【コラム】
大原雄の『流儀』

「憲法くん」という、私の同級生(3)~沖縄の、幾層もの重い石~

大原 雄


1962年

 子どもの頃からものを書くことが好きだった私は、1959年以降、中学生になった頃から、将来は新聞記者になりたいと思うようになった。中学時代は、文芸部というサークルに入り、文学に触れ始めた。高校時代は、新聞部で新聞や雑誌を発行した。当時、朝日新聞社から『地方記者』という本が出版された。この『地方記者』という本は、朝日新聞社の通信部(当時は組織名が現在のような「通信局」ではなく「通信部」であった)編で、正続2冊の本であった。
 地方の支局の傘下にある通信部は、事務所と自宅が一緒の建物である。従って、通信部では、社員記者の夫だけでなく妻も取材などの業務に巻き込まれることになる。そういう日常を描きながら、地方版を埋めるニュースを追い、記事を書き続ける記者たち。「地方記者」とは、東京などの本社の社会部、政治部、経済部、国際部(外信部)、文化部(学芸部)など華やかな部署に所属する記者たちではなく、全国各地の支局や通信部(通信局)などで取材をする記者たちのことである。

 『地方記者』という本は、そういう取材の第一線で働く記者たちの取材や日常生活についてペーソスを交えて描いたエピソードをまとめたもので、地味なテーマの割には、売れたようで、「正続」というか、柳の下の泥鰌を求めて、続編が、出版された、というわけだ。本の帯だったと思うが、「大都会で活躍する記者だけが、新聞記者ではない」などという惹句とともに地方記者の人間味溢れる日常の取材活動を描いた本に中学生の私は、魅了されてしまった、というわけだ。
 地方で働く新聞記者生活の魅力を熱っぽく語る中学生の私に、同級生たちは、「記者さん」とあだ名をつけたほどであった。卒業時に、同級生たちにサイン(氏名)と贈る言葉を書いてもらうのが流行っていたが、私のサイン帳に「記者さん! 頑張れ」と書いてくれた同級生もいたし、国語担当の先生は、「記者になるためには、物を見る目を養うことが大切だ」という趣旨の言葉を書いてくださった。

 その後、実際にNHKの記者になった私は、40年近いNHK生活のうち、東京の社会部記者9年を含めて通算16年の記者生活、特報部デスク・ニュース7部デスクを含めて、通算10年のデスク生活を全うしたが、恩師の言葉は、記者・デスクの期間を含めて、私の報道記者生活の座右銘になっている。本として売れた『地方記者』は、日本テレビの、確か「日産劇場」という枠で、1962年にテレビドラマ化された。主人公は、長野県の通信部記者・大谷千吉。千吉には、インテリ俳優の小山田宗徳が主演し、通信部記者の妻には、水木麗子が助演した。通信部の上に立つ支局の「鬼」デスクには、安部徹が出演していた。

 地方記者は、年齢も経験もいろいろの記者が混じっているのだが、事件事故の警察への取材、巷の心温まる町ネタ、役場、学校、農業、漁業など、その土地ごとの特色のある記事を書く。人々の心に伝わる記事を書いて行く中で、大谷千吉も記者として成長して行く。

 テレビドラマとともに、画面に流れる哀愁を帯びた主題歌「涙こらえて」は、小山田宗徳自身が歌った。調べてみたら、作詞は、谷川俊太郎。以下の歌詞は、どちらが一番か二番か、私には判らないが、以下、うろ覚えのままに歌詞を書いてみようか。

 「人の心は悲しいけれど それに負けてはいられないのさ
  生きている 生きているんだ人間が
  泣いて笑って我慢して
  からのグラスを前にして 涙こらえる事もある」

 「人の心は悲しいけれど それに負けてはいられないのさ
  生きている 生きているんだ人間が
  泣いて笑って我慢して
  独り鉛筆握りしめ 涙こらえる夜もある」

1971年

 中学生時代の夢を実現し、大学を卒業し、新聞記者ならぬNHKの放送記者になった私は、2ヶ月の記者研修を終えて、1971年6月、大阪に赴任した。大学で学ぶうちにテレビの記者に関心を持ち出していた。全国紙の新聞各社は、大阪は、「本社」というところがほとんどだが、NHKは、「大BK(ビーケー)。当時は、大阪中央放送局」と言えども地方の放送局であったので、新人記者の私も赴任させられた、というわけだ。新聞社は、数年間の地方支局勤務を経て、東京本社や大阪本社へと上がって行く。

 「『憲法くん』、という私の同級生」シリーズの、この項は、やはり、憲法との関わりを書かなければいけない。私は、NHK入局は1971年4月。前年の1970年11月25日は、三島由紀夫が自衛隊に乱入し、憲法改正クーデターへの蜂起を訴えて、演説をした。それが自衛官たちに受け入れられないと知るや、割腹自刃した事件があった。私は、大学からの帰途、山手線の駅で降り、自宅に向かって歩いて帰る途中、商店街の街頭でそのニュースに接した記憶がある。
 入局後、大阪で勤務を始めた。1972年2月、長野県の軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」で、連合赤軍のメンバーたちが人質をとって立てこもり、山荘を包囲した警察隊と銃撃戰になった事件。さらに、同じ1972年。5月15日にはアメリカから沖縄に対する施政権が日本に返還された。私は、デスクに命じられて、大阪の大正区という沖縄出身者が比較的多く住む地区へ、沖縄の施政権の返還に対する人々の思いをインタビューするために向かった。沖縄問題については、この後、少しきちんと書きたい。

沖縄への関心

 1971年1月、私は、4月からのNHK就職を前に、アメリカ統治下の沖縄へ半月ほどの旅に出かけた。沖縄は、大学在学中に、同じサークル活動に参加していた同学年で他学部の学生と親しくなり、私は、沖縄への関心を深めていた。特に、連合国軍による日本の占領が1952年に解かれた後も、沖縄だけがアメリカの「占領」下に置かれたことに、なんとも納得のいかない思いを抱いていた。
 沖縄は、連合国軍の占領から日本が脱した後も、連合国軍の軸になっていたアメリカが駐留を継続したことで、憲法の上に「日米地位協定」(1952年当時は、「日米行政協定」。地位協定は、1960年から)という重石が載せられていた。後に述べるが、沖縄では、その後も含めて、21世紀の現在まで、米軍基地とその関連において、日本国憲法が最高法規ではなく、日米安保条約、日米地位協定、さらには、長らく非公開だった「日米地位協定合意議事録」(日米合同委員会の議事録)が、重い石となって、沖縄を押さえつけている。

沖縄になぜ、米軍基地が集中したのか

 沖縄の悲劇は、何よりも米軍基地の集中。全国の米軍基地の、7割以上が沖縄に集中している。沖縄県の資料によると、沖縄が本土に復帰した1972(昭和47)年、日本全国の米軍専用施設の面積に占める沖縄県の割合は約58.7%だったが、本土での米軍基地の整理縮小の結果、整理縮小が進まなかった沖縄県には、逆に、全国の米軍専用施設面積の約70.6%が集中する結果になっている(2017年1月1日現在。沖縄県の資料による)、という。日本列島で唯一の連合軍上陸による「沖縄戦」の敗戦が、大きな要因のひとつだろうが、1945年から1952年までの日本占領終了後の、アメリカに拠る沖縄統治、1972年、本土復帰まで、アメリカや駐留米軍の「(沖縄、日本に対する)戦勝意識」、「沖縄占領意識」は、長く継続されてきたし、いまも、本質的に色濃く残っているように見受けられる。

贅言;「沖縄戦」。1945年3月、米軍は、前年からの空襲や海上の軍艦からの砲撃に続き、4月1日からは、沖縄本島中部の西海岸に上陸し、地上戦を展開した。6月23日に日本軍が敗戦するまでの組織的な戦いを「沖縄戦」と呼んでいる。沖縄戦では、「非戦闘員」の一般住民を含め、20万人余りが戦死した。先の戦争で、米軍の日本各地の空襲を除けば、日本国内でただひとつ、沖縄の一般住民だけが地上戦を体験させられている。20万人余りの戦死者のうち、半数に近い9万4,000人余りの戦死者が、兵隊以外の一般住民であり、子どもたちであった。6・23は、「沖縄慰霊の日」である。

 沖縄は、なぜこのようなことになったのか。1945年8月の日本敗戦によって始まった米国陸軍を中心とした連合国軍の日本占領政策は、1952年まで、7年間続いた。その間に、日米関係では大きな変化があった。前号でも触れたように、1950年6月の朝鮮戦争勃発である。日本を非軍国化する政策と民主主義化的改革を推し進めていたアメリカは、朝鮮戦争勃発を受けて、日本の再軍備化へと急激な舵を切ったのである。アメリカは、朝鮮戦争参加のために日本本土を経由して朝鮮半島に出撃して行った。
 さらに、2年後、1952年4月、サンフランシスコ講和条約発効の時点で、日本は、被占領状態を脱し、独立することになるが、占領軍の駐留は、逆に強化された。つまり、「連合国軍の占領」は終了したが、「米軍の駐留」は、継続された、というわけである。

 この時期、日本側の責任者は、吉田茂首相であった。前号でも触れたように、吉田茂は、1946年から54年までのほとんどの期間、首相に座にあった。吉田は、戦後の日本が非軍事化と戦争放棄を定めた日本国憲法9条を新国家の大義として頭に頂いた以上、米軍への基地提供によって、日本国の安全保障を維持するしかないと考えていた。1950年から1953年まで続いた朝鮮戦争は、日本の保守政治家たちに共産主義勢力の脅威を強く意識させるとともに、日本を守るための抑止力として、「米軍の駐留」を必要悪として確信させたのである。
 ただし、サンフランシスコ講和条約が、敗戦国日本にとって、戦後7年にして、やっと取り戻した独立国への再出発の旅券なら、その建前は、日本国民に見せつけなければならない。このために、当時の日米の首脳たちは、次のようなことを考えた。講和条約には、「米軍の駐留」継続は、明記しない。そのために、講和条約とは別に日本防衛の見返りに、日本は、米軍に基地を提供することを日米二国間協定という形でとりきめる、というアイディアであった。

 被占領状態から脱して、主権を取り戻した日本政府は、主権国家同士というポーズをとって、基地という領土の一部を米軍に提供する、体裁を取り作ったのである。日本政府からこの時提案されたのが、「日米安全保障協定」(案)であった。これが、後に、日米安保条約と「日米行政協定」として、成立することになる。さらに、「日米行政協定」は、1960年、つまり、「60年安保」改定の時に、「日米地位協定」として継続され、21世紀も間もなく5分の1になろうとしている時代でも、一片の改定・見直しがされることなく、基地周辺の日本国民、基地を抱える自治体を苦しめている。なかんずく、沖縄では、その苦しみは、幾層もの重い石となって、沖縄県民たちを抑圧している。

山本章子著『日米地位協定』

 その経緯を学ぶのに、とても適切な本が出版された。去年(2018年)から琉球大学の国際政治学者山本章子専任講師が研究成果をまとめた『日米地位協定』(岩波新書)である。以後は、この本を道案内に活用させながら、沖縄の基地の元凶の真相を探って行きたいと思う。大雑把ながら、日米安保条約と日米地位協定に絞って戦後の動きを見て行こう。まず、関係年表を作っておきたい。

1945年8月、日本の無条件降伏。沖縄を含めて、日本は、連合国軍に占領される。
1950年6月、朝鮮戦争勃発。
1951年9月、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印。
1952年2月、日米行政協定調印。4月、講和条約・日米安保条約・日米行政協定発効。
1960年1月、新/日米安保条約改定・日米行政協定改定→日米地位協定調印。これに反対する、いわゆる「60年安保闘争」。
1971年6月、日米両政府、沖縄返還協定調印。

連合国軍「占領」から米軍「駐留」へ

 サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、占領軍は講和発効後90日以内に退去する、という講和条約第六条に反して、アメリカから示された日米行政協定案は、第二条で、米軍が継続使用したい基地や施設について講和発効後90日以内に日米合同委員会で協議し、その間に両国の合意が成立しない場合には暫定的にしようできると規定されていた、という。日米の交渉を経ても、「日米行政協定本文では、日米合同委員会における両国の合意を基地提供の原則とし、委員会で合意が成立するまでの間は現状の米軍基地や施設が継続できることになる」。
 つまり、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、日本は、被占領状態を脱し、主権を持った独立国として、国際社会に復帰、迎えられた。しかし、占領終了後も、日本はアメリカと安保条約という二国間条約を締結し、米軍駐留を日本に望ませた。講和条約には、米軍駐留を書き込まず、安保条約に委ねたのである。

日米安保条約から日米行政協定へ

 これに対して、日本政府案は、「『協定』本体には日本政府が駐留軍に与える特権を明記せず、別途取り決めることを再度求めた、という。アメリカ側の代表ダレスは、「修正した『協定』案と別途作成した日米行政協定案を提示する。ここで初めて、日米安保条約とは別個に在日米軍の地位と特権を定めた日米行政協定が生まれた」という。日米安保条約は、全五条。第三条には、米軍の「配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する」とされている。アメリカは、条約から協定へ、重心を移したことになる。

 こうして、日米両政府の交渉は、紆余曲折したものの、1952年2月、日米行政協定が調印され、4月には、講和条約・日米安保条約・日米行政協定が、同時発効とされた。日米安保条約は、既に触れたように、「全五条のシンプルなもので講和後の日本に米軍が駐留する法的根拠を定めた。これに対して、全二九条の日米行政協定は、細かい記述が多く実際に駐留米軍が得られるものとできること、そのための日本側の協力を規定した」という。67年前の、この時点で、今日も続く沖縄での米軍の「地位」の特異さと沖縄の住民や自治体にのし掛かる「幾層もの重い石」の根本的な骨格が、くっきりと伺えるように思う。

贅言;連合国による日本の占領終了後、日米二ヶ国の間で取り決められた日米安保条約(1951年9月署名)は、全五条、1960年1月に改定された新・安保条約は、全十条というシンプルなもの。日米行政協定から1960年1月に改定された日米地位協定は、全二八条である。

 日米地位協定は、安保条約が「有効である間、有効である」という、大きなものに貼り付くコバンザメのような存在でありながら、アメリカの安保政策の実務面での細かなルールを定めている。1959年、日米行政協定の大幅改正案を日本政府は、アメリカ側に提出した。山本講師に拠ると、「日本案は各省の要望事項を『問題点』として五七項目に整理し」ていたが、結果的には、日米合同委員会の非公開の合意議事録では、「旧来通りの米軍の排他的な自由運用が担保された」という。それだけに、日米地位協定について、議論・検討すべき国会審議の経緯を期待したいと、私は、思った。

1960年 

 しかし、60年安保条約改定と安保闘争の陰で、日米行政協定の改定→日米地位協定への更新という問題は、国会では殆ど議論・検討がなされなかった。1960年2月5日、新/安保条約は、承認を求めて、国会に提出された。国会では、衆議院安全保障条約特別委員会で37回にわたって審議されたが、国会での議論は、日米安保条約ばかりで、日米地位協定については、殆ど取り上げられなかった。新聞などの報道でも、殆ど取り上げられなかった、という。

 当時の首相、岸信介の安保条約改定へ向けての「強引な手法」は、いわゆる「安保闘争」という国民的な反対運動に発展した。日本列島の各地で、安保改定に反対するデモが繰り広げられ、延べで数百万人が参加したと言われる。私は、中学生であった。デモに参加したり、国会周辺へ行ったりしたという体験はないが、少年の脳裏にも、戦後史の大きなうねりを感じた記憶は残っている。

 安保闘争が、岸内閣退陣運動へと発展して行く中で、岸内閣は、6月19日の安保条約・日米地位協定の自然承認・成立を経て、総辞職することになる。しかし、こうした動きの中で、肝心の日米行政協定の改定→日米地位協定への更新は、その詳細や問題点が広く論じられないまま承認・成立したのである。

憲法と日米地位協定

 沖縄で、日本国憲法の上に居座っている日米地位協定とは、どういうものだろうか。私のイメージでは、こうである。戦後日本は、スタートから国の象徴である天皇の上に、マッカーサー元帥が座り込んでいる、というカリカチャーがイメージされる。それ以来、日米地位協定は、1951年4月、マッカーサーが日本から去った後も、日本国憲法の上に居座り続けている。沖縄では、憲法も県民のための最高法規とはならず、「最高法規」の上に、超法規的な「協定」が、のしかかっている。三権分立も守られておらず、行政も立法も司法も蹂躙され続けている。どうしてこういうことがまかり通るようになったのか。

 繰り返しになるが、日米地位協定は、判りにくいところもあるので、簡単にまとめておこう。

 日米地位協定は、正式には、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」という。旧・日米安保条約を改定継承した新・日米安保条約とともに1960年6月、発効した。ポイントは、1)日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力、2)第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位(の保全)、ということだろう。協定の条文では、在日米軍が日本の独立回復後も占領軍時代と変わらぬ地位(特権)を維持するという印象を日本国民に持たれないようにと腐心しているようだが、アメリカの本音は、日米合同委員会の場で、主張される。しかし、その主張の記録は、非公表とされている。

 それまでの日米行政協定と異なり、この協定は日本国憲法に基づく条約であり、施設および区域の特定方法、米軍の出入国の保障および課税免除、米軍の構成員、軍属およびその家族に対する課税権、民事裁判権および刑事裁判権の所在、日本の協力義務、協定の実施機関である日米合同委員会(日米両政府で構成)の設置・協議などについて規定している。

 中でも、よく問題になるのは、次の点である。米軍基地内での管理権や基地の外での警察権を在日米軍に認め、米兵らの犯罪について日米両国の裁判権が競合する場合の第一次裁判権は公務執行中の場合は米軍が、その他は日本側が持つなどと規定していることである。

日米合同委員会

 日米地位協定で、問題となるのは、「日米合同委員会」であろう。サンフランシスコ講和条約では、戦後、連合国軍の占領期を終了して、日米二国間の安保条約締結となった。日米安保条約の改定・維持継承という流れの中、安保条約に付随する形で、日米行政協定、日米地位協定の「実施機関」として、要となってきたのは、実は、日米合同委員会である。日米合同委員会とは日本政府の代表と米国駐日大使館、在日米軍の代表が出席し、議事録の非公表を原則として在日米軍に関する話し合いを行う場である、という。

 既にお判りのように、日米合同委員会は、ブラックボックスなのである。というのは、「日米地位協定合意議事録」つまり、日米合同委員会の議事録は、この委員会が設置されて以降、長いこと非公表とされてきたのである。日米地位協定の日米合同委員会では、協定の運用改善の検討や補足協定が結ばれるなどしてきたけれど、議事録は非公表であり続け、さらに、協定の条文そのものも、1960年の日米安保条約改定に合わせて締結されて以来、半世紀以上、一度も変更されていないからである。私には、アメリカ側の対応の根幹には、ひたすら既得権益の擁護・維持・将来への継承に腐心している歴代の大統領のイメージが、くっきりと浮き彫りにされてくるように思われる。

 日米合同委員会の見直しについて、沖縄県の要請。稲嶺知事と翁長知事が要請したが、例えば、翁長知事時代に出された地位協定改定案は、11項目に及ぶが、根幹は地位協定の運用への自治体の関与を強く要求するものであった。

日本国憲法が蹂躙されている沖縄

 トランプは、アメリカでは、異常ではない。
 アメリカは、沖縄に基地問題、なかんずく、米軍の排他的、特権的な「地位」に関して、戦後一貫して、ずうっと、いわば「トランプ流」であった。

 最近のトランプ大統領は、アメリカ軍が日本から引き上げ、日本国内で選挙していた基地を日本に返す代わりに、いわば基地を「売却」するから金を払えと言っている、という。米軍基地という、本来は日本の領土である自分の土地を取り戻すのに、土地を収奪し長年勝手に使用してきたアメリカに金を払え、という、このトランプなる人物のコモンセンスの無さには驚かされるが、沖縄の基地問題という定点から見れば、既に見てきたように、戦後の日米関係を牛耳ってきたアメリカの要人たちは、皆、トランプと同根であったことが、浮き彫りにされてきた。

 トランプの投げかけた真意は? 沖縄を含めて、日本列島からの米軍撤退ではなく、「もっと、軍事費を負担せよ、金をよこせ」、という商人根性だろうと思うが、情けないことに、安倍政権は、アメリカ追従というか、自立した精神を持たない政権なので、74年間も占領軍意識を堅持しているアメリカの流儀を変えさせることはできないだろう。

 沖縄にとどまらず、日本全国に散在する米軍基地の問題、米軍の「地位協定」の問題は、トランプが大統領であるうちに、交渉のテーブルの上に置かせるべきである。安倍政権にできないならば、別の政権確立を目指すべきだろう。日本は、国民をあげて、アメリカにすがりつくだけの思考停止から脱し、米軍と自衛隊の意味を一から議論する時が来た、と言えるだろう。

贅言;那覇市などがある沖縄本島の19.3%がアメリカの基地として、今も収奪されている。沖縄県全体では、アメリカの基地の割合は10.7%にも及ぶ。

 しかし、コモンセンスの無さは、トランプに限らない。1972年、日本への沖縄返還に際して、日本政府は、返還協定に基づき、多額の「特別支出金」をアメリカに支払った、という前歴があるので、アメリカから見れば、前回の返還で金を貰ったのだから、今後の基地返還でも、金をもらうのは当たり前だと思っていても不思議ではないのかもしれない。それだけ、日本は、アメリカに舐められている、ということなのだろう。

「憲法くん」にのしかかる、沖縄の、幾層もの重い石

 私の同級生「憲法くん」に、本来の生活を味わってもらうために、沖縄での「憲法くん」に対する私のイメージは、こうだ。下から上に次々と重なる幾層もの重い石の層のイメージ。→ 「重いよ! のけてくれ!」憲法くんの「悲鳴」が聞こえてくるようではないか。

 日本国憲法<日米安保条約<日米地位協定(・日米合同委員会)<アメリカ政府<トランプ大統領

 やはり、沖縄は、日本国憲法を頭に戴く普通の社会にしなければならない。トランプを退け、アメリカを退け、日米地位協定を退け、日米安保条約を除けなければ、沖縄は、普通の県にならないのではないか。これは、手続き的には、非常に明確なことだ。手続きは、以下の通り。

 日米安保条約の第一〇条には、こう明記されているのをご存知だろうか。

 「この条約は、日本区域における国際の平和及び安全維持のため十分な定をする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。もっとも、この条約が一〇年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後一年で終了する。」

 さらに、日米地位協定の第二八条には、また、次のように明記されている。

 「この協定及びその合意された改正は、相互協力及び安全保障条約が有効である間、有効とする。ただし、それ以前に両政府間の合意によって終了させた時は、この限りではない。」

 ただし、アメリカ政府は、最後は、「伝家の宝刀」を使う。例えば、「岡崎・ラスク方式」。「岡崎・ラスク方式」とは、日米行政協定調印時(1952年2月)に日米両政府が締結した岡崎・ラスク方式交換公文で合意された、という。「合意」は、私にはかなり強制されている印象を受ける。その内容は、こうだ。「米軍が継続使用したい基地や施設について日米合同委員会で協議し、両国の合意が成立しない場合には暫定的に米軍が使用できる」というもの。日本政府は、独立回復によって米軍が占領していた基地や施設の返還を要請しても、アメリカ政府が拒否をするので、暫定使用ということになり、暫定使用が繰り返され、結果的には、無期限の選挙を受け入れざるを得ないというのが、実態であろう。

 こうして、条約や協定の「対等感」ある文言と裏腹に、日米合同委員会では、アメリカ政府の意向がいつもゴリ押しされてきた。既に、日米行政協定調印以来67年も続くゴリ押しだ。日米合同委員会の議事録は、長らく非公表だった(現在は、外務省のホームページで読むことができる)。

 例えば、1972年5月15日、沖縄の施政権が、アメリカから日本に返還された。つまり、日本本土より20年遅れて、アメリカによる沖縄「占領」が、終了となったのだ。この日に、日米合同委員会が開催されている。日米合同委員会では、沖縄にある米軍基地に関する協定が締結されている。沖縄県内の87ヶ所287㎢の米軍基地が日米地位協定に基づいて「提供」されることになった。「占領」から「提供」に変わったというわけだ。在沖縄の米軍基地の使用条件や期間などの詳細を定めた「五・一五メモ」が、日米両国の合意の下に作成された。このメモのポイントは、在沖縄米軍は、原則として返還前(占領中)と変わらぬ基地の使用が認められている、という。

 沖縄とアメリカの関係の実相は、以下のようなことだろう。

 1945年、占領。1952年、サンフランシスコ講和条約締結後も、引き続き、占領。1972年、返還後も、米軍は駐留(事実上の占領)の継続。

 日米合同委員会の合意議事録が、沖縄を支配している。山本章子『日米地位協定』から、引用する。合同委員会の「目的は、日米行政協定で確保した米軍の既得権益を、日米地位協定への全面改定後も温存することにあった」、という。

小説『宝島』、「戦果アギャー」たちの抵抗

 真藤順丈『宝島』は、直木賞受賞の沖縄が舞台の物語である。戦前、つまり、先の戦争中に生まれた子どもが、少年少女の年齢になる1952年から、大人になり、沖縄の本土復帰(返還)を迎える1972年までの20年間の物語である。エンターテインメントの、一種の冒険活劇であると同時に、沖縄の歴史の物語でもある。

 小説の中心人物たちは、沖縄の言葉で、「戦果アギャー」(米軍基地に忍び込み、軍需物資を盗み・略奪する若者たちのこと)のグループ。リーダー格であるオンちゃんとその弟レイ、親友のグスク、恋人のヤマコらの生活と意見を勢いのある会話や文体で活写する。真藤は、東京出身の作家だが、沖縄言葉の会話のキレが良いのには、感心する。

 日本国内で、住民の生活圏そのものが日米軍の戦場になった沖縄。それだけに、敗戦後の、焦土と化した沖縄で、泥棒のような行動でもとらなければ、沖縄の子どもたちは生き延びられなかっただろう。生き延びるだけでなく、沖縄の日常的な生活圏が戦場となり、住民の4人に1人が命を落とした地上戦を繰り広げた米軍への「ささやかな」報復・復讐の意味も持っていたかもしれない。作家の筆致は、冷静である。

 オンちゃんは米軍基地や施設から奪った米軍の食料品や生活必需品などを基地周辺の被災住民に分け与え、住民からは英雄視されていた。しかし、ある夜、嘉手納基地に忍び込んだ彼らは米軍兵士に狙撃され、仲間の何人かは命を落としたり、捕まって投獄されたりした。その上、彼らのリーダーであるオンちゃんは、行方不明になってしまう。不死身で頼り甲斐のあった「あのオンちゃんが死ぬはずはない。」とグスク、レイ、ヤマコは必死にオンちゃんを探し続けるが、なかなか有力な情報に巡り合えない。

 3人は成人になるにつれて、それぞれの道を歩き始める。1人は警察官、もう1人は、それと真逆のテロリスト、ヤマコは、組合活動も熱心な教師と、別々の道へ進む。道は違っても、それでも、3人は、オンちゃんを探し求め続ける。

 3人のそれからの物語の中で、宮森小学校米軍機墜落事故や米兵による女子への暴行・殺害、コザ暴動など、当時の沖縄の歴史も描写される。史実を重視したフィクションで、エンターテインメント味もたっぷりの小説。結末まであまり紹介すると、読者の興を削ぐことになるので、この程度にとどめるが、小説の背景には米軍に拠る日米地位協定の強引な遂行も滲みだされてくる。

 「戦果アギャー」たちが本気で狙いたいのは、在日米軍の「地位」(Status of Forces)という既得権益ではないのか。そういう視点で、このエンターテインメント小説を読むと、これは、形を変えた「日米地位協定」の解説として、読めてくる。そういう読み方もできる、ということだ。『宝島』は、『日米地位協定』と合わせて読むと良いかもしれない。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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