■ 【書評】

『政治家の人間力─江田三郎への手紙』

           (北岡和義責任編集・明石書店刊)      岡田 一郎
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  死後に至っても、人々にその存在を語り継がれる政治家はまれである。そのま
れな政治家の1人が江田三郎であろう。江田の何が人々を惹きつけるのだろうか。
本書の執筆者の1人である榊原英資は江田三郎を「政治にロマンを賭けた激しい
人」と表現している。(本書149頁)江田三郎の生前から死の直後にかけて、人々
が江田に寄せたイメージの多くは榊原と同じであったのではないだろうか。だか
らこそ、その「ロマン」に惹かれて多くの人々が己の人生を江田三郎に賭けたの
である。そして、1993年から94年にかけてのつかの間の政権交代時、野党にあ
りながら政権交代を目指した政治家の先駆者として、江田三郎の名が再び人々の
言の葉に載せられていくこととなる。江田と直接の面識がなかった塩田潮が江田
の伝記を執筆し、本書の執筆者に名を連ねることになったのも、江田が自民党一
党支配に最後まで抵抗した数少ない政治家であったからである。そして、近い将
来の政権交代が噂される今日、政権交代を夢見た江田三郎の存在が再びクローズ
アップされていくであろうことは間違いない。

  理念を打ち出すだけでなく、その理念の実現のために冷徹に権力獲得を目指し
た「真の意味での職業政治家」(空井護の論文、本書337頁)として、そし
て、政治哲学を持たない“徒党”と化した今日の政治家たちと対照的な存在と
して(山岸章の手記、本書159~160頁)、人々は再び江田三郎に注目するであ
ろう。
  その一方で、人々の江田三郎に関する記憶が次第に風化していっているのもま
た事実である。私も含めて本の上でしか江田三郎という存在を知らないという人
間も増えてきた。だからこそ、資料的価値が高い江田三郎ゆかりの人々の手記を
世に残す一方で、社会民主主義再生の取り組みの中で江田を再評価しようとして
いる山口二郎や江田の政権構想を詳細に分析した空井といった江田と直接の面
識のない政治学者による江田三郎論を合わせて収録し、新しい世代による江田三
郎論の先鞭をつけた本書の出版は誠に時宜を得たものと言えよう。

  本書の中で、上記の「政治にロマンを賭けた政治家」「理念を掲げその実現の
ために権力を追求した政治家」というイメージのほかに、「組織者」としての江
田三郎のイメージが語られていたことは、社会党の組織改革について研究してき
た私個人にとって非常に喜ばしいことであった。今日では、江田ビジョンのイメ
ージが強いが、日本の政党が単なる国会議員の集合体から近代的な組織政党へと
変貌していく時代の流れの中で、社会党を近代的な政党へと生まれ変わらせたの
は江田であった。江田の下で組織改革に従事した加藤宣幸や江田のブレーンであ
った松下圭一の手記にその詳しい経緯が載っているが、後に社会党の弱点として
あげられるようになる組織力の弱さを江田はいち早く指摘していた。「組織強化」
の掛け声は社会主義協会の専売特許のように考えられているが、党組織の近代化
に果たした江田の功績は見直されてよい。

  しかし、同じ組織と言っても、江田と社会主義協会の組織の捉え方は全く異な
っている。それは社会党の出版物を見るとよくわかる。構造改革派が優位にたっ
ていた時代の出版物では党内で交わされた文書や党員数・会議の議事録などが公
開され、一般の人々に対して開かれた党を目指していたのに対し、社会主義協会
が優位にたった時代の出版物は党員数が伏せ字になるなど、秘密主義的で内輪だ
けで固まった印象を与える。

  これは江田と社会主義協会の組織の捉え方の違いというよりも、山川均と向坂
逸郎の組織論の違いであったのかもしれない。山川も向坂も共に労農派マルクス
主義の代表的な理論家であり、江田もまた労農派マルクス主義者であった。しか
し、社会党政権樹立後も改良主義的な政策を積み重ね、徐々に社会主義を目指し
ていこうという山川と限りなく暴力革命論に近い向坂では政権構想からしてま
るで考え方が異なる。来るべき社会主義革命に備えて、革命家の党を作ろうとし
た向坂・社会主義協会に対して、江田は山川の構想を受け継ぎ、徐々に社会主義
の方向に向かうための長期の社会党政権を樹立するために、そして容易に自民党
に政権を奪い返されないために、強力な党を作ろうとしたのではないだろうか。
加藤は江田のもとでおこなわれた組織改革が「社会民主主義の理論に深く裏付け
られた組織論」であったのかと自問しているが(本書199頁)、江田の組織改革
は日本の左派社会民主主義の代表的な論客である山川の思想を受け継いだとい
う点において、私は十分「社会民主主義の理論に深く裏付けられた組織論」であ
ったと思う。

  組織論だけでなく、江田の思想を理解するためには、江田が依拠した山川の思
想を知ることが必要ではないか。にもかかわらず、本書では山川についてほとん
ど触れられていない。そこが本書を通読して、私が最も不満に思ったところであ
る。戦後(それも高度成長期以降)の江田の言説を見るだけでは江田の思想を完
全に理解することは出来ないのではないだろうか。

  例えば、江田は社会党を離党した直後、「社会主義運動とは、人間優先の理念
にたって、現実の不合理・不公正を一つ一つたたき直していく、終着駅のない運
動のトータル」(江田三郎『新しい政治をめざして』日本評論社、1977年、14
頁)であると述べている。江田にとって、社会主義とはマルクスやレーニンの言
葉どおりに行動することではなかった。社会の実態を考察し、そこに生じる様々
な問題を解決していくことがいつかは社会主義につながるという考えであった。
このような姿勢は山川に通じるものがある。山川は非武装中立主義を絶対視せず、
あくまで米ソの激しい対立構造の中での選択肢と考えていたし、資本主義の枠内
での政策も十分社会主義社会を建設する一要素となりうると考えていた。

もしかしたら、江田こそ、山川の思想の正当な後継者であったのかもしれな
い。本書の中で、江田が社会党を離党した直後、菅直人と公開討論会をおこ
なった際、「市民主義」を唱える菅に対して、江田はあくまでも己の信条とし
て「社会主義」を主張したというエピソードが出てくる。江田にとって、社会
主義こそが「人生そのもの」(田中良太の手記、本書98頁)であり、「政治の
原点」(菅直人の手記、本書112頁)であった事をうかがわせるエピソードだ
が、自分こそが山川の正当な後継者であり、日本の社会主義運動あるいは左派
社会民主主義運動の正道を歩んできたものであるという自負が江田に「社会主
義」と言わせたのではないかとも思われてくる。

  そう考えると、本書の中で何度も登場する「江田は新しい社会主義像を模索し
たのに対し、社会党はマルクス・レーニン主義に拘泥し、江田を放逐した」とい
った内容の表現にも私は疑問を抱かざるを得ない。社会党がマルクス・レーニン
主義に拘泥していたというが、社会党はいつからマルクス・レーニン主義の政党
となったのか。マルクス・レーニン主義を公然と主張していたのは社会主義協会
である。その社会主義協会も山川が代表をつとめていた時代はレーニン主義を極
力排してきた。山川は高度経済成長がまさに始まろうとしていた1958年に死去
する。江田はその後、構造改革論を唱えていくことになるが、構造改革論とは山
川の思想を高度経済成長の時代に適合させようという試みではなかったのか。現
に、江田が属した鈴木派の領袖・鈴木茂三郎は構造改革論に触れたとき、「これ
はもともと社会党が主張してきたことで、今ごろ共産党が言うのはおかしい」(鈴
木徹三「日本社会党と鈴木茂三郎(1)」『大原社会問題研究所雑誌』441号(1995
年8月)、10頁)と述べたと言う。後に社会主義協会の論客として江田と対立し
ていくことになる党本部の書記たちも構造改革論を熱心に研究していた。

  しかし、向坂が代表を継いだ社会主義協会はこのころから急速にソ連に傾斜し
ていき、レーニン主義的な性格を強めていく。江田と同じ鈴木派に属しライバル
関係にあった佐々木更三は社会党の再統一以来、対立関係にあった向坂と関係を
修復し、江田と対立していく。(中北浩爾「晩年の清水先生との交流」刊行委員
会編『君子蘭の花蔭に─清水慎三氏の思い出』平原社、1997年、236頁)この
ような江田を取り巻く環境の変化の背景に、榎彰が指摘するような日本共産党の
隠れ党員の存在があったのかどうかはわからない。しかし、確実に言えることは、
社会党あるいは社会主義協会がマルクス・レーニン主義に拘泥したゆえに江田は
離党を余儀なくされたのではなく、いつの間にかマルクス・レーニン主義の集団
へと変わってしまったがゆえに江田は離党を余儀なくされたということである。
(構造改革論争から江田離党に至る党内事情は船橋成幸の手記が詳しい)

  これまで江田と山川の思想的つながりを強調してきたが、江田の思想の先見性
やオリジナリティを私は否定するつもりはない。江田三郎が高度経済成長という
日本社会の未曾有の大転換に対処し、経済優先の社会から人間優先の社会への変
革を目指した数少ない政治家の一人であったことは確かである。そうした社会変
革を実現するために思想的に江田がいかに苦悩したのかについては、江田のブレ
ーンであった正村公宏や北沢方邦の手記が詳しく述べている。そして、そうした
社会変革実現のための江田の実践の具体例としては、土井たか子や仲井富が語る
公害に対する江田の取り組みがあげられる。マルクスやレーニンは当然のことな
がら、公害という事態を想定していなかった。そのため、日本の社会主義者の中
には、公害を資本主義社会特有の問題と捉え、社会主義社会になれば公害はなく
なるなどと主張する者もいたという。

そうした風潮の中で、江田が果敢に公害に取り組んだのは、江田に「人間優先
の理念にたって、現実の不合理・不公正を一つ一つたたき直していく」ことこ
そが社会主義であるという考えがあったからではないか。それは初岡昌一郎の
言葉を借りれば、「ヒューマニズムに基づく社会主義」(本書295頁)であっ
たのかも知れない。確かに、江田の身近にいた人々が語る江田三郎は人間愛に
満ち溢れている。人間に等級をつける叙勲を辞退し(仲井の手記、本書232
頁)、一人の未知の高校生が出したはがきにも誠実に答え(山田高の手記、本
書239~240頁)、ハンセン病患者の人々も差別しない江田三郎(石井昭男の手
記、本書366頁)。そんな江田三郎だからこそ、公害をはじめとする高度成長
の矛盾に苦しむ人々を目の前にして、それを見過ごすことは出来なかったので
はないだろうか。

  「人間を愛するがゆえに、人間を苦しめる不合理・不公正と戦う」─多くの人々
の江田三郎にまつわる思い出、江田三郎への思いを読み終えたとき、私は江田の
思想の根本にはこんな思いがあったのではと思うようになった。この比類なき人
間への愛こそ、編者である北岡和義が本書の主題につけた「人間力」ではなかっ
たのか。そして、江田三郎の後を継いで政治家の道を歩んだ江田五月は、政治の
世界のアクターにその「人間力」が乏しいと、政治の豊かさが失われると指摘し
ている。(本書362頁)だが、今日の日本の現実を見つめなおしたとき、日本の
政治の舞台に江田三郎のような「人間力」を持つ政治家をどれほど見出すことが
出来るだろうか。もし、私たちが江田三郎のような政治家をほとんど持ちえてい
ないというならば、それは今日の日本政治が豊かさを失っているというだけでな
く、人間力のある政治家を生み出すことの出来ない私たち有権者自身も「人間力」
を失っているということではないだろうか。私たちは江田三郎のような「人間力」
にあふれた政治家の出現を待つだけでなく、私たち自身が「人間力」を回復し、
人間を苦しめる不合理・不公正と戦う気概を改めて持つ必要があるのかもしれな
い。

  最後に、私は1973年の生まれで、江田三郎が亡くなったとき、わずか3歳の
幼児に過ぎなかった。そのため、江田三郎という政治家を私は直接には知らない。
そのため、江田三郎と同時代を生きてきた人びとから見ると、まるで方向違いの
江田三郎の解釈をおこなったかもしれない。そのときはひらにご容赦願いたい。

(小山工業高等専門学校・日本大学・東京成徳大学非常勤講師)

※煩雑になることを避けるために、敬称は略させていただいた。
※山川均・向坂逸郎の思想の解釈については、米原謙「日本型社会民主主義の思
想─左派理論の形成と展開」山口二郎・石川真澄編『日本社会党』日本経済評論
社、2003年を参照した。

◆本書の構成◆
◇第一部 江田三郎の人間力
  政治家・江田三郎の人間力(北岡和義)
  “政権とれず 恥かしや”(塩田 潮)
「政治にはビジョンが不可欠」とクライスキ(榎 彰)
「商売としての政治」否定のパトス(田中良太)
◇第二部 第二部 江田三郎への手紙
  江田さんの世代、社会主義とは社会正義と同義語ではなかったですか(菅 直人)
  平和憲法と江田ビジョン-憲法研究者の一人として(土井たか子)
  輝いていた江田ビジョンと政権意欲(榊原英資)
  若い人は問題意識をもってほしいと願う(山岸 章)
  政権獲得に挑んだ導きの星-江田三郎さんに捧げる(船橋成幸)
  石もて追った党は今なく(加藤宣幸)
  過去を語らず未来をめざす-江田三郎との五七年間(仲井 富)
  江田さん、悲願の政権交代間近です(山田 高)
◇第三部 戦後政治における江田三郎
  歴史的転換への模索の時代を生きて(正村公宏)
  グローバリズムを超える世界像を(北沢方邦)
  江田三郎の国際感覚(初岡昌一郎)
  構造改革論争と《党近代化》(松下圭一)
  社会民主主義の再生へ向けて(山口二郎)
  真の職業政治家としての江田三郎?解説にかえて(空井 護)
『政治家の人間力 - 江田三郎への手紙』刊行にあたって
  政治家の人間力 - 父・江田三郎の場合(江田五月)
  長島愛生園で語り継がれていること(石井昭男)
◇編集を終えて(北岡和義)
◇江田三郎没後三〇年・年表

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