■【書評】

「構造改革論再考―加藤宣幸氏に聞く」         堀内 慎一郎

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 「構造改革論再考―加藤宣幸氏に聞く」は、『大原社会問題研究所雑誌』
No.650(2012年12月号)、No.652(2013年2月号)の二号に渡って掲載されたも
のであり(以下、「本インタビュー」とする)、法政大学大原社会問題研究所の
研究プロジェクト「社会党・総評史研究会」が実施したものである。なお、脚注
によれば、同研究会には「オルタ」の常連寄稿者である、岡田一郎氏、木下真志
氏、山口希望氏も参加されているとのことである。

 本インタビューは、「上」「下」の二部構成となっており、「上」には事前に
提出された質問状に沿って、まず加藤勘十の長男である加藤氏の生い立ちから、
敗戦直後の加藤勘十周辺における状況、加藤氏の社会党入党と親友・矢野凱也氏
とともに社会党本部専従となる経緯、結党当初の社会党本部であった第二堤ビル
や書記局の様子について語られている。

 さらに、本インタビューのメインテーマである構造改革論については、構造改
革論の端緒となった、当時の社会党の機構改革への取り組み、構造改革派の成り
立ちとブレーンの存在、構造改革論への日本共産党の反応、社会党における最右
派であり、民社党結党の中心となる西尾派の「江田ビジョン」に対する評価と
「江田ビジョン」誕生の経緯、そして社会党において「構造改革論が採用されな
かった事情」について、加藤氏自身の率直な回顧が為されている。そして「下」
では、上記の加藤氏の証言を受けての質疑応答の内容が掲載されている。

 以上が本インタビューの構成であるが、タイトルには「構造改革論」とあるも
のの、実際にはそれに留まらず、加藤氏の生い立ちから社会党本部時代までの半
生記をフォローしており、社会党史、社会労働運動史に関心のある者であるなら
ば、いずれも大変興味深い内容となっている。

 具体的内容については、まず、社会党時代以前の生い立ちや入党の経緯につい
て、「火の玉勘十」の長男であるが故に、父親がアメリカから持ち帰ったファイ
バー製のトランクに、野坂参三から受け取った大量のパンフレットが入っていた
話(加藤氏へのお土産は「干しぶどう」のみであった)、戦後社会党結党に連な
る、日本無産党関係者の加藤邸での会合の様子、「人民社」から誘われた青年組
織が共産党系青年組織の準備会であった等、戦前や戦後直後の労働運動、社会主
義運動の雰囲気が窺えるエピソードが紹介されている。

 ちなみに、戦時中、「少なくとも私が接触している範囲で、日本無産党系の人
たちが集まって情報交換は、多少はしていたようですが、組織的な抵抗運動とい
う形ではなかった」(「下」p.64)とあるが、加藤勘十は監視下にあって、戦時
中どのようなことをして過ごしていたのだろうか。

 また、社会党結党時のキーマンの一人である徳川義親は、加藤勘十の関係であ
ったとされるが、両者の関係についても、何かエピソードが紹介されていれば、
さらに貴重な証言となったであろう。しかし、本インタビューのテーマを考えれ
ば、これはあくまでも評者の個人的な希望に過ぎない。

 また、結党間もない社会党本部についての証言も大変貴重である。加藤氏は、
矢野氏とともに、結党準備会の事務局があった蔵前工業会館から、社会党本部が
第二堤ビルに移った直後からの書記であり、彼らよりも先に、つまり結党準備段
階からの書記であった人々はすでに故人であるため、結党当時の社会党本部につ
いて証言を求めるならば、もはや加藤氏と矢野氏の証言に頼るほかはない。第二
堤ビル内部のレイアウトや活動資金の作り方など、加藤氏の記憶力には驚かされ
るばかりである。

 組織機構改革については、国会議員の自動的代議員権をなくす、執行委員会の
人数を減らす、ポスト別で執行委員を選ぶ、社会主義青年同盟(社青同)の結成、
機関紙の有料化などが紹介されている。機構改革というと左派からの反対によっ
て敗れたというイメージが強いが、右派の浅沼稲次郎も、国会議員への自動的代
議員権の剥奪やオーストリア社会党の信託者党員制度を参考にした二重党員制度
の導入など、加藤氏らが目指した改革には懐疑的であった。

 評者は、浅沼稲次郎が『月刊社会党』に発表した論文「機構改革に関する私見」
(1958年9月号)に対して、加藤氏が『社会新報』上で反論するなどしているこ
とから、両者の応酬はそれなりに激しかったと考えていたが、加藤氏によれば、
「浅沼稲次郎書記長から我々が提案すること自体を叱るということではなく、そ
の内容について長い経験から意見を述べられた」(「下」p.64)ということであ
るから、むしろ上記の論争については、「30代前半だからといって重鎮、長老か
ら叱られることはありませんでした」(「下」p.64)という、浅沼書記長の対応
を含めた、当時の社会党の風土、雰囲気を肯定的に評価するべきなのであろう。

 いずれにせよ、左派はレーニン主義の組織論、戦前派が多い右派も少数政党で
あった社会大衆党の経験しかなく、二大政党となった社会民主主義政党としての
組織論は誰も持ち得なかった。加藤氏らの試みも手探りであった。

 「議員中心主義を維持しようとする浅沼の主張よりも、党員資格の緩和を行わ
ずして活動家中心に切り替える向坂の主張の方が、加藤の組織構想に近かった」
(中北浩爾「日本社会党の分裂―西尾派の離党と構造改革派」山口二郎・石川真
澄編『日本社会党』2003年、p.59)とする中北論文の見解が正しければ、加藤氏
らが目指した党機構の近代化は、後述する構造改革論の「理論的な脆さ」と左右
両方からの反対によって阻まれたのみならず、二重党員制度等の重要な試みが否
定された結果、意図せざる結果とはいえ、民主的で幅広く開かれた活動家中心の
組織ではなく、一般的な社会党支持者の期待や意識と乖離した、教条的なイデオ
ロギーを有する少数の活動家党員中心の「機関中心主義」を生み出すきっかけを
作ってしまった、といえるのではないだろうか。

 翻って、昨年の衆院選で惨敗した民主党は、連合が主導した社会党改革の挫折
をその結党のルーツのひとつとしているが、結党時より、その意思決定プロセス
から一般党員は排除されてきた。つまり、日本の中道左派勢力は、未だ開かれた
民主的な党組織論を持ち得ていない。21世紀においても加藤氏らの問題意識は達
成されてはいないのである。

 次に、構造改革派の成り立ちや思想面については、一般的にイタリア共産党の
理論を導入したと理解されているが、加藤氏によれば、実際には「誰が中心とい
うこともなく、全国各地でそれぞれ構造改革派を自称していた人々」がいたので
あり、社会党の構造改革派についても、「トリアッチがこう言ったからとか、そ
ういう形でとり入れたということ」ではなかった(「上」p.69)。

 ブレーンについても、佐藤昇、松下圭一氏らだけではなく様々な人々がおり、
加藤氏個人も、二重党員制度のアイデアなど、ドイツ社会民主党やオーストリア
社会党については猪木正道の教えを受けるなど、多様な影響を受けていた。

 構造改革論が必ずしもひとつの理論的系譜を持たず、多様なルーツを持ってい
たことについて、評者は、そのこと自体は、単なる輸入理論ではない、日本独自
の左派理論の体系を生み出す可能性を秘めていたと肯定的に評価したい。しかし、
加藤氏によれば、構想改革派が元々属していた左派社会党の書記局員は、「ほと
んど『レーニン全集』などを給料天引きで買って」(「上」p.69)いた状態であ
った。

 「構造改革」という用語自体が、左派から改良主義と攻撃されるのを恐れて、
「構造的諸改良の道」というトリアッティの表現から加藤氏が造語したものであ
った。したがって、SPDの路線やベルンシュタインの理論を積極的に評価する
ことはなかった。そして、その理論的脆弱性ゆえに、構造改革論は「敗れるべく
して敗れた」(「上」p.72)のであるが、本インタビューの読者は自らが情熱を
傾けた構造改革論を淡々と総括する加藤氏の言に胸を打たれることであろう。

 なお、構造改革論の未発のエピソードを掘り起こそうという、聞き取り側の意
図であったと思われるが、「河上民雄先生と構造改革とのかかわり」についての
質問は、何らかの根拠があったのであればともかく、やや唐突な印象を受ける。

 評者であれば、河上派あるいは和田派という派閥に焦点を合わせ、彼らが構造
改革論をどのように見ていたのか、という点に注目したい。当時、河上派や和田
派は江田派とともに派閥連合を組んだのだが、このことと理論としての構造改革
論で三派が一致していたかは別の問題だからである。

 たとえば河上派の幹部、河野密の構造改革論に対する見解は、「構革論は左翼
のトロイの馬だ」(貴島正道『構造改革派―その過去と未来』1979年、p.52)、
「『構造改革論』は共産主義の一種であって、決して『右派』の理論などではあ
り得ない」(高田富之『私の社会民主主義』1982年、p.218)というものであっ
た。また、評者は高橋勉氏など複数の河上派書記局、秘書出身の方々から直接話
を伺う機会を得てきたが、彼らから構造改革論についての肯定的な評価を聞いた
記憶がほとんどない。和田派についても逆に左派的な立場からの同様な反応があ
ったと推測されるが、どうであろうか。

 また、構造改革派の多様性について、評者が「オルタ」に関連して個人的に関
心を持っているのは、本インタビューで、加藤氏が細谷松太を引用して、構造改
革派には、共産党内部、社会党書記局、労働運動という三つの流れがあるとして
いる点や、「初岡氏は清水慎三氏や坪井正氏などの理論的な影響をうける関西の
社会党青年部OBグループと多少ニュアンスの違うところがある私たちのグルー
プとの間を調整した」(「上」p.70)としている点である。

 加藤氏の証言と貴島(前掲書)を併せて読む限り、関西のグループとは西風勲
氏らのグループを指すと考えられる。また労働運動の流れのひとつとして、全電
通等を中心に活動していた、藻谷小一郎の組織問題研究会があり、これには横田
克巳氏が参加している(横田克巳『愚かな国の、しなやか市民』2002年)。

 つまり、いずれも加藤氏が主宰する「オルタ」に関わっている、初岡昌一郎氏
(と加藤氏)、西風勲氏、横田克巳氏は、まさに上記の異なる構造改革派のルー
ツを持っておられるのだが、評者はこれらの人々が当時のことをテーマに対談し
た物を読んだ記憶はない。そういったものがあるのであれば教えていただきたい
し、いままで企画されてこなかったのであれば、是非検討をお願いしたいと考え
る。

 ところで、加藤氏によれば、自身の理論的系譜はどちらかというと講座派系で
あり、「共産党と社会党で違うけれど統一戦線というか、強い弱いはありますが、
考えとして共産党排除というのはない」(「下」p.72)という。

 しかし、一方で加藤氏には、青森県連や長野県連における社共合同運動や、左
派派閥の五月会や労農党の事務局長であった松本健二が実は共産党員であったこ
と(松本健二『戦後日本革命の内幕』1973年に詳しい)、さらに国鉄青年民同、
総同盟、全繊同盟等の民同右派が中心となって結成し、社会党一次分裂の原因と
なったとされる、右派の独立青年同盟について、社会党内においてほとんど実態
を感じることがなかったにも関わらず、青年部が独青排撃の急先鋒となった背景
に、共産党の方針の影響が窺えたことなど、共産党との間には苦い歴史的経験が
あった。

 そして、そういった苦い経験を持つ加藤氏が、佐藤昇氏らをブレーンに迎え、
上田耕一郎らと研究会を開いたことも非常に興味深い。つまり、六全協やユーロ
コミュニズムの発展、スターリン批判直後の自由な雰囲気の中で発生した構造改
革論こそは、共産党による対社民の組織的な戦略や方針に基づかなかったが故に、
真の共闘の可能性を秘めていたのかもしれないからである。

 これらのエピソードは、我々研究者のみならず、今日の社会労働運動に携わる
人々にとっても、様々な意味で示唆に富んでいるのではないだろうか。

 最後に、私事で恐縮だが、評者が加藤氏に初めてお会いしたのは、2004年頃で
あったと記憶しているが、お話を伺う中で、自身の発する言葉に厳しい基準を課
しておられることに、強い印象を受けたことを覚えている。本インタビューから
も窺えるが、自分自身が直接目撃・体験したこと、仲間や同僚・知人から聞いた
こと、さらに書籍、論文に基づく自分の解釈や推測を含んでいる部分について、
逐一そういった証言の根拠や確度を明確にした上で発言されている点に注目され
たい。

 本インタビューを読んで、加藤氏に初めてお会いした日のことを思い出した次
第である。関連領域についての確かな知見とともに、加藤氏の語り口の特長を活
かして本インタビューをまとめられた、「社会党・総評史研究会」関係者各位に
感謝したい。

 (筆者は慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科・後期博士課程)
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