【追悼】仲井 富氏

「無無明」

正木 洋
            
 仲井さんは律儀な人で、知り合ってから半世紀以上、月に1、2回は便りを下さり、また月に一度は電話を下さった。中身のある便りであり、簡潔な電話でありました。
 ところが2、3年前から「?」と思うことが多くなった。即ち、同じことを繰り返し語るのである。「正木さん、私は玄米食ですよ。三浦雄一郎のお父さんは、息子や嫁と一緒に暮らせば、上げ膳下げ膳で人間駄目になってしまふと言ふんですな。その恵三さんが朝、昼、晩、玄米食で元気溌剌だそうで、私も」という話は、多分、4、5回は聞いている。

 「寂しいものですねェ、仲間は皆死にました。偶に生きてゐても病院です。昔、社会党時代の友人に電話したら奥さんが出て、もう認識力がなくなりましたと言ふんですよ。ボケです」「毎日、8千歩、歩いてゐます」―この話は多分十数回、同じ歎き節を聞きました。でも時々目の覚めるやうな事を言ふ。「『学者先生戦前戦後言質集』という本がある。ぜひ読んで下さい。サヨクのいい加減さがよく判る」「戦後のサヨク政党はロシアから金貰ってますょ」サヨクへの批判は、秋霜烈日の感がありました。

 よく図書館に行く人でありました。従って私の様な蔵書家ではない。小林秀雄の言ふ本物の読書人であったのかも知れない。
 「最近、図書館で読む新聞はサンケイです」私は「ほう。でも最近のサンケイは図体が大きくなって、つまらん記事も多くなりました」「例へば」「例へば、ワシントン支局の黒瀬悦成。朝日、毎日と同じです。サンケイより夕刊フジの方が面白いと思ひます」と言ひ、序に「仲井さんはサヨクの闘士より、日本の国士の方が、本来、似合ふと思いますがね」と結ぶと返事はなかった。

 「正木さん、今度上京の予定はありませんか?」此処十年ぐらゐ、毎年、早春、誘ひの電話を頂いた。「橘さんと谷中の墓地で、あなたが弁当と酒買って、花見をしたことがありました。又、やりませんか」「おう、やりませう」到頭、花見は実現叶はずだった。

 今年、1月15日の午後、電話がかかってきた「やあ、ゐましたか。昨日2回、今日も午前中1回、電話したけれど、出ないので、倒れてゐるのではと心配してゐました」「雪かきをしてゐました」「それなら好かった。私の友人も死ぬか、ボケで参りましたよ」「あのね、死の恐れは多かれ少なかれ、誰にでもある。でもボケは神、仏のプレゼントでもあるのですよ」「ほう」「ボケれば、死の恐怖は軽減される」「成程」「仲井さんもボケを嘆かず、これは兼題です。『ボケの春』と言ふ俳句作って、私に教えて下さい」仲井さん、急いでメモを取ってゐる気配があった。

 これが仲井さんと最後の会話となりました。今、天上で指折り俳句を捻ってゐるかも知れない。

【まさき・よう/北海道津別町在住(元国語教師/北海道伊達市の火力発電所反対運動の中心メンバーだった)】

(2024.6.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧