【オルタの視点】
『西郷隆盛紀行』(橋川文三/著・文春学藝ライブラリー)
あちらこちらの書店の店じまいの便りを耳にするが、僕はコーヒー店の入った書店にはよく出掛けている。入口に積まれていた村上春樹の『騎士団長殺し』が奥まったところに移ったと思ったら西郷隆盛の本が目につくようになった。NHKの大河ドラマが林真理子原作の「西郷どん」に決まったためだろうか。彼女の『西郷どん』(上・中・下)も目を通したが、格別の感はしなかった。それよりは彼女の本としては檀蜜との対談『男と女の理不尽な愉しみ』(集英社新書)の方が面白かった。
ただ、西郷隆盛のことは以前から興味があって、彼に関する探索はずぅーとやってきたのであるが、急に目につき出した西郷の本に刺激されてか、彼に関する本を引っ張り出して読んでいる。本棚の下に積み重なっている西郷本を取り出し拾い読みをしているのだが、やはり、橋川文三の『西郷隆盛紀行』(文春学藝ライブラリー)がいいように思う。渡辺京二の西郷についての論究も興味深いし、江藤淳の『南洲残影』も忘れがたい。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』や海音寺潮五郎『西郷隆盛』をはじめ多くのものがある。
時代ごとに多くの人が西郷について書いているが、それだけ多くの関心を持たれてきたと言える。河出書房新社の文藝別冊(KAWADE夢ムック)の『西郷隆盛』の表題に「維新最大の謎」とあるが、彼は謎に満ちた存在である。この謎はこちらの問いかけかたにより、深くも浅くもなり、また、こちらの意識で変わってもいくものである。これは西郷が、時代や社会に謎を感じた時、あるいはそういう問いを発した時に浮かび上がって来る存在ということでもある。
『西郷隆盛紀行』は橋川文三の西郷隆盛に関する論文や対談などを集めたものである。「西郷隆盛の反動性と革命性」、「西郷隆盛と南の島々」(島尾敏雄氏との対談)など、7編が収められている。西郷の反動性と革命性という言及は1968年の論文であるが、橋川はこの年に『日本のナショナリズム』という明治維新についての優れた考察も出している。
橋川の西郷についての論究は何度も読んでいるのだが、そして短いが鋭い問題提起に共感をしてきた。これには僕の西郷像の変換ということがある。僕は1968年ころ中央大学の学生会館の自主講座で「日本革命思想史」の講座をやっていたが、それは明治維新の検討であり、高杉晋作や吉田松陰、また西郷隆盛など維新の群像のとらえ直しを意識していた。それは、それまで反動としてイメージされていた西郷像に疑念を抱き、彼の革命性というところに興味を持ちはじめていたということでもあった。
橋川の西郷像や明治維新の像は1968年前後に大きく揺れていたのだろうが、僕も似たことを経験していたと言える。1968年は明治維新100年目だった。維新100年を祝うというのは右翼とされていたし、左翼はそれに反対の声もあったのだが、僕らはこうした論議とは違う形で明治維新をとらえ直したいと思った。1868年と1968年を重なる形でみようという欲求があった。これは果たせぬままに現在まで残っている。
橋川がこの論文で取り上げているように西郷は、とりわけ征韓論から西南戦争にいたる西郷は士族の立場から明治維新に反発する反動的存在とみなされていた。彼の士族の立場に立った反動というというイメージは強力に刷り込まれたものとして僕にはあった。薩摩や九州の一部では西郷の人気は強いと聞いているから、その地方で育ったひとは別なのかもしれないが、僕のこのイメージは一般的なものだったといえる。
「……西郷を持って近代日本のコースを反動的に逆転せしめようとした人物とする点においては、おおむね一致しているとみてよいであろう。少なくとも、それ以外に征韓論、西南戦争のシンボルとしての西郷を統一的に理解する視座はありえないとするのが一般かもしれない」(「西郷隆盛の反動性と革命性」)。
橋川は近代史家の西郷評としてE・H・ノーマンの『日本における近代国家の成立』等を引用しながら取り出す。これは西郷を日本の膨張主義(大陸侵略を支えた思想)の源流であり、右翼ファシストの模範であるとみる西欧の歴史家の代表例である。そして、もう一つ、西郷を右翼やファシストの源流とみなすだけではなく、近代日本の造成になんの貢献もしていないという評価がある。明治維新期の軍事行動(大政奉還から戊辰戦争)での彼の役割は誰しもが認めるが、それ以降ではたいしたことをしていないというのである。
その例として木戸孝允や大隈重信の評価を取り出す。「要するに、木戸によれば西郷は大局の情勢を洞察するには余りに封建的な地方主義に偏局しており、大隈によれば近代的な政治・行政上の実務能力をまったく欠いていた。そして、保守的な旧武士と階級によって、わけもなく讃仰されるだけの厄介な存在だった」(前同)。西郷に対する熱狂的な支持者はいるのだが、これは一般的な西郷像であり、評価であった。
僕の西郷に対する像は上で述べたようにここから出ないものだった。これは近代史家の見方であるが、左翼の史家たちもこの枠組みにあったことはいうまでもない。今の人たちにどんな影響力があるのか分からないが、遠山茂樹や井上清などの左翼史家は概ねこうした考えに立っていた。
僕がこの西郷像に違和を持ち、西郷像が変わっていくのは1968年前後の闘争が大きな契機になっているが、橋川にもそれはあったのではないかと推察できる。それはともかくとして、彼は自己の西郷像の変換を語っている。それは西南戦争のイメージが大きく変わったことによるとされる。それは遠山茂樹の『明治維新』の西南戦争についての言及の中で、ここに熊本民権派の参加という箇所をみたからだという。これは封建主義による士族の明治維新に対する反発というイメージを変えて行くものだった。自由民権運動は明治維新をより発展せしめる革命的方向であり、その面々の参加は西南戦争を不満士族の反乱とみる像の変換につながる、
橋川はここから、中江兆民の西郷像に触れて行くが、兆民は西郷を革命家として高く評価していた。内村の『代表的日本人』での西郷評価、福沢諭吉の抵抗の心性の評価、中江兆民の革命家としての評価は、近代史家や左翼史家には受け継がれないで無視されてきたものだが、橋川は西郷に革命性を発見するということで彼等の評価に接近するのである。それは西郷をデモクラットの先駆やラジカル・デモクラット、あるいは永続革命者というように見ることを可能にするのではないかという。
「逆にいえば、大久保→伊藤の路線が日本にとってもっとも好ましい国家と人間関係を造出したかといえば、無条件に然りといいえないのとちょうど表裏して、西郷の一見空漠たる東洋国家のビジョンの中には、ありうべきもう一つの日本のコースが考えられるはずだった」(前同)。この、もう一つの日本のコースということは、西郷に関心をいだくものが持つ問いである。それは過去の探索によって未来を発見したいという欲求にかかわることだ。
橋川はこれらの問いを深めるより、北一輝の西郷評をとりあげる。北の西郷論は矛盾に満ちたもので、西郷は革命の残骸化に抵抗する第二革命の指導者とみられるが、西南戦争における西郷軍の反動性と亡国性を指摘する。「言いかえれば、北は西南戦争が亡ぶべき者たちの最後の蹶起にすぎなかったと一面では認めながら、他面では、西郷の死によって、維新の革命性もまた亡び去ったと見なしているわけである」(前同)。この北の西郷評価は矛盾に満ちているものだが、橋川はまた、矛盾なままに西郷の反動性と革命性ということを提起している。それは、西郷像の変換を促される事に対する対応であった。
僕は反動的とみなされてきた西郷像に対する疑念が出てきて、その革命性に視座が移る一方で、その反動性というイメージも残る状態の中で西郷の探索をやってきた。これは明治維新の探索と重なっている。この探索は断続的であり、だから関心が続いてきたというべきなのかもしれない。
こうした中で西郷は日本古代国家における祭政一致を求める天皇主義者ではないことが明瞭になった。彼は聖人の道を求める儒教者であったことは確かだろうが、国学を思想の根底とする存在ではなかった。明治維新を推進した下級武士たちの多くと同様にその思想は儒教であったと言えるだろう。彼が目ざした革命は道義の革命であった。これは彼が反動とイメージされることにつらなることは確かなのだろうが、それは近代的な思想が分からず、士族の不満派から賛美されたということと重ねられる問題ではない。彼が明治維新の心的体現者であり、維新後に第二革命というべきものをめざしていたことは確かである。
西郷隆盛が大政奉還から戊辰戦争までに果たした役割は多くの人の認めるところであり、彼は戊辰戦争後に薩摩に還り藩政の改革をやる。これは戊辰戦争後、騎兵隊の処理で失敗した長州藩の対応とは対照的だった。戊辰戦争後に西郷がやった改革は、戊辰戦争を闘った者たちを重要な役割につけ藩の構造を変える改革として成功する。ここはあまり知られていないことである。西南戦争の基盤になったのであるが、これは特権的武士団(士族)の存続というよりは、コンミューン的な共同体への改革が志向されていたと言われる。僕は、渡辺京二さんの論及からえたものだが、これは西南戦争のイメージを変えていくものになると思う。
西郷が維新後も革命を志向する意思を持ち、それは日本を道義国家にするという事であり、役人は皆清廉潔白であるというものであり、先のところで空漠たる東洋国家を目指すという事である。これは儒教的な理想国家のイメージであり、海音寺潮五郎は西郷にあった高い理想であると指摘する。この国家観は近代的な国家観から見れば古びた宗教国家観にしかならないと言われるものだろう。僕らが西郷に反動的イメージを抱かせる要因だが、少し立ち止まって考えてみたいところだ。
西郷は儒教的な言葉や理念を使ってしか表現できなかったにしても、彼は権力のあり方、その形態を変えることを考えたのではないか。専制的な権力のあり方、その権力の様式を変えること、そこに彼は革命の目標をいていたのではないか。これを彼は儒教的な言葉や理念であらわす他なかったにしても、それは革命的なことだったと思う。西郷が維新後の状態に不満を抱いたとすれば、権力の形態やあり様が少しも変わっていないということではなかった。
西郷を人々がデモクラットの先駆形態、あるいは永続革命者とみるところがあるとすれば、それは権力のあり方や権力の存在様式について彼が持っていた理想というか、ビジョンではなかったのか。彼の敬天愛人という思想も、いつも底辺をみていたということも、この権力についての考えを通せば革命的な思想になり得る。西郷が維新に託した夢が自由や平等であり、その徹底した実現であったといえる。これは西郷のライバルと言われた大久保利通が統制好きで、フランスの警察機構を移入したこととは対照的なことではないか。革命とは権力のあり様、様式や形態をかえることだということが明瞭なら、西郷の反動性と革命性ということも違ってくるように思える。
(評論家)
※この記事は著者の許諾を得て『出版人・広告人』(非売品)2017年12月号よりの転載をしましたが文責はオルタ編集部にあります。
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