「異論を言う勇気を」―後藤田正晴氏の歴史観と憲法観

栗原 猛

 この数年、お盆のころになると思い出されるのが、後藤田正晴氏の歴史や憲法に対する思い入れである。田中角栄内閣が1972年7月に発足。警察庁長官を辞めたばかりの後藤田氏は事務の官房副長官につく。政治部駆け出しだったわれわれは有無を言わせずに副長官番にさせられた。それから幾星霜―。

 後藤田氏が議員を辞めてからも、当時の担当者たちとときどき麹町の事務所を訪ねた。机の上にはピケティの著書やハーバート・ビックスの『昭和天皇』、『マクナマラ回顧録』、竹中平蔵氏の著書など、その時々の話題の本がいつも積まれ、視力が落ちたからと言って大型拡大鏡を使ってよく本を読んでいた。われわれは戦前戦後の経験や人物論、読後観なども聞けて、大いに参考になった。また後藤田氏の歴史観や憲法観は、日本のアジアでの歴史や地理的な環境、日本人の特性などを踏まえていることなども知った。「歴史観がない人の話はどうも信用おけないところがあるな」などとよく言っていた。

 歴史観や憲法観は、大きく括ると3点になる。
 1は戦前の政治や軍のトップリーダーに対する不信感である。「鬼畜米英」「一億玉砕」などと叫んでいた政治や軍部、企業のトップリーダーたちは、敗戦になると戦争責任にかかわった役職などを削ったり書き換え、夜密かにGHQ幹部の宿舎になっているホテルを訪ねる政府高官もいた。東京裁判では米国やロシア(当時はソ連)寄りの証言をして、いったいどこの国の指導者だったのかと疑われるような政府高官も少なくなかった。
 敗戦で招集解除になり、内務省に返ってきた30代初めの後藤田氏の目には「威勢のいい号令をかけていたトップほど責任感がない」ということが、強く印象に残った。この責任の点でいえば、今の政治はまだ克服されていないというべきだろう。

 2は歴史観である。第一次世界大戦が終わると、英米側についた日本は大変な好景気になったが、その反動ですぐに極端に経済が悪くなり、銀行、商社などが倒産、農家では娘さんを売りに出すという窮状になった。当時は国民皆兵だったから、農村出身の兵から地方の農村のこうした厳しい状況を聞いた若手将校たちは、義憤を感じて右翼の青年たちに語る。
 1930(昭和5)年、浜口雄幸首相が東京駅で狙撃され、続く7年には井上準之助前蔵相が射殺され、同じ年の3月には団琢磨・三井合名理事長の射殺、続く5月には海軍青年将校らが首相官邸を襲い、犬養毅首相射殺と続き、日本の議会政治、民主主義は崩壊する。

 後藤田氏は、当時テロが起きるたびにマスコミが大きく取り上げ、国民はむしろ拍手喝さいするようだったと言う。だから「経済が悪いと政治の無策が原因だということになり、批判や不満が政治に集中する。したがって政治は景気や国民生活にはよほど注意していなといけない」と強調していたところだ。
 未曽有の少子高齢化社会とさまざまな分野で広がる格差や貧富の拡大、それに新型コロナ対策はいま政治が何にもまして全力を挙げて取り組むべきテーマである。

 3つ目は、憲法観の中心に広くアジア情勢を視野に入れていたことだ。「韓国や中国を敵視するような環境の中で憲法論議をしたら、両国を敵視する中で進められ、取り返しのつかないことになる。戦争を知らない世代は元気が良すぎるからね」。

 最後に一つ付け加えるならば、日本人の特性についての懸念も見逃せない。日本人は大事なことほど、徹底して議論をしないで、会議の空気で決まってしまう。そして決まると、今度はわき目も振らずに一瀉千里に走り出してしまうところがあることだ。職場でも学校でも「『ちょっと待ってくれ。おれには異論があるよ』と、自分の意見を言う勇気を持つことがこれからは大事ではないか」。

 さて存命ならばどういう言葉が聞かれるかだが、「まず社会不安が起きないためにも、格差を減らす取り組みをしてほしい。日米関係も大事だが、少子高齢化が進んでいるのだから、福祉、社会保障など、まず国民生活の足元固めをしっかり頼む」というのではないか。

 (元共同通信編集委員)

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