【コラム】
1960年に青春だった!(8)

「小茶」のおばちゃんと若すぎたツバメ

鈴木 康之

 早稲田の仏文科は入りやすい二文のほうに滑りこみました。夜学です。
 通学初日、教室で隣り合わせたやつに「新宿へ酒呑みにいかないか」と誘われました。外はとっぷりと暮れていて、裏門から街に向かいながらこれから始まる夜学生活に心が躍ったものでした。

 向かったのは新宿旧和田組、ハモニカ横丁。草野心平さん所縁の店「火の車」の戸を開けました。2人とも18歳、角帽、詰襟です。凄みのある女将に見抜かれました、「あんたたちはひとすじ向こうの小茶さんへ行くといいよ」。

 「小茶」は同じ建て付けの四角いハモニカの一穴。腰掛け3つ3つのカギ型のカウンター。小太りで和服に白い割烹着のおばちゃんは眼差しに愛嬌があり、話すと歯切れがよくて。低ニコチンのしんせいを吸っていました。
 飲み物は一番安い二級酒、初めのうちはお通しだけにするのよ、と小皿に沢庵の薄切れが半月で数枚。これが呑み屋の筆おろし実習でした。

 文学部進学は親が許さなかったため月謝と小遣いはアルバイトで稼ぐことに。新宿駅近くの文化服装学院にいい仕事を見つけました。
 月刊誌『装苑』の梱包作業です。全頁アート紙の分厚く重たい雑誌で、全国各地の教室へ20部30部と脂紙で包むのですが、中腰でまたがって硬い脂紙を手で叩いて折る。たちまち手首が熱を持って腫れ上がりました。

 4日3晩講堂に泊まり込み。毎日4回の仕出し弁当。印刷所から次の便が来る間に仮眠。紙の山の中は冬でもほかほかでした。
 給金が割高で、ゆるいアルバイトの1ヶ月分を4日で稼げました。終わったら帰って死んだように眠り、翌日夕方いそいそと「小茶」へ足を向けました。

 在学4年間通い続けました。しかも週に何度も。バイトのことを話しましたので認められた未成年客でした。
 五反田から山手線で高田馬場まで行く気になれず、新宿で途中下車。
 開店前、おばちゃんは店の外に腰掛けてしんせいをくゆらせていました。カウンターの中より広くて楽だったからでしょう。

 おばちゃんが辛そうに肩を叩いていると、心得たとばかりにボクが揉んであげました。ときには「背中が痒いのよ、泉田さん(ボクのペンネーム)、掻いてくれない」といわれ、応じました。着物の襟の中は窮屈でした。奥手のボクの手は女性の肌の初体験。柔らかさと温かさを感じとりました。

 しかし和服で割烹着姿のせいか、当時60を過ぎていたお袋と同じように見ていましたので、ボクに変な気は起きませんでした。
 ある日おばちゃんが笑っていいました。「まわりのママたちがさ、泉田さんのこと、若いツバメだって噂してるよ」。平塚らいてうと奥村博史てか。

 ハイティーンのきれいな娘さんが何度か店に来て、器洗いなど手伝っていたことがありました。でもおばちゃんは紹介してくれるでなく、本人も客と目をあわせるでなく。客のほうも心得ていて気易く話しかけるわけでもなく。

 近ごろの店は客も店側も喧しい。プライベートな話題でも相客の耳に筒抜けです。「社会の窓」があいているよ、と突いてやりたくなります。
 「小茶」のことで聞くとはなしに知ったことはおばちゃんの姓ぐらい。

 卒業後5年間は手仕事を急いで身につけなければならず、寝る間も惜しんで働きました。おばちゃんは遠きにありて思ふものになりました。
 2つ目の勤め先になった頃、「小茶」は立ち退きで区役所近くの一番街に越していました。ときどき暇を見つけて顔を出しました。
 27歳で結婚したとき、誰よりも先にと挨拶に行きました。ボクの好きな漬物を鉢に山に盛ってくれて「ご祝儀だよ」。

 「小茶」の初日から半世紀あまり経ったある日、パソコン上にあるホームページが開き、目が点になりました。
 雲に隠れていた月がくっきり顔を出したように、おばちゃんの眩しい笑顔がありました。「在りし日の」とされて。

 自己紹介がわりにボクの思い出を綴り、「合掌」で結んでinfo.に送りました。
 折り返し返信が来ました。

 「小茶の美緒です。」

 拙文をホームページに載せたそうです(いまは消えています)。
 ボクが見た娘さんは美緒さんの10歳上の姉のほうだということ。
 おばちゃんの姓は「栗間」。知っているとおりでした。
 別居中の旦那さんの姓から籍を抜き「青柳フジ」さんに。
 生涯無休だったそうです。女手一つで娘2人を育てあげました。
 最後の店は、表口がお母さんの「小茶」、裏手が美緒さんのバー「小茶」。

 ご苦労のほどが偲ばれます。
 美緒さんのメールにも「母の知的さ、底知れぬ頑張る力」と感謝と尊敬の思いが綴られていました。

 それから10年ほどして別なHPと出会い、悔しい情報を知りました。
 ボクより9つ下で、ハモニカ横丁時代から通いつづけてきた方が投稿し続けているHPで「風月庵だより」。

 平成8年12月25日没。享年82歳。
 翌年2月14日テアトル新宿を借り切った小茶葬が執り行われたそうです。
 一番街への移転資金のもといは常連客のカンパだったそうです。

 未成年のボクが和服の襟元から手を滑りこませた、柔らかくて温かいあの背中は38歳か39歳のそれだったのでした。その計算にようやく到達したボクは感極まって呆然自失。思わず知らず悲痛にも似た吐息を漏らしました。
 奥手だったとはいえ、なんと、もったいない。

 その後、あるYouTubeでもおばちゃんに出会えました。
 演歌歌手の小金沢昇司さんが「小茶」を訪ねるTV番組の一部です。

画像の説明
「小茶」栗間(青柳)フジさん

 80歳少し前になっていたでしょう。変わらず割烹着姿のおばちゃんは一升瓶を渡しながら「昇司さん、近ごろ忙しそうじゃないか」といいます、「苦労した甲斐があったじゃあないか」。
 「仕事、仕事、仕事さえあれば」。おばちゃんならではの言葉です。

 (元コピーライター)

 

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