【コラム】
大原雄の『流儀』

「憲法くん」という、私の同級生(2)~朝鮮戦争の影~

大原 雄


1947年9月―1951年3月

 『あたらしい憲法のはなし』は、1947年8月に刊行され、それ以後、1950年度(51年3月)まで、4年間、新制中学校の1年生の社会科の「教科書」あるいは、「副読本」として使用された、とういうことを先々号のこの欄で書いた。当時(1935年生まれから1938年生まれまでの人か)、中学校の1年生だったというある人は、次のような体験を書いてくださった。
 「わたしも中学1年で『あたらしい憲法のはなし』を、心をときめかせて読んだ記憶があり、未来がとてつもなく輝かしく思えたことを、今でも鮮明に思い出すことができます」。

 同じく教室で学んだという別の人(35年生まれ)は、「橙色の表紙(の教科書)、いかにも進駐軍おしつけ」という印象を持ったと寄せてくれた。外地育ちのこの少年は、「進駐軍おしつけ」に反発し、当時巷で見た「アメリカ映画やスペイン映画」が「僕らの先生」だったと書いてきた。

贅言:「進駐軍」という古い表記が出てきたので、若い人のために説明しておこう。「占領軍」「進駐軍」「駐留軍」「在日米軍」など、ある軍隊を表現する用語がある。ウィキペディアの説明を見よう。

「占領軍」:「他国の領土を武力によって支配している軍隊」。 第二次世界大戦後、日本に「進駐」した連合国軍、あるいはその機関である連合国軍最高司令部(通称「GHQ」)は、日本では、「占領軍」と呼ばれた。ポツダム宣言の執行のために日本に置かれた連合国の機関。マッカーサーが、最高司令官であった。占領期間は、1945年から1952年までの7年間。

「進駐軍」:「他国に進軍して、そこに駐屯している軍隊」。第二次世界大戦後、日本に進駐・駐屯した連合国軍の俗称。

「駐留軍」:条約協定などによって外国に派遣され駐在する軍隊。在外居留民や権益保護のために駐在するか、相互あるいは集団安全保障条約の下に、その国の防衛のために駐在する。占領軍の方が正確な表記である。

「在日米軍」:日米安保条約第6条および日米地位協定に基づき日本に駐留するアメリカ軍。1952年の連合国軍の占領終了後も、占領軍のうち、米軍のみ引き続き駐留することを決めた。以来、日本に居座っているのが在日米軍。「日米地位協定」により、日本政府は、在日米軍に片務的に特権を与えている。日米地位協定は、日米両国のどちらかが「終了」を申し出ない限り半永久的に有効となっていて、日米外交政策は、これらの相互義務関係に拘束されている。沖縄をはじめ、日本各地に基地などを持つ在日米軍の問題は、日本の「アメリカによる占領」が、今も続いていることを示している。

 先々号で、引用しなかった『あたらしい憲法のはなし』の「戰爭放棄」の原文は、次のようなものである。

「六 戰爭の放棄」
 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。

 先に引用したように、当時の中学生が、「心をときめかせて読んだ記憶があり、未来がとてつもなく輝かしく思えた」という印象を持ったというのが、今もリアルに感じられるのは、この部分であろうか。

日本国憲法・前文

 『あたらしい憲法のはなし』には、次のような記述がある。

「三 國際平和主義」
 國の中で、國民ぜんたいで、物事をきめてゆくことを、民主主義といいましたが、國民の意見は、人によってずいぶんちがっています。しかし、おゝぜいのほうの意見に、すなおにしたがってゆき、またそのおゝぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく國の仕事をやってゆくのでなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。
 これは、一つの國について申しましたが、國と國との間のことも同じことです。じぶんの國のことばかりを考え、じぶんの國のためばかりを考えて、ほかの國の立場を考えないでは、世界中の國が、なかよくしてゆくことはできません。世界中の國が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、國際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この國際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。こんどの憲法で民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの國にたいしても國際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。この國際平和主義をわすれて、じぶんの國のことばかり考えていたので、とうとう戰爭をはじめてしまったのです。そこであたらしい憲法では、前文の中に、これからは、この國際平和主義でやってゆくということを、力強いことばで書いてあります。またこの考えが、あとでのべる戰爭の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。

 当時、12歳の少年少女たちが、「心をときめかせて読んだ」という文章が、上記のものである。子どもたちは、戦禍の残る町並みで、不自由な日常生活を送りながらも、「未来がとてつもなく輝かしく思えた」という。そして、その思いを、傘寿を過ぎたであろうか、という年齢になった「今でも鮮明に思い出すことができます」というのである。そういう輝かしき教科書・副読本は、なぜ、4年間使用されただけで、その後、つまり、51年4月以降、教育の場から消えてしまったのだろうか。あるいは、1959年から61年まで中学校生活を送った「後発」の私が覚えているように、別の形で、『あたらしい憲法のはなし』は、当時の社会科教育の教材として、活かされていたのだろうか。古希を過ぎたばかりの私の記憶は、「別の形」を思い出させるが、定かではない。

1950年6月―1953年7月

 当時、朝鮮半島では、日本の敗戦で朝鮮半島の植民地支配に終止符が打たれたが、朝鮮民族は、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)に分断され朝鮮半島を巡る主権を争っていた。1950年6月25日に北朝鮮軍が南下して韓国軍との間に戦争となった。いわゆる「朝鮮戦争の勃発」である。戦争状態は、3年後、1953年7月27日にアメリカを軸とする国連軍と中国・朝鮮連合軍との間で休戦協定が署名されて、「休戦」となったが(韓国軍は除かれていた)、朝鮮半島の「戦争」状態は、現在も続いている。

 既に触れたように、朝鮮戦争勃発は、1950年6月だったので、私は、まだ、3歳半。当然ながら、戦争勃発の記憶はない。私が、子どもの頃、戦争という言葉の記憶があるのは、1953年7月の朝鮮戦争休戦の方かもしれない。6歳半。これなら、小学校1年生。53年4月新入学。新入生の1学期が7月25日に終わり、初めての夏休みを迎えたばかりの頃。記憶は、なぜか、「戦争という言葉」として残っている。子ども同士の会話で、「戦争」の事柄が登場したのだろう。私は、なぜか、自分の記憶として、「日本は、戦争に負けたが、それ以前は、負けたことがなかった」というような意味のことを子どもたちの会話の中で、言ったか、聞いたか、したような気がするのだ。友だちは、そういう知識がなかったから、黙り込んでしまった、ように記憶している。私だって、戦争について知識があるわけではなく、大人同士の会話から聞きかじったことを述べたに過ぎなかったであろう。
 1947年生まれで、戦争体験もなく、戦後の焼け跡・闇市も知らず、戦争について、なんらの具体的な知識や体験も持っていない子どもであった。そういう子供心にも、ひどい目にあった「先の戦争」から、数年のうちに朝鮮戦争が勃発し、休戦になった、という日本の戦後を取り巻く歴史の緊張感と弛緩は、影を落としたのかもしれない。朝鮮戦争の影は、遠雷のように、幼かった私の記憶に響いて来る。この思い出は、突出した断片として、いまだに私の記憶層に突き刺さったままである。

1945年9月―1952年4月

 1951年9月8日。日本政府は、通称「サンフランシスコ講和条約」に調印した。
 この条約は、52年4月に発効し、日本は、1945年9月から続いていた連合国軍による占領期から脱した。私は、5歳になった。翌年から、小学生になる年齢だ。占領軍から進駐軍に替わったアメリカを軸とする駐留兵士らは、休日になると銀座などの街へ繰り出した。私が住んでいた豊島区の商店街のある街で、そういう兵士たちの姿を身近に見かけたわけではない。

 それまで自宅やその周辺を遊び場にしていた私は、53年4月、小学校の1年生になり、学区内の友達の住む遠くの街まで遊びに出かけるようになった。街には、まだ、焼けたビルなども残っていた。地下に掘った防空壕の後の空間を居住空間として利用し、トタン板を屋根に拭いただけのバラック小屋で生活する同級生の家族もいた。放課後には、街の商店街を通り抜け、小学校への通学路を辿り、学校から先は、教えてもらった友だちの通学路をなぞって、大通りを横切り、見知らぬ遠くの街へ出かけるようにもなった。
 途中で、坂道を行く馬車にも出会った、という記憶がある。当時は、まだ、馬車が使われていたのだろうか。大通りでは、見かけなかったと思うが、車に混じって、こういう荷を引く馬車も走っていたのだろう。時折、荷車を引く馬が馬糞を落として行った。「馬糞を踏むと背が伸びる」と主張する同級生もいて、争うように馬糞を踏み、馭者に叱られた記憶もある。

 当時、「省線」と言っていた山手線の通る駅前には、都電が通る大通りがあり、少年である私には、大きな人間に見えた進駐軍の兵士たちにも、この大通りなら出会ったかもしれない。怖々と外国人の兵士を見詰めた。はち切れんばかりの米兵のズボンの尻を見ていたかもしれない。45年以前の戦争は、全く知らないにせよ、52年を軸に占領軍から進駐軍へと「替わる」外国人兵士たちの群れ。それにまとい付く日本人の女たち。50年から53年と、朝鮮半島をホットにした朝鮮戦争が、大きな影を落とす。『あたらしい憲法のはなし』という教科書・副読本は、47年8月に生み出され、47年9月から51年3月まで、4年間だけ中学校の1年生たちに日本国憲法の本義を教えて、消えて行った。その背景には、GHQにおける「変化」があった。

GHQにおける「変化」

 1945年、米軍を軸とする連合国軍(日本に進駐した連合軍のうち、4分の3は、米軍であった)は、ポツダム宣言の執行を監視するために日本を占領した。最高機関として、極東委員会、最高司令官の諮問機関として対日委員会が設けられた。その傘下に置かれたGHQ(連合国軍最高司令部)が全面的に占領業務を遂行する。GHQの最高司令官は、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥。マッカーサー元帥は、戦前の日本の制度として天皇制の上に君臨し、戦後日本の体制を再構築する役目を担った。天皇の上に元帥が居座った形となっていた。

贅言;全部で13ヶ条からなるポツダム宣言のうち、重要なのは、次の条項(抄録)だろう。

* 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る
  機会を与えられる。
* 日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。
  日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨
  げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並び
  に基本的人権の尊重は確立されるべきである。
* 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争
  と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰
  が許可される。
* 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立
  を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍
  は撤退するべきである。
* 我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動につ
  いて日本政府が十分に保障することを求める。

 当初、GHQは、軍国主義日本を解体し、その見返りとして天皇制を残す施策を実施しようとしていた。そのための活動の主軸となるべく、戦後日本の「非軍事化・民主化」政策で主導権を発揮したのは、GHQの「民政局(GS)」であった。GSはアメリカのルーズベルト政権下でニューディール政策に携わった者たちが多数配属されていて、日本の構造改革に力を尽くした。

 GHQは、このように、GSを軸に「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年、日本共産党主導の2・1ゼネストに対して、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義・社会主義の防波堤にしたいアメリカ政府の思惑で、これまでの対日占領政策は「転換」された。

贅言;戦後の、この時期の歴代内閣は、次の通り。幣原喜重郎内閣(1945年10月―46年5月)、吉田茂内閣(1946年5月―47年5月)、片山哲内閣(1947年5月―48年3月)、芦田均内閣(1948年3月―48年10月)、吉田茂内閣(1948年10月―1954年12月)。

 GSは、片山哲内閣(1947年5月―48年3月)、芦田均内閣(1948年3月―48年10月)を支持し、戦後日本の運営にあたっては、「非軍事化」を軸に図ろうとした。

 1950年6月勃発から1953年7月休戦となった朝鮮戦争などが、GHQの「変化」に大きな影を落とす。マッカーサー総司令官もホイットニー民政局長もケーディス民政局次長もGHQの方向転換に反対したが、アメリカ本国の国務省が転換を迫った、という。そして、この意向を受けた第三次吉田茂内閣は、政策を中央主権的に変えた。公職追放指定者の処分解禁、それと逆のレッドパージの実施などにより、政治的な保守勢力が勢いを増すようになった。GHQも、「日本の民主化」を進めていたコースを逆に走り始めた。

 GHQの中で、GSに代わって、勢力を増してきたのが、G2である。G2は、GHQの「参謀第2部」の略称で、部長は、チャールズ・ウイロビー。諜報活動や検閲を担当した。日本語文書の収集・翻訳などを任務とした。さらに、1946年6月からは、外国使節とGHQ機関、GHQと日本政府との間の公式の連絡業務も担当するようになった。G2部員の情報将校ジャック・キャノンは、対敵スパイ工作を担当していて、「キャノン機関」と呼ばれた。

 GHQの中で、占領初期から積極的に戦後日本の民主化政策を推し進めたGSと朝鮮戦争以降、力をつけてきたG2とは、しばしば対立した、という。

 G2は、吉田茂内閣を支持し、朝鮮戦争で変わった極東の国際的な政治情勢に合わせて、それまでGSが主導してきた戦後日本の「日本の民主化・非軍事化」コースを転換、「再軍備」に象徴されるように、いわゆる「逆コース」と呼ばれる方向に戦後日本を運営する方針に切り替えて行った。戦後日本の運営は、基本的に、この逆コース路線の上に現在の安倍政権も乗っかっている、と言える。

『あたらしい憲法のはなし』への影響

*1945年~1952年が、アメリカを軸にした連合国軍の占領期間。

*1947年~1951年が、『あたらしい憲法のはなし』という教科書及び副読本が中学校の教育の場に持ち込まれた期間。連合国軍の占領期間が、『あたらしい憲法のはなし』という教科書及び副読本をすっぽりと包み込んでいる。

*1950年6月。隣国を分断して戦われた朝鮮戦争が勃発した。隣の国=朝鮮半島(韓国と北朝鮮)との海域や国境周辺は、俄かにきなくさくなった。1953年7月、朝鮮戦争休戦協定成立。私は、小学校1年生で、初めての夏休みを楽しみにしていた頃だろう。確か、この年の夏休み、8月だろうか、私は、母に連れられて妹たちとともに、東北線の機関車(SL)に乗り込み、福島県へ旅立っていった。石炭を炊く機関車は、黒煙をモクモクと吐きながら走る。窓を開けていると黒煙が客席に入り込むので、開けっぱなしにできない。郡山駅へ滑り込む。ホームのアイスキャンディー売りの売り声。甘い「アイス」の味わい。母の手作りの弁当。はしゃぐ妹たち。朝鮮戦争が休戦になったことなど、当時の私には、頭の片隅にもない。

*1946年5月~47年5月が、第一次吉田茂内閣、1948年10月~1954年12月が、第二次以降の吉田茂内閣。日本は、「逆コース」へと進路を変えた。GHQの変化(GSからG2へ)=「非軍事化」から「再軍備」へ。

 『あたらしい憲法のはなし』は、まさに、この時期の国際情勢(特に、朝鮮戦争勃発と休戦)、GHQの変化(GSからG2へ)、国内政治での吉田内閣の登場などという、日本内外に遅寄せた「逆コース」の荒波に翻弄され、大海原へ流されて行ったのかもしれない。朝鮮戦争の勃発が、日本を再軍備へ、と引っ張っていった。占領期が終わると、日米安保条約、日米地位協定が、日本国憲法の上にのしかかってきた。朝鮮戦争の影が、『あたらしい憲法のはなし』という教科書及び副読本に大きな影を落としたのだろう。それ以来、朝鮮半島、沖縄では、特に、アメリカという、いわば「被覆電線」は、裸のままむき出しになっていて、触ればビリビリするような状況が、戦後74年も経っている現在でも実は続いている、と言えるのである。

 しかし、51年3月から8年後。私の記憶では、1959年4月に入学した中学校の教室で、私も、『あたらしい憲法のはなし』という教科書も、副読本も、原文は読めなかったかもしれないが、素人っぽいが、独特の味のある挿絵は、強烈に印象に残っている。だから、私は、挿絵そのものは、当時、実際に教室できちんと見ているのだろう、と思う。原文は読めなかったとしても、同じような内容を伝える文章は挿絵とともに読んだのではないか、と私が推測する所以だ。

 橙色の表紙の教科書そのものは、中学生の前から姿を消されたとしても、1951年4月以降も、小中学校で使用される社会科の教科書や副読本では、この挿絵が、日本国憲法誕生関連の記述に添えられて使われることがあった、という説もある。このことから感じるのだが、私の中では、「憲法くん」という私の同級生は、私にとっては、やはり、永遠の同級生であり続けるのだ、と強く思う。

2019年

 2019年5月1日から、天皇が「後継(交代)」し、元号も、「平成」から「令和」へと変わった。私は、古稀を超えて、72歳になっていた。戦争を挟んで、戦前・戦後と分断された「昭和」という時代。戦争に巻き込まれずに通過した「平成」という時代。そして、「令和」。我が同級生、憲法くんも古稀を超えて生きながらえてきた。国民と天皇の関係は、変わるのか。日本国憲法には、ご承知のように、こう定められている。

〔天皇の地位と主権在民〕
 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 改元の結果、主権者たる日本国民と日本国の象徴・日本国民統合の象徴である天皇の関係は、どうなっていくのか。『あたらしい憲法のはなし』には、国民と天皇という関係について、どういう記述がなされていたか。国民主権という原理と天皇の関係を『あたらしい憲法のはなし』では、次のように述べている。

「四 主権在民主義」
 みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。いったい「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう。勉強のよくできることでしょうか。それとも力の強いことでしょうか。いろいろきめかたがあってむずかしいことです。
 國では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。もし國の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。もしおおぜいの考えできまるなら、そのおゝぜいが、みないちばんえらいことになります。もし國民ぜんたいの考えできまるならば、國民ぜんたいが、いちばんえらいのです。こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、國民ぜんたいの考えで國を治めてゆきます。そうすると、國民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。
 國を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が國民ぜんたいにあれば、これを「主権は國民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権は、とうぜん日本國民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第一條にも、「主権が國民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が國民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。(以下、略)

「五 天皇陛下」
 こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とうとう戰爭になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。
 憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう。國旗が國の代わりになって、國をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまこゝに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一條は、天皇陛下を「日本國の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の國をあらわされるお方ということであります。
 また憲法第一條は、天皇陛下を「日本國民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです。
 このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。

 『あたらしい憲法のはなし』から、何度も長めに引用したが、引用文をできるだけ短くしたい、と思いながらも、この「はなし」を書いた著者の文体は、独特でなかなか、捨て難いものがあり、あまり短くできなかったことをお詫びしたい。

 2019年の「改元」という事柄をメディアは、今回、どう伝えたか。天皇という国家機関。この「機関」は、国政に関する機能を有しない。国事に関する行為のみを取り扱う機関である。天皇は、日本国の象徴、日本国民統合の象徴。何らかの行為をすることに意義のある機関なのではなく、存在することに意義のある機関である。天皇が交代するということは、この日本国の象徴、日本国民統合の象徴という機関にとって、どういう変化があるのか。そういう天皇の交代と改元は、主権者たる国民に、どういう影響を与えるのか。マスメディアもネットメディアも、そういう根源的な問題に答えるような報道をしているのかどうか。まだまだ、きちんと報道されていないと思う。「改元フィーバー」にしか過ぎない過剰で、それでいて、上っ面な報道。メディアの大義が、権力の監視にあるならば、天皇という国家機関にも監視の機能を果たさなければならない。「改元フィーバー」だけの報道では、国民の知る権利に応えられていない。

 国民のためにメディアの大義を果たすのは、マスメディアか、ネットメディアか。事実の検証と事実の背後にある真相を見抜く卓見。つまり、ジャーナリズムの精神。それがあれば、マスメディアであろうとネットメディアであろうと、どちらでも良い。私もプロフェッショナルの自負を持って長年、マスメディアにおいて組織ジャーナリストの一員として仕事としてきた。退職後は、組織を離れたフリージャーナリストとして、ネットメディアの片隅で、論陣を張ってきた。マスメディア、ネットメディア、どちらにも加担しない。要は、ジャーナリストとしての卓見・精神を持っているのは、どちらか、ということだろう。報道の自由は、国民の知る権利に応えてこそ、初めて保証される。これこそが、メディアに要求されている監視機能だろう、と思う。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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