧についてたずねたのだ
まもなく戦禍の惨劇から立ち上り
傷だらけの肉体をひきずって
どうやら沖縄が生き延びたところは
不沈母艦沖縄だ
いま80万のみじめな生命達が
甲板の片隅に追いつめられていて
鉄やコンクリートの上では
米を作る手立てもなく
死を与えろと叫んでいるのだ
山之口 貘(1903年〜1963年)は、1958年11月、33年ぶりに故郷沖縄に帰った。講和発行後も米軍占領下にある故郷の山河にふれ、その状況を「不沈空母沖縄」と表現した。詩人の慧眼はさすがである。「不沈空母沖縄」は辺野古新基地建設によって、50年、100年後も「不沈空母」としてアメリカと本土の生贄にされようとしている。山之内貘の「沖縄随筆集」に以下のような一文がある。
「軍艦沖縄は、どこの国の軍艦なのか。ぼくなどが云うまでもなく、読者の知っているところであろう。その軍艦の上に、軍艦用の人間たちが住んでいることはもちろんなのだろうが、地球用の人間ではあっても、決して、軍艦用の人間ではない筈の沖縄人が、何十万も軍艦の上に住んでいるわけなのだ。仏桑花も梯梧も、その生えるところに悩み、その花を咲かせるにこまっているのではないかと同郷のぼくなどは案じないではいられないのだ。」(A・N)
(注)(仏桑花—ブッソウゲ・沖縄では赤花ともハイビスカス とも言う。梯梧— デイゴ・マレー半島が原産。日本では沖縄県が北限とされている。春から初夏にかけて咲く赤い花が有名。1967年、県民の投票により「沖縄県の花」として選定)
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●砂川闘争60年と辺野古新基地反対闘争 —非暴力闘争の共通性 —
◆砂川最高裁判決は、アメリカの強制によって出された“合憲判決”
今年は砂川闘争開始以来ちょうど60年になる。砂川町には戦争中から陸軍の飛行場があり、町民は米軍の空襲によって焼け出された。敗戦とともに米軍基地として接収され、米軍機の轟音の下での生活を余儀なくされていた。その生活を根本から奪おうという新たな米軍基地の拡張計画が1955年に発表された。そこから戦後最大の基地反対闘争としての砂川闘争が始まった。その記念すべき年に砂川と沖縄の連帯がまた始まろうとしている。
砂川反対同盟の副行動隊長として、1982年69歳で亡くなるまで、全国の住民運動のまとめ役を果たしたのが、宮岡政雄さんである。その次女で、砂川闘争開始の1955年には小学校一年生だった福島京子さん(65歳)(砂川平和ひろば)が、仲間の友人女性ら数人と、辺野古で戦う沖縄の闘争に連帯すべく、6月末に沖縄に渡ることになった。1969年米軍の砂川基地撤退によって、とっくの昔に終わったはずの砂川米軍基地反対闘争がいま脚光を浴びている。安倍内閣が、いわゆる「戦争法案」における集団的自衛権の理論的根拠として1959年の砂川違憲判決を覆した「最高裁判決」を掲げたことによるものだ。弁護士資格を持つ高村副総裁が、いかにも得意げに「砂川最高裁判決によって集団的自衛権は認められている」と言い放ったころからおかしくなった。しかも自民党推薦の学者をはじめ3人の憲法学者がすべて「今回の戦争法案は憲法九条の規定に違反する」と明言、にわかに旗色がおかしくなった。
高村副総裁のいう、「砂川違憲判決」を覆した「最高裁判決」なるものは、すでに数年前、アメリカ国務省の機密文書公開によって、アメリカ側の圧力によって出されたものであることが暴露された。これを根拠として、1957年に米軍基地内に入って有罪判決を受けた当時の土屋元学連委員長ら被告4人が昨年6月、「公正な裁判を受ける権利を侵害された」として、50数年前の判決を取り消す免訴を求めて再審請求をした。高村副総裁らが、鬼の首をとったようにとり上げた「砂川最高裁判決」なるものは、米側の機密文書の公開によって、アメリカの強制による判決だったことが暴露された。それが判明して、憲法学者のみならず、国民世論もまた「集団的自衛権の行使は憲法違反」という批判がさらに高まっている。いまやマスコミも、最高裁砂川判決の「裏の実態」に目を向けざるを得なくなった。高村発言は、戦後日本の歴史の汚点ともいうべき恥ずべき対米従属の「砂川最高裁判決」の真実を明らかすることに貢献したともいえる。
自民党の高村正彦副総裁らが集団的自衛権の行使を認める根拠として、1959年の砂川事件の最高裁判決を持ち出していることについて、元被告の弁護団が6月12日、東京都内で記者会見し、「国民を惑わすだけの強弁だ」と批判する声明を出した。弁護団は、高村氏が同様の主張をした昨年も声明を出した。今回は「最高裁判決は、米軍駐留は憲法9条に違反するかといった点について示しただけで、集団的自衛権の在り方や行使に触れるところは全くない」と指摘。「一刻も早く提案している法案を撤回すべきだ」と求めた。会見した新井章弁護士(84)は「高村氏がなぜ最高裁判決にこだわるのか分からない。法案の正当性に自信がないから、寄りすがるのか」と推測。山本博弁護士(84)は「学者に違憲だと言われて判決を引っ張り出してきたが、最高裁は集団的自衛権について何も言っていない」と強調した。内藤功弁護士(84)は、当時の田中耕太郎最高裁長官が米側に最高裁判決の内容の見通しなどを伝えていたことが米公文書で明らかになったとして「不当な判決で、引用すること自体が適切でない」と批判した。
◆宮岡副行動隊長と沖縄のガンジー 伊江島闘争の阿波根昌鴻の交流
もう一つは、砂川闘争と沖縄米軍基地反対闘争における共通性と連帯の歴史の再発見という点だ。沖縄の米軍基地反対運動と砂川米軍基地拡張反対運動には、多くの共通点がある。共通点はともに1955年からの砂川闘争のころに、沖縄ではプライス勧告反対ののろしが上がった。全島挙げての祖国復帰闘争が始まった時期だった。宮岡政雄さんが書き残した『砂川闘争の記録』年表にはそれが残っている。総評・全学連などがともにたたかった56年砂川闘争ピークのころ、沖縄祖国復帰協の人々が砂川に何度か来訪している。年表を見ると砂川と沖縄の闘争が合い呼応している。この頃、砂川の宮崎傳右衛門町長と屋良朝苗沖縄主席との電話会談というのもあった。宮岡政雄さんの砂川闘争年表によれば、米軍基地反対闘争では砂川と沖縄は歴史的な共闘を行っていた。
砂川闘争と沖縄闘争の関連年表 1956年
・7.12 安里積千代、知念朝功、翁長助静氏、人権問題で衆院法務委員会証言
・7.15 沖縄の中曽根、知念氏ら沖縄代表4名、砂川町で反対同盟と懇談
・7.28 東京地評、京橋公会堂で「沖縄と砂川を守る都民大会」開催。四原則貫徹沖縄県民大会、那覇では10万余が参加の県民大会
・8.20 瀬長亀次郎氏ら沖縄代表、砂川へ
もう一つの発見は、沖縄の米軍基地反対闘争で非暴力不服従を貫いた「沖縄のガンジー」といわれる阿波根昌鴻(あわごん しょうこう)と宮岡政雄さんとの交流があったことだ。この2人の交流を示す記録が福島京子さんの手によって発見された。以下のハガキと写真である。これは1972年3月19日、砂川で開かれた「住民運動総決起集会」の決議文を、宮岡さんが阿波根氏に送ったことに対する謝礼のハガキである。福島京子さんの記憶によると「父は何回か沖縄に出かけていた。そのなかで阿波根さんとの深い交流ができたのではないか」と言う。絵葉書には『「三、一九の決議と声明」を受け取りました。総決起大会の御成功御苦労様でした 皆さんの力強い御活躍に連帯の拍手を送ります この写真の米兵のパラシュートです。農耕中の畑、民家、道路 どことなく落下してきます。それも人殺しにつながるものです』と書かれている。
(写真 1972年3月19日の住民運動総決起大会決議文などを送った宮岡政雄さんにたいする阿波根昌鴻さんの礼状ハガキ)
「沖縄のガンジー」は何思う? 辺野古集会に阿波根昌鴻さん像と題して、沖縄タイムス(2015・3・22)が以下の記事を載せている。(ハガキ写真参照)
—この人は今の沖縄をどう見ているだろうか。1950年代、米軍による土地の強制接収に非暴力の抵抗を貫き、「沖縄のガンジー」と称された伊江島の故阿波根昌鴻さん(1901〜2002年)。命日の21日、名護市瀬嵩の浜で開かれた集会に、阿波根さんの木彫りの像が現れた。「島ぐるみ闘争の種火となった阿波根さんを、集会に参加させよう」。像を作った彫刻家の金城実さん(76)が呼び掛け、伊江島の資料館「ヌチドゥタカラの家」からこの日、会場に運び込まれた。亡くなって13年。館長の謝花悦子さん(76)は「今の沖縄を見たら、天国で落ち着いておられないでしょう。今こそ非暴力の闘いが必要だと思っているのではないでしょうか」と想像する。ある光景がよぎる。連日、権力と民意がぶつかり合う米軍キャンプ・シュワブ・ゲート前。新基地建設に反対する人が警察官や国の役人、米兵に対し、荒々しい言葉をぶつけていた。国が強行に事を進めるたび、それにあらがう人の言葉も先鋭化することがある。阿波根さんが1954年に唱えた抗議行動のルール、「陳情規定」にはこういうものがある。「道理と誠意を持って幼い子供を教え導く態度で話す」「決して短気をおこしたり相手の悪口を言わない」「沖縄人同士は決してケンカしない」金城さんも想像していた。「阿波根さんなら、住民の闘いで必要なのは武器じゃなくて知恵だよって言うんじゃないかなあ」(榮門琴音)
◆阿波根昌鴻と島ぐるみ闘争 非暴力の抵抗
わたしは阿波根昌鴻のことは不明にして詳しく知らなかった。数年前、元社民党参議員で沖縄出身の山内徳信氏の話を聞く機会があった。山内氏もかつて沖縄読谷村長時代、米軍施設撤回を勝ち取った経験を持つ。その読谷村の闘争の原点は、伊江島の米軍基地強制接収に抗議して立ち上がった阿波根昌鴻氏の非暴力不服従の住民運動だった。山内氏は以下のように述べた。
—2002年、101歳で亡くなった阿波根昌鴻は伊江島に農民学校をつくるため求めた土地を米軍に奪われた。阿波根はじめ米軍に土地を奪われた島の住民は土地を取り戻すため非暴力で米軍に立ち向かっていった。阿波根は闘いの中で、中心的な役割を果たすようになり、いつしか「沖縄のガンジー」と呼ばれるようになる。1954年6月、米軍は伊江島真謝区と西崎区の住民四戸の農民に立ち退くよう命令してきた。米軍は「農耕は自由にさせる、補償もする」と言っていたが、射撃演習の目標を作るため作物はブルドーザーで潰され、植え付けしたばかりの畑は焼き払われた。しかも、補償はわずかだった。9月にはさらに152戸に立ち退き命令が出された。中止の陳情を琉球政府へ何度も行ったが、まるで無力であった。米軍はあらゆる手段を使って住民に圧力をかけてきた。そこで、住民は11項目からなる陳情規定を作っていわゆる「非暴力不服従」の闘争に立ち上がった。
伊江島土地を守る会の「陳情規定」
一、反米的にならないこと
一、会談のときは必ず坐ること
一、集合し米軍に対応するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと
一、耳より上に手をあげないこと(米軍はわれわれが手をあげると暴力を振るったといって写真をとる)
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること
(中略)
右誓約いたします。1954年11月23日
かくして沖縄伊江島土地を守る会の運動は、1966年のプライス勧告反対の全県民的闘争に発展し、本土を含めた祖国復帰の超党派運動へと広がったのである。1955年に始まった砂川の米軍基地拡張反対運動も非暴力を貫いた。56年10月13日、鉄兜に警棒という完全武装をした1500名の警官が、雨中の畑に座り込んだ無抵抗の労働者や学生に警棒を振るって襲いかかった。当時の朝日新聞が「暴徒のような警官隊」という大見出しで伝えた。結果的には重軽傷者1000余名を出したが、さらなる1万人動員で対抗する方針を示した社会党総評全学連などの不退転の方針が、政府自民党の強制測量中止につながった。宮岡政雄さんは、常にガンジーの非暴力不服従の戦いを範とされていた。それは砂川闘争に参加した日本山妙法寺の始祖藤井日達上人が、ガンジーと親交を結び、その非暴力不服従の考え方に大きな影響力を与えたことを承知されていたからである。宮岡さんと最後にお会いしたのは1980年の秋だった。月刊総評の「わが戦後史と住民運動」という連載インタビューでお会いした。別れる時、これを読んでくださいと一冊の本を手渡された。マハトマ・ガンジー著の『人類愛の説法』(日本山妙法寺出版部発行)という本だった。ガンジーの非暴力不服従の独立闘争にかかわってきた日本山妙法寺の高僧丸山行遼師が訳されたものだ。宮岡さんは常に「砂川の運動は非暴力不服従」と説かれていたが、その原点となったガンジーの非暴力主義の思想に触れてほしいということだったのだろう。伊江島の阿波根昌鴻と砂川の宮岡政雄が、ともに合い呼応して1950年代後半以降の米軍基地反対闘争を闘っていたのである。
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●翁長訪米におけるアメリカ側の動向及び論評
翁長知事の訪米に関して、本土のマスコミはほとんど報道しなかったが、地元紙などで具体的な動きが判明した。安倍訪米で地固めを終わった段階で、アメリカ側は無視するだろうという観測が多かったせいもある。しかし実際には、アメリカの上院マケイン軍事委員長やリード民主党院内総務が面会した。たとえ辺野古新基地方針が決まっていたとしても、ともかく会って話し聴く、と言う姿勢がある。安倍首相や菅野官房長官のように「粛々と進める」と言って、何カ月も知事の訪問を門前払いするような非礼なことはしなかった。イゲ・ハワイ州知事は、在沖米海兵隊のうち2700人がハワイに移転する再編計画について、「日米で決まれば実施に向けて協力したい」と述べ、現行計画を受け入れる考えを示した。
「日米両政府が決める事」を前提に、ハワイに海兵隊市民運動の側もワシントンで精力的にアピールした。以下にアメリカでの動きと、ジャパンタイムスの社説(抄訳)を紹介する。社説は「もし抵抗する県民の映像が世界中に流れれば、日米同盟は維持できなくなるだろう。」と結んでいる。
◆市民運動の動き
【ワシントン=島袋良太】 名護市辺野古の新基地建設計画の見直しを求め、翁長雄志知事が1〜3日に米ワシントンで訪米要請行動をしているのに合わせ、沖縄の声を多くの人に届けようと、米国在住の県人らが1日、ホワイトハウス前で新基地建設問題を訴えた。観光客など人通りの多いホワイトハウス前で「海を守ろう」などと書いたプラカードを掲げると、興味を持った通行人から声が掛かった。賛同した人たちが共にプラカードを掲げたり、今後の協力を申し出たりしていた。
「オキナワ・ピース・アピール・イン・ワシントン」と名付けたこの運動は、今帰仁村出身で米ニュージャージー州在住の紀子・ヘラーさん、同州在住で稲嶺進市長の訪米時の通訳などを務めたレイチェル・クラークさん、名護市出身でニューヨーク在住の比嘉良治さんらが企画した。知事が要請行動を展開する3日まで、午前11時から午後3時に毎日この活動をする。米国の市民団体メンバーや、ワシントン近郊に住み沖縄問題に関心のある米国人らにも訪問を呼び掛けており、辺野古新基地建設に反対する海外有識者声明の呼び掛け人の一人、スティーブ・ラブソン・ブラウン大名誉教授らが駆け付ける予定。
旅行でワシントンを訪れていたポール・セザーさん(54)=バーモント州=は足を止め、ヘラーさんやクラークさんの話に聞き入った。セザーさんは「米軍は世界中に基地を置き環境を破壊している。無駄な軍事費は福祉に使うべきだ」と述べ、「地元選出の上院議員が来年の大統領選に出馬する。この問題に取り組むよう伝えたい」と話し、一緒にプラカードを掲げた。
◆新基地問題で対話継続 知事、マケイン軍事委員長と会談 2015年6月3日
【ワシントン=島袋良太】 訪米中の翁長雄志知事は2日、米ワシントンの連邦議員会館で、米上院軍事委員会のマケイン委員長(共和)、リード筆頭理事(民主)と会談した。翁長知事は、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設について、県民の圧倒的多数が反対していることを挙げ「絶対に阻止する」とする自身の立場を伝えた。会談後、翁長知事は記者団に「今後も継続して話を続けることを確認した」と述べた。【琉球新報電子版】
【ワシントン時事通信 6月3日】 訪米中の翁長雄志沖縄県知事は2日、上院軍事委員会のマケイン委員長(共和党)らとワシントンで会談し、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古移設を中止し、県外・国外移設に切り替えるよう求めた。これに対し、マケイン委員長は辺野古移設を支持する立場を伝え、議論は平行線に終わった。知事は会談で、辺野古移設に反対する先月17日の那覇市での集会に3万5000人(主催者発表)が集まったことを紹介しながら、「私は(県民から)激励されているとのべた。会談には同委員会のリード筆頭委員(民主党)も同席。知事は記者団に「沖縄の気持ちを伝えられたのは大変意義があった」と語った。
◆ハワイ知事、海兵隊移転受け入れ 翁長知事会談で明言 2015年5月31日 琉球
米ハワイ州のデービッド・イゲ州知事(右)と握手する翁長雄志知事=29日、ホノルル(沖縄県提供・共同)
【ワシントン=島袋良太】 翁長雄志知事は30日午前(日本時間同日夜)、米軍普天間飛行場の辺野古移設計画の変更を求める米政府などへの要請のため、首都ワシントンに到着した。これに先立ち翁長知事は現地時間29日午前(日本時間30日早朝)、ホノルル市内でハワイ州のデービッド・イゲ知事と初会談した。在沖米海兵隊のうち2700人がハワイに移転する再編計画について、イゲ知事は「日米で決まれば実施に向けて協力したい」と述べ、現行計画を受け入れる考えを示した。
翁長、イゲ両知事は、沖縄とハワイがことしで姉妹都市30周年を迎えることから、7月にハワイで行われる記念式典などで交流を深めることを確認した。翁長知事はイゲ知事にも来沖を提案した。翁長知事はイゲ知事に、米軍普天間飛行場の県外移設を求める県の立場を説明した。イゲ氏は「沖縄の米軍基地の状況を紹介してもらい感謝する」とした上で「沖縄の米軍基地に関することは日米両政府が決めている。(米側では)連邦政府が決める」と述べ、州政府としては関与できないとの認識を示した。
イゲ知事との会談後、翁長知事はワシントン入りした。3日、米国務省のヤング日本部長、国防総省のアバクロンビー副次官補とそれぞれ国務省で会談する。国防総省は当初、課長級のウィンターニッツ日本部長が面談に対応する予定だったが、階級を格上げした。
◆ジャパンタイムス社説 2015年6月8日(抄訳)
「政府の振興政策名目の助成金で押し切れると考えている」東京もワシントンも翁長氏の発言を軽く見るべきではない。ハワイの民主党議員ブレイソン・シュルツ氏は強調した。「この計画は県民が反対していることに鑑みて見直す必要がある」と。日米両政府は、立ち止まりこの計画が賢明であるかどうか考えるべきである。これは重要なポイントである。
訪米中翁長氏は民主主義の本質について述べた。「安倍政府は辺野古の問題で県民の意思を無視したことに失望している」。また翁長氏は安倍政権の積極的平和主義への貢献を痛烈に批判し、「国民の自由と平等を守れない国がどうして世界を守ることができるのか」と言った。決然とした沖縄県民の反対を押し切れるというのであろうか。
安倍氏は翁長氏の言葉を心して聞くべきだ。翁長氏は辺野古施設反対の沖縄県民の意思を伝えるとして訪米した。訪米による具体的な成果はなかったが、彼ら(役人・議員)が少なくとも沖縄を取り巻く状況を理解したことは意味のあることだ。
ワシントンで翁長氏は米国務省のヤング日本部長、国防総省のアバクロンビー副次官補と会見したが、安倍政権同様、辺野古が唯一の解決策だと言った。翁長氏は日米同盟までは反対していないが、日本の国土の0.6%の沖縄に、74%のアメリカ軍基地があると指摘した。辺野古新基地計画は、米軍基地の負担に耐えてきた沖縄県民が耐えられなくなってきたことを現し、日米両政府、日米安全保障同盟への怒りは収まりの付かないことになりうる。共同ニュースのインタビューで翁長氏は「政府は、県民が米軍基地に慣れているから今回も、と考えたのは安倍政権の重大な間違いになる」と述べた。沖縄県民の自治への精神性は非常に強く後戻りすることはない。もし抵抗する県民の映像が世界中に流れれば、日米同盟は維持できなくなるだろう。(上原まりこ訳)
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●「辺野古取り消し」77% 県内移設反対83% 琉球新報世論調査
2015年6月2日 琉球新報
(図 翁長知事の承認取り消し方針)
琉球新報社は沖縄テレビ放送(OTV)と合同で5月30、31の両日、米軍普天間飛行場移設問題に関する県内電話世論調査を実施した。名護市辺野古への移設阻止を前面に掲げ、埋め立て承認についても有識者委員会の提言によって取り消す方針を示している翁長雄志知事の姿勢を77.2%が支持した。県内移設への反対は83.0%となった。同様の質問を設けた調査では、2012年5月に辺野古移設反対の意見が88.7%となったことに次ぎ、同年12月の安倍政権発足以降の本紙調査では最高の値となった。一方で、埋め立てに向けた作業を継続している政府への批判が依然として根強く、県内全域に広がっていることが明らかとなった。調査は戦後70年を迎えたことに合わせて実施した。
仲井真弘多前知事が承認した名護市辺野古沖の埋め立てについて、翁長雄志知事は県の第三者委員会が承認取り消しを提言すれば、取り消す方針を示している。この知事方針について「大いに支持」が52.4%、「どちらかといえば支持」が24.8%で、合わせて77.2%が支持すると回答した。
辺野古移設に反対する翁長県政の発足後も政府は移設に向けて辺野古沖での海上作業を継続し、近くボーリング調査を再開させるとみられる。こうした政府の対応について「作業を止めるべきだ」が71.6%を占めた。「作業を続けるべきだ」は21.0%だった。
普天間飛行場問題の解決策については「国外に移設すべきだ」が最も多い31.4%。「無条件に閉鎖・撤去すべきだ」が29.8%、「沖縄県以外の国内に移設すべきだ」が21.8%と続き、これら県内移設に反対する回答を合わせると83.0%となった。
「名護市辺野古に移設すべきだ」は10.8%、「辺野古以外の沖縄県内に移設すべきだ」は3.4%だった。
◆「沖縄戦継承を」94% 自己決定権拡大87% 世論調査2015年6月3日
琉球新報社と沖縄テレビ放送(OTV)は戦後70年の「慰霊の日」を前に5月30、31の両日、電話による世論調査を実施した。調査結果によると、戦争体験の継承については「もっと戦争体験を語り継ぐべきだ」との回答が75.4%に達し、「現在の程度で語り継げばよい」の19.4%を大きく上回り、全体で94.8%が戦争体験を継承すべきだとの認識を示した。一方、米軍普天間飛行場移設問題などさまざまな課題を抱える沖縄が、沖縄のことは自ら決める「自己決定権」については、87.8%が「広げていくべきだ」と回答した。
「自己決定権を広げるべきだ」との回答が約9割に上った背景には、普天間飛行場の県内移設に県民の大多数が反対しているにもかかわらず、日米両政府が民意を無視して移設を推進していることに対する反発などがあるとみられる。
戦後70年が経過した中で「政府はこれまで沖縄に対して外交や地域振興などの施策について配慮してきたか」との問いに対しては、「配慮が不十分」「どちらかと言えば配慮していない」を合わせて54.2%と過半数となった。一方、「十分配慮してきた」「どちらかと言えば配慮してきた」を合わせて41.4%だった。
県内で在沖米軍基地が「必要」と答えたのは38.6%で、その半数が理由として「日本や周辺地域の安全を守るため」とした。
一方で「必要ない」と回答したのは58.6%で、理由のトップは「沖縄の基地負担が重すぎるから」(43.0%)だった。
将来の沖縄の方向性については「日本の中の一県のままでいい」が66.6%で最も多く、次いで「日本国内の特別自治州などにすべき」が21.0%だった。「独立すべき」は8.4%だった。
憲法9条の改正については改正する必要があると回答したのが24.0%で、改憲で重視すべきものとしては「自衛隊が国際活動を拡大するにあたり歯止めの規定を設けるべき」が46.7%で最も多かった。
「沖縄戦の体験を伝えていくためにはどのような取り組みが必要か」については「学校現場での取り組み」が41.2%、「戦争体験者による語り継ぎ」が31.4%、「行政による平和関連事業の充実」が22.8%だった。
(筆者は公害問題研究会代表)
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●『憲法制定時の誇り高き日本』— 幣原・吉田時代の平和憲法観 —
(沖縄の誇りと自立を愛する皆さまへ:第23号 2015年5月号)
辺野古・大浦湾から 国際法市民研究会
報告:河野 道夫
安倍内閣は、安保法制によって憲法を実質的に改悪する気である。その自覚がないとすれば、憲法制定時の決断についてほとんど無知だからだろう。たしかに平和憲法は、東西冷戦によって“お蔵入り”せざるをえなかった。しかし冷戦の終焉後、四半世紀経って、なお別な理屈をつけて原点を無視するとは!
以下は、1946年5−10月の憲法制定議会(第90帝国議会)議事録からの抽出。漢字・カタカナ・旧字体を読みやすく変形・加工した。第一次吉田内閣が成立(5月22日)する前の4月22日、幣原首相が政府案を枢密院に諮詢し5月15日まで逐条審議を8回。アメリカ公文書館で公開された要点記録を編纂した村川一郎編著「枢密院帝国憲法改正案審査委員会議事録」国書刊行会1986年 — から幣原首相の説明も紹介した(*注)。
◆正義の大道を歩む固い決意
吉田茂総理:改正案の基調は、全世界に率先して戦争を放棄し自由と平和を希求する人類の理想を憲法に顕現せんとするにある。この精神は、前文に詳細に示されている」「国の主権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、紛争解決の手段としては永久に放棄し、進んで陸海空軍その他の戦力の保持および国の交戦権をも認めないこととしている。かかる思い切った条項は、従来の各国憲法中にその類例をみない。かくして日本は永久の平和を希求し、その将来の安全と生存とを挙げて平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねようとするものである。この高き理想をもって平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行こうと思う固き決意を憲法に明示しようとするものである— 6月25日衆議院本会議提案理由説明。
◆世界秩序の発達に必要
金森徳次郎国務大臣:(世界は不戦の努力に責任を負うべきで「日本の一方的宣言は適当でない」と言う佐々木惣一に)人のふりを見て我がふりを決めたくない。寄ってたかって初めて立派なことが行われるが、自分ひとりじゃできないことを理由にやらずにおこう、言わずにおこうという考え方が、世界の秩序の発達を阻害し、平和に対する望みを遠ざけている。人がやるまではやらないとか、人のふりを見てのみ我がふりを決めてゆく考え方は、このような根本の問題についてはとりたくない—8月29日貴族院本会議答弁。
◆人類目覚めの道
金森:(佐々木惣一に)9条は、日本が人類の目覚めの道第一歩を踏んで模範を垂れるつもりで進んでゆこう、という勇断を伴った規定である」「(同)国が現実に独立性を確保する上においては、相当苦心を要することは自然の結果であろうと思うけれども、それをやらない限り世界は救はれない。この規定を確実に、適正に日本が守ってゆくことによって、大きな世界の波瀾を、良き意味における波瀾を起しうるであろうということを前提に置いて起案された— 9月13日貴族院帝国憲法改正案特別委員会答弁。
◆大乗的な見地
金森:(佐々木惣一に)大乗的な見地に立つ9条は、捨身になって国際平和のために貢献することだ。これによる若干の故障はあらかじめ覚悟の前である。世界平和の道程において、若干の不愉快は覚悟し、これを何か適切な方法で通り抜ける— 9月13日貴族院帝国憲法改正案特別委員会答弁。
◆異常な決心
安倍能成・貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長:戦争放棄、戦力撤廃、交戦権否認の規定はまったく捨身の態度であって『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』という異常な決心に基づく— 10月5日貴族院本会議における委員長報告。
◆文明と戦争は両立できない
幣原国務大臣:(南原 繁に)武力制裁を合理化・合法化することは、過去の幾多の失敗を繰返すことになる。文明と戦争は結局両立できない。文明が速やかに戦争を絶滅しなければ、戦争が先に文明を全滅させる、という信念をもって、私は改正案の起草に参加した— 8月27日貴族院本会議答弁。
◆前途は平和産業と科学文化
幣原:(林 博太郎に)軍備不要となれば、非生産的な軍事費支出がなくなる。日本の国際的地位を高めるのは、平和産業の発達、科学文化の振興だ。これあってこそ日本の将来がある。当面は負け戦の後始末に活動力を奪われるが、その後の日本の前途は大きな光に満ちている— 8月30日貴族院本会議答弁。
◆あの戦争の性格
吉田:(共産党・徳田球一に)この戦争の性格は、議会政治・政党政治が極端な国家主義・軍国主義のために崩壊させられた結果だ— 8月24日衆議院本会議答弁。
(*注)幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう 1872−1951):外務事務官、駐米大使などを経た後、第一次加藤内閣−第一次若槻内閣(1924年6月−27年4月)、浜口内閣−第二次若槻内閣(29年7月−31年12月)の四内閣の外相。国際協調の推進、経済外交の優先、中国内政不干渉を三本柱とする協調外交。25年日ソ基本条約締結、29年中ソ紛争調停、30年ロンドン海軍軍縮条約締結、中国との関税協定推進など。その平和主義を軍部などは「軟弱外交」と反発。31年満州事変の収拾に失敗した第二次若槻内閣崩壊で下野。45年10月−46年5月首相。天皇「人間宣言」、帝国憲法改正案など起草。46年4月−47年3月進歩党総裁。46年5月−47年4月第一次吉田内閣国務大臣。49年2月衆議院議員。議長在任中に死去。
首相として46年4月22日枢密院帝国憲法改正案第1回審査委員会で「他国がついてくるかどうかを顧慮することなく正義の大道を踏み進んで行く決意。諸国はなお武力政策に執着する状況だが、ますます恐るべき破壊力ある武器が発明されてはじめて世界は目を醒まし、戦争の廃止を真剣に考えるようになる。日本はこの大勢を察し、武器使用の機会をなくすことを目標とした」と説明。
(報告者は沖縄県読谷村在住)