【コラム】風と土のカルテ(110)

「心のうぶ毛」を大切にした中井久夫医師

色平 哲郎

 日本独特の「医局講座制」について書かれた本は少なくない。
 山崎豊子の小説『白い巨塔』も、大学教授をトップとする、
 医局講座制のピラミッド構造が大前提になっている。
 
 最近は、医療現場の改革も進み、大学医局の閉鎖性や教授が中心のパターナリズムも薄れたようだが、先人たちの「たたかい」がなければ、日本の医局は今でも因習に縛られていたのかもしれない。
 「たたかい」の先陣を切った医師の1人に、昨年亡くなられた精神科医の中井久夫先生がいる。
 
批判の中にも人間的な温かみ
 
 中井先生は、楡林達夫というペンネームで1963年に『日本の医者」(三一書房)を著した。
 2010年に日本評論社から復刻版が出版され、同書の第2部「抵抗的医師とは何か」には、次のくだりがある。
 
 
「結局、大多数の人間が、何とかなるさと思って入局する。
 医学界は、学生時代は比較的『たのしさ』を味わわせておいて、入局と同時に、ギルド的な一切を、全幅的におしかぶせてくるので、ひとたまりもなく医学生はその波にのみこまれ、こんど波間に浮かび上がった時は若年寄ふうの医学部特有の人生観になりかわっているのです。
 『医学生時代はたのしかったな』、入局後五、六年の人間が飲み屋で集まってうさをはらす時、落ちつく先はきまってこうです。
 
 しかし、ほんとうにたのしかったのか?
 ハイキング、パーティ、痛飲、――しかし、それらは青春共通のものです。
 教授の禿頭にキスする無礼講――医学部的馴れなれしさだが、まあいいでしょう。
 しかし、実習の討論は徹底的で、実験は研究に内在するよろこびときびしさにあふれ、講義は学問への意欲をもりたてるものであったか?」(p.100) 
 http://www.edu.hyogo-u.ac.jp/iwaik/teikou.html
 
 この文章は、1963年ごろに学生自治会などを介して医学生に配られた「パンフレット」にも記されている。
 のちに、当時のインターン生らによる「医師国家試験ボイコット運動」で勢いを増していく医学部闘争のアジビラなどに比べると、中井先生の文章に、冷静で人間的な温かみを感じるのは私だけだろうか。
 
 中井先生の経歴はユニークだ。
 1952年に京都大学法学部に入学するが、結核で休学し、55年に医学部に転部。京都大学ウイルス研究所でウイルス学を修め、64年に東京大学伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に移り、66年に京都大学より医学博士号を取得した。
 翌67年、東京大学医学部附属病院分院精神科に研究生として入り、以後、統合失調症やPTSDなどの臨床・研究で多大な功績を残した。
 先生は、ラテン語や現代ギリシャ語、オランダ語にも通じており、詩の翻訳やエッセイなど文筆家としてもすぐれた作品を残している。
 
 『中井久夫の臨床作法』(日本評論社、2015)は、中井先生の人となりを知るうえで貴重な本だ。
 中井先生とかかわった20人余りが寄稿し、先生の論文もいくつか再録されている。この本で、中井先生は、精神科の患者と家族、医師の「呼吸合わせ」の重要さを説いている。
 
 「ありうる合意としては、まず三者をまとめて医師が自己紹介を行ない(案外過去の主治医の名前を知らない患者とその家族がいるものである。これは一体どういうことだろうか)、そして『本人と家族の呼吸が合わなければ治るものも治らない』という表裏のない事実を述べるべきだろう。

 実際この”呼吸合わせ”が成功し持続するかどうかで治療の九割は決まるといって差支えないだろう」(p.183)
 
 この「呼吸合わせ」の大切さは他の診療科にも当てはまるだろう。
 
精神科医の心をも支えた
 
 医療界では、よく知られた話だが、心を病む精神科医は少なくない。
 長時間の激務や、強いストレス、あるいは患者からの影響でうつ状態になり、自ら命を断つケースもある。
 『中井久夫の臨床作法』の寄稿者の一人、精神科医の胡桃澤伸氏は、研修医時代を振り返り、当時の指導医から打ち明けられた話を、次のように書いている。
 
 「中井先生はうち(神戸大学)の教授を引き受けたとき、在任中は医局からひとりの自殺者も出さんようにと決めてきはった。中井先生にはそういう決意っちゅうか、配慮があんねん。わかるやろー」(p.99)
  
 中井先生は、研修医を気遣ってこまめに手紙を出したり、声をかけたり、自宅に招いて話し込んだりしたという。
 胡桃澤氏は同書の中で、「私の三冊」の1つとして中井久夫著作集第5巻『病者と社会』(岩崎学術出版、1991)の「精神病水準の患者治療の際にこうむること」を挙げ、こう記す。
 
 「統合失調症をはじめ精神病圏の患者の治療をする際に治療者の側が受ける影響とその対策を述べている。これも研修医のうちに一度は読んでおいた方が良い。一見スムーズなまきこまれない治療ではなく、繰り返しまきこまれ繰り返し抜け出しを繰り返しながら前へ進む治療を志していたので、この論文は肌身離せなかった」(p.102)
 
 中井先生は患者が持つ繊細さや敏感さを「心のうぶ毛」と呼び、これを擦り切らせないよう患者と向き合った。
 患者はもちろんのこと、弱い立場の医学生や精神的な負担が大きい精神科医など、助けを求める人々に中井先生は「希望を処方」していたようだ。
 
 日経メディカル 2023年6月30日 色平哲郎 
 
 ※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2023年6月30日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集事務局にあります。

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202306/580252.html

(2023.7.20)
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