【コラム】風と土のカルテ(93)

「最も謙虚で、最も果敢な」若井晋先生の在りし日の姿

色平 哲郎

 最近、出版されたばかりの『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(講談社、2022)を手にして、脳外科医で、東京大学の国際地域保健学の教授を務められた故・若井晋先生(2021年逝去)の在りし日の姿を思い出した。

 この本は、若井先生の奥様の若井克子さんが、50歳代半ばで若年性アルツハイマーを発症された先生との「人生という『旅』」を丁寧に記録したものだ。

 「認知症に直面し悩み続けた私たちが、何をきっかけにどう変わり、病と付き合えるようになったのか、ありのままを記しました。老いや死を避けることはできません。でも、人は変わることができるし、新たな望みを見つけて旅を続けることができる──私はそう思います。わずか一事例にすぎませんが、いままさに私たちと同じ立場で苦しんでいる方が、ここから少しでも希望をくみ取ってくださることを願いつつ……」とプロローグに記してある。

 発症後の新天地、沖縄での生活や、アルツハイマー病の公表、夫妻でのご講演などの際の、当事者でなければ分からない思いが随所につづられている。ああ、そうだったのか、と様々なことに気づくとともに、若井先生がお元気だったころに交わした会話がよみがえった。キリスト者として生きた若井先生は、医療者としての秀逸さもさることながら、ひと言でいえば、「最も謙虚で、最も果敢な人」だったと思う。その歩みをたどっておこう。

 日本国際保健医療学会の神馬征峰理事長の「若井晋:次世代へのメッセージ」(Journal of International Health 2021;Vol.36 No.2:25-34. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaih/36/2/36_25/_pdf/-char/ja)によれば、若井先生は、東大医学部を卒業し、内科医となって1年後、ボランティアとして川崎の在日韓国人協会の「園医」を引き受け、牧師との出会いによって「いかに戦争責任と向かい合うべきかを現場で学んだ」。

 その後、東大に戻って脳神経外科に専門を替え、東京都立府中病院(現・都立多摩総合医療センター)に赴任。医師3人で年間300~400件の手術という激務をこなす。1981年には日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)ワーカーとしてご家族を連れて台湾に渡り、彰化基督教病院の脳神経外科医長を務めた。日本の植民地政策で日本語を強制された台湾の人たちの苦悩を直接、受け止めている。
 帰国後は獨協医科大学で診療に当たり、「私はキリスト者ですから、違う人生があります」と、いわゆる出世には見向きもせず、恬淡(てんたん)として、患者さんの生命を救おうとメスをふるった。

●脳外科教授からの異例の転身

 臨床の最前線で奮闘してきた若井先生に転機が訪れたのは1993年。JOCSの総主事を引き受けている。NGOの予算や事業計画、人員の配置を司る事務系トップに就いたのだ。
 以後、開発途上国へ頻繁に足を運び、国際保健活動にのめり込んでいく。いくら臨床技術が優れていても、それだけでは民衆は救えない。病気にならないようにすることの大切さに目覚めたのだった。

 1996年、獨協医科大学脳神経外科教授に就任する。98年には社会開発・PHC・国際保健のバイブルとして知られる、デイヴィッド・ワーナー、デイヴィッド・サンダース共著の『The Politics of Primary Health Care and Child Survival』を監訳して出版(『いのち・開発・NGO―子どもの健康が地球社会を変える』[新評論、1998])、翌年、満を持して東大の国際地域保健学教室の教授に就いた。脳神経外科の教授から、国際保健の教授への転身は異例中の異例といえる。

 私が若井先生と直接、やり取りさせていただいたのは獨協医科大の教授時代だった。あるとき、「JOCS総主事も経験し、国際保健活動に使命を見出しておられたにもかかわらず、なぜ、獨協医科大の教授をお引き受けになったのですか」と訊ねたことがある。

 若井先生は、こう答えた。
 「うーん。あまり人には言っていないことだが、後輩の脳神経外科医のK君を次の教授に指名したかったからだよ。K君は人柄も、腕も申し分ないのに、在日コリアンという理由だけで、教授の目がなかった。日本の大学医学部の悪しき因習だね。それで僕が先に教授になって、彼を次の教授に指名して後を託したわけだよ」

 世間は、出世とみたかもしれないが、若井先生はまったく別のことを考えていた。急いで国際保健に携わるのではなく、あえて3年間、脳外科の教授職をこなしている。これも「戦争責任」の取り方の一つだったのかもしれない。

 若井先生から受信した手書きファクスの文面の「テニヲハ」の乱れから、私が異変を察知したのは2004年だった。翌々年、59歳で、先生は退官された。

 上述の川崎の牧師とは李仁夏牧師である。私もまた、若い頃、李牧師から「いかに戦争責任と向かい合うべきかを現場で学んだ」。

 何度も何度も佐久に足を運んで、山村で合宿する医学生や研修医たちに親しく講義をしてくださった若井教授。佐久病院の恩人である若井先生のご冥福をお祈りする。

 (長野県佐久総合病院医師、『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2022年01月31日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202201/573717.html

(2022.2.20)
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